主よ、人の望みの喜びよ - 1/3

 太陽がじりじりと頂点を焦がし、皮膚にはじっとりと汗が滲む。蒸発しきらない水気が頬を伝い、それを手の甲で拭って吐く息にすら熱がこもっている。肉体持つ生命のすべてを燃やさんとする夏の日差しは、けれど植物たちにとっては腕を伸ばすほど待ち焦がれていたものであったらしい。すくすくと伸びた苗の根本を覗き込むように畝の合間でしゃがみ込めば、緑の簾が生みだす影に頬を覆われた。
 日差しから逃げて安堵の息を吐いたものの、蹲っているばかりではここにいる意味もない。肩に引っかけた手ぬぐいに顔を押しつけてから曲げていた膝をまっすぐ伸ばせば、その瞬間、畑いっぱいに朗らかな声が広がった。
「あっ、小夜! 見つけた!」
 本丸の空気は常にさざめいているのに、そのなかでさえ彼女の声は明瞭に響きわたる。音の波が汗の残る小夜の頬に触れたと同時、この本丸唯一の人間が畑の合間を縫うようにして走りだした。
 短い距離だ、あえて駆け抜ける必要もない。だというのに彼女は小夜の下まで駆け寄ると、大仰な態度で怒りを露わにしてみせた。
「小夜、畑仕事するなら帽子被ってって言ったじゃない!」
「……ああ、そうだったね」
「そうだったね、じゃないの! 熱中症になったらどうするのよ」
 たとえ受肉したとして、小夜の本質は刀でしか有り得ない。それ故に人間のような振舞いや気遣いも必要はないのだが、彼女は小夜がそのように振舞うと、こうして稚く怒っては小夜を止めんと走り寄ってくるのである。いまも彼女の小脇には麦わら帽子が挟まれており、紺碧の飾り紐で彩られたものを「はい、これ被ってね」と小夜へ差しだしていた。
 たとえ刀であったとして、小夜の肉体は人間のそれと変わりない。彼女のその思想は、言葉にされずとも態度だけでよくわかる。たとえば浦島虎徹が手合わせの際に膝を擦りむけば彼女は誰より顔を歪めていたから、もしくは骨喰藤四郎が腹の虫を鳴かせれば嬉しそうに笑って間食へ誘うために。
「……うん」
 そのどちらもに、正しさは均等に含まれている。それを理解しているからこそ、小夜は差しだされた麦わら帽子を受け取ると、彼女の忠言通りにそれを被った。頬を焼く日差しが遮られ、肉体の頂点に停滞する熱がじんわりと溶けてゆく。ああ、確かにこれは心地好いものだ。小夜は僅かにその眦を緩ませた。
「ありがとう」
「どう致しまして。夏の間はちゃんと帽子被ってね、約束!」
 広いつばのためだろう、見あげてなお彼女の表情は小夜の視界に入らない。それでも浮かべる表情を想像することが易いのは、響く声に彼女の感情がよく溶けているからだ。「それじゃ、畑仕事頑張って!」安堵と歓喜、肉体を包む季節を思わせる活力。わざわざその場にしゃがみ込んで小夜の顔を覗き込む無邪気さののち、彼女はまた畑を走って縁側まで戻ってゆく。どうやら彼女は、小夜へ麦わら帽子をわたすためだけに外へ飛びだしてきたらしかった。
 正しさを多く含んだ、それ故に不可解な存在だとつくづく感じ入る。まるで人間の親が我が子を慈しむような寵愛、その感情自体を理解することが出来ないわけではない。ただ、それを自らへ向けられることが、小夜にとっては不可解なのだ。小夜左文字とは詰まるところ刀であり、刀に灯った意識である。それは、人間としての寵愛を受ける器を持っていない。
 だが、小夜の疑問など彼女は知るよしもないのだろう。畑から縁側へ戻った女性は虚空を見あげるように夏空と畑の色鮮やかさを眺めている小夜へ、にこやかな笑みとともに大きく手を振っている。小夜はしばし惑ったのちに彼女へ小さく手を振り返し、畑で一際のつややかさを帯びた実りの収穫へ戻ることにした。
 不可解な存在の一挙一動に気を取られているときほど、畑仕事は小夜のこころを慰めてくれる。無心で手を動かしているうちは、夜の竹藪から抜けださんとするように出口を追い求める意識が余分に憔悴しなくて済むからだ。真っ赤に熟れた実を捥いで、影の下で息を吐く。いっそ、この作業が終わらなければ良い。もしくは夜を望むほど、小夜にとっては主の存在が不可解だった。
 空はまだ高く、青く、視界を埋めるのは目の奥が痛むほど鮮やかに豊かな色彩の群れ。草いきれと濡れた土の香りが肺を満たすから、夜の遠さを実感する。