主よ、人の望みの喜びよ - 2/3

 長閑で麗らかな様相の目立つ本丸も、夜の帳が下りれば緞帳の内側は大きく様変わりをする。『時間遡行軍』の襲撃は昼夜も時代も問わずに繰り返されているが、この本丸における出撃は決まって夜半だった。
 肉体を突き破った血と臓物の生々しさは、時空を跨いでなお小夜の琴線を微かに爪弾く。本丸内で待機している身ですら感じ取ることの出来る戦の気配は、安穏とした厨の湯気より小夜の気性にあっている。馴染んだ空気に眇める瞳は、刀身の切っ先と恐らく同じ。自然なかたちで浮かびあがる魂の本質を胸のうちで緩やかでなぞっていたとき、不意に皮膚が空気の揺らぎと衝突した。
 昼間のさざめきとは異なる質感に違和感を覚え、小夜はごく僅かな足音だけで廊下を進む。主の執務室――彼女が刀に宿る意識を過去へ送り込み、また彼らと交信する際に使われる座敷の襖は珍しくも開け放たれたままであったから、小夜が敷居を跨がずとも揺らぐ焦燥は彼の下にまで到達した。
「歌仙、歌仙! ねえ返事して、歌仙っ」
「落ち着いて、歌仙くんならきっと大丈夫。きっと、霊脈がちょっと不安定になっただけだよ」
「でも、いままでこんなのなかった! ねえ、歌仙ってば!」
 時空の流れさえもを超越して望んだ相手と意思疎通を図るための鏡は宵闇に塗りつぶされており、そこが水面のように揺らいで人影を映す様子はない。鏡に向かって悲鳴染みた声をかけ続ける主の姿へ内心で僅かに瞠目しながら、小夜は座敷のへりを容易く跨いだ。
「……歌仙に、なにかあったの」
 歌仙は確か、数刻前に三方ヶ原へ出陣していたはずだ。すわ非常事態かと尋ねれば、半ば恐慌状態に陥っている主をなだめていた燭台切光忠が小夜を振り返る。彼は瞬きひとつぶんの逡巡ののち、微かな笑みとともに「うん」と頷いた。
「ちょっと前から、歌仙くんと交信が繋がらなくなってしまって。最後の交信のときも目立った外傷はなかったから、大丈夫だと思うんだけど」
「でも、そのあとなにかあったかもしれないじゃない! 歌仙、ねえ、歌仙……!」
 小夜へ事実を伝えるべきか逡巡する程度には予想外でいて、しかし本丸内で待機している刀の意識を呼び集めるほどに異常事態とは言い難い。下す判断の難しい状況のなか、交信用の鏡を握り締めていた主がとうとうその場にくずおれた。
 かせん、と。名を呼ぶ声があまりにも弱々しいものであったから、小夜は突如発生した異常事態よりも、そのことに驚いてしまった。彼女は常に溌剌としていて快活な人物であったから、首の折れた百合の如き姿は想像したこともなかったのである。
「さよ」
 空気を僅かに擦る程度の、ぞっとするほどに細い声。彼女は落ちた首を持ちあげて、まっすぐに小夜を見つめる。その顔は、しとどにこぼれた涙で哀れましく濡れそぼっていた。
「さよぉ、どうしよお……」
 かせんが、かせんが。それ以外の言葉を失って泣きじゃくる姿に、ああ、思わず息が漏れた。その目を、小夜は知っている。
 自分の魂のかたちが生まれた最初、憎しみによって貫いた皮膚と臓器の血腥いあたたかさ。小夜に復讐の命を吹き込んだ指先に滲んでいた、恐怖と憤りによる震え。泣き濡れた彼女の哀れな姿は、あのときとまるで同じだった。
「あなたは、僕に、どうしてほしい?」
 理不尽な暴力に嬲られる、弱い命からあがる声なき慟哭が、女のかたちで以て小夜の眼前にくずおれている。だからこそ、小夜の魂を燃やす黒い炎が臓腑の裡でぞろりとその顔をあげた。弱いものへと押し寄せられる暴力の濁流、それに対する憎しみこそがその魂を小夜左文字のものにさせる。
「たすけて」
 けれど、彼女は柔らかい肉へ刃を突き立てようとしないから。小夜は言葉を失った。
「お願い、歌仙を助けて……」
 弱い命が、暴力へ叛逆せんと小夜に縋りつく。いつかは自らを蹂躙した理不尽への復讐のために、そしていまは、蹂躙せんとする理不尽への抵抗のために。
 そして、涙を流して首を垂れるその姿は、正しく神頼みであったから。
「……わかった。あなたが、そう望むなら」
 小夜は、自らへ縋りつく人間を見下ろして、そう頷いた。