主よ、人の望みの喜びよ - 3/3

 歌仙兼定の救出活動にはとりわけ大きな問題もなく、三方ヶ原へわたって間もなく件の部隊とは合流を果たすことが出来た。どうやら燭台切が想定した通り、その時間軸における霊脈に異常事態が発生したため交信することが出来なくなっていたに過ぎず、合流した歌仙は頬に切り傷のひとつすら負っていなかったほどである。
 彼らの無事を確認したのち、霊脈異常の原因を探りその根源を刀で断つ。斯くして戦乱の世に生まれんとしていた騒乱の種を摘み取ると、小夜たちは揃って本丸へ帰還した。
 ――その後のことは、特筆するまでもない。主は無事帰還した歌仙へしがみついて稚児のように泣き喚き、彼らに一頻り慰められることで、真っ赤に腫らした顔へようよう平穏を戻してゆく。小夜は座敷の隅でぼんやりとそれを眺めながら、切り伏せた敵の質感を手のひらで握り締めた。
 時間遡行軍の使者は小夜たちのような肉体を伴っておらず、枯れ果てた骸に怨霊を重ねることで人身に似た様相を成立させている。そのため敵へ突き立てる刃に肉の柔らかな質感はない、そのはずでありながら、小夜は怨霊を切り裂くたびに肉の裂ける感触を覚えていた。
 しかしながら今宵の戦においては、正しく敵の核を穿つことが出来た。肉の柔らかさも、血の生ぬるさも、皮膚を裂くぷつんとした感触もなく、靄の奥にある魂の硬さだけを感じていた。敵の本質を正しく捉えたうえで屠る質感が、指の根本に残っている。それを握り締めるように手指の開閉を繰り返しているうち、小夜の頬へ影がかかった。麦わら帽子を被ったわけではない、ただ別の存在が小夜と光源の間に現れたのである。
「小夜。今日は、ありがとう」
 主が、泣き腫らして赤みの残る顔を小夜へ向けている。畳へあえて座り込んだのは、小夜の低い目線を探り当てるためだろうか。なんとなく、昼間の畑での出来事が脳裏に浮かんだ。
「……僕は、別に」
「ううん。だって、助けてくれたのは、小夜じゃない」
 小夜の言葉をやんわりと遮って、ありがとう、と彼女は深く頭を下げる。白い首筋が小夜に対して露わになり、それを見下ろしながら、ああ、と息を吐く。首を垂れるのであれば、まだ、これのほうがいい。そんな思いが、まるで水中から水面へ向かって生まれる気泡のように、ぷかりと湧いた。
「助けたのは、僕だけじゃない」
 刀に対してさえ向けられる、人身同士が慮りあうような慈しみ。過ぎるほどに満ちた安穏の希求は、その指向性で以て刀に灯った意識を手招いている。
 理不尽な暴力に泣き濡れる弱い存在が、泣いて神に縋りながら平穏を求めるからこそ、自分は小夜左文字として成立しているのだと。彼女の白い首筋に不可解への解を見出し、小夜はその手をゆっくりと持ちあげる。
「……でも、あなたの望みが叶ったのなら、よかった」
 ごく自然な日々の営みを愛する人間がくさびとなるからこそ、小夜左文字の魂は怨嗟に呑まれた復讐鬼に成り果てず、人間の営みを守る神としてここにいられるのだ、と。まるでひとを愛するように小夜へ笑いかけた人間の頭に、小夜は人間を真似てそっと触れた。


First appearance .. 2023/09/10@yumedrop