キッチンから愛を込めて - 3/4

 男の子はそれから毎日、私と一緒にキッチンでごはんを作ってくれた。
 どうやら彼がいるのはリビングとキッチンだけで、それも朝起きてからお夕飯を食べ終わったあとくらいまで。たとえばお風呂のあとお茶を飲みにきても彼はリビングにいなかったし、夜中にキッチンを覗き込んでも男の子がいた形跡はなかった。
 それでも決まった時間に誰かと一緒にごはんを作ることは、思っていたよりも、ずっと楽しい。お母さんが作ってくれるごはんを自分でも作れたときには達成感があったし、スーパーで買い物をしたついでにアイスを買ってきて、帰ってから男の子と一緒に食べるのは、学校帰りに友だちとコンビニに寄ったときみたいだった。
 そうして男の子とご飯を作って、野菜の皮を剥くのがちょっとだけ早くなって、お肉を繊維に沿って切れるようになった頃には、八月ももう終わろうとしていたから。私はお夕飯の後片付けをしながら、隣で冷たい麦茶を用意してくれている男の子に声をかけた。
「ねぇ」
「うん?」
「明日は、私ひとりでご飯作ってみていい?」
 きっと男の子は、夏休みが終わったらいなくなる。なんとなく、そんな予感があった。だから男の子がいなくなる前に、私の料理の腕を見てもらおうと思ったのだ。
「……うん。じゃあ明日は、頑張れ」
 彼は、眉の先をきゅうっと下げて笑っていた。その顔を見ていると、ああ彼もお別れが近いことをわかっているのだなと、そう感じずにはいられない。
「うん、頑張る」
 私は、食器を洗っていてびちゃびちゃに濡れた手でこぶしを作る。ちょっとだけ跳ねた水に、男の子はいつもと同じ声で笑った。

 そうして迎えた八月三十日、私は昼過ぎからお夕飯の準備へ取り掛かることにした。
 今日のメニューはオムライスにごろごろ野菜のコンソメスープ、枝豆とトウモロコシのミックスサラダ。夕方には通っている塾へ行くから、それまでに出来る限りの下ごしらえを進めておく。男の子とごはんを作るとき、いつもそうしていたように。
「ねえ、やっぱり手伝わなくて大丈夫かい?」
「だいじょぶ! ……なんか変なことになったら呼ぶけど」
「あははっ、そうだねえ。そのときは声かけてよ」
 彼はうちにきてからというものの、キッチンに立たなかった日がなかったから、リビングのソファで座りっぱなしなのが落ち着かないみたいだった。テディベアの隣に座って、日曜日のお母さんみたいにテレビを眺めているのに、ときどきこうしてキッチンの手前までなかの様子を覗きにくる。
 私もひとりで料理をするのは初めてで、実は少しどきどきしていたから、彼の顔を見るとそれだけでほっとする。そうやって、やっぱり男の子に助けてもらいながら、私は皮を剥いたニンジンをレンジにかけた。
 ニンジンだけは熱を入れて柔らかくしたら、それとジャガイモ、タマネギを入れてお鍋のなかに水を入れる。味つけはいつもお世話になっていますコンソメキューブに顆粒のコンソメで味を加えて、ローリエも入れて煮込み始める。
 トウモロコシは湯がいたものを食べるぶんだけ切って実を削ぎ、くっついた実たちを手でほぐす。枝豆は塩ゆでしたやつを昨日のお夕飯に食べていて、その残りを活用した。こういうとき、ちょっと得意な気分になる。余ったごはんを次の日にアレンジ出来るって、なんだかちょっとハイレベル。あとはこれにドレッシングをかけたら完成だから、サラダは盛りつけたお皿にラップをかけて冷蔵庫に戻しておく。
 お米は先に研いで炊飯器にセットすると、炊飯時間をタイマーでセット。最初は炊飯器のボタンも「炊飯」と「保温」しかわからなかったし、男の子も炊飯器の操作方法までは知らなかったから、お母さんに連絡して使い方を教えてもらった。いまではもう、迷わず塾が終わる時間にセットすることが出来る。
 塾の前に出来るぶんは、たぶんこれで全部。お鍋やボウルを片づけて、冷凍庫からアイスをふたつ取りだした。ふたりじゃないと食べられない、ふたりで分けて食べるやつ。「終わったぁ、アイス食べよ!」リビングに戻りながらそう言ったら、テディベアと一緒にテレビを見ていた男の子がぴょんっと軽快に立ちあがった。
「お疲れ様、よく頑張ったねぇ」
「まだ途中だけどね。あとは帰ってから」
 彼はいつも褒めてくれるから、それが嬉しいけど、ちょっとばかりくすぐったい。分けたアイスの片方を「はい」差しだせば、男の子は「ありがとう、いただきます」いつもと同じくのんびりした声で受け取った。
 冷房の効いた部屋でテレビや動画をだらだら見ながらアイスを食べる、夏休み最大の贅沢もそろそろ終わり。たっぷり堪能したはずなのにまだ足りなくて唸ったら、男の子は私の内心を見透かしたかのように「よしよし、頑張れ」ゆったりしたエールをくれた。
「うー……とりあえず塾行ってきまぁす」
「うんうん、いっぱい勉強しておいで。行ってらっしゃい」
 夏休みが終わるよりも先に塾の時間がやってくるから、男の子に見送られて塾に行く。彼はやっぱりリビングから廊下に出ないので、いまはリビングと廊下をつなぐドアがもうひとつの玄関のようだった。

 いつも以上に気もそぞろなままなんとか目標までは終わらせて、いつもよりちょっと走って家まで帰る。「ただいま!」洗面所に寄って手を洗うより先にリビングのドアを開けると、ソファでテディベアを触っていた様子の男の子が顔をあげる。「おかえり、お疲れ様」テディベアの手を持ちあげて手を振らせる様は、本当にちょっとしたお姫様みたいだった。
 彼がまだ帰っていないことも確認出来たから、洗面所に戻って手洗いうがいを済ませてからさっそくお夕飯作りを再開する。まずはタマネギと鶏肉を小さく切って、きんきん痛む目をごまかしながら脂のついた包丁だけは先に洗ってしまう。包丁の脂は早く落とすほうがいいし、洗いかごへ入れっぱなしにしておくのもよくないのだそうだ。だから洗った包丁を拭いて片づけるまでが、包丁を使うときのワンセット。
 そのあとはセットしていた炊飯器からお米を器に取り分けて、余ったぶんはタッパに詰める。材料と調味料をコンロの横に勢ぞろいさせてから、フライパンを火にかけた。
 鶏肉を炒めて、タマネギも入れて、いい感じになってきたらお米を入れる。くっつきすぎないようにほぐしてから顆粒のコンソメとケチャップを入れて、フライパンで炒めながら味を混ぜればチキンライスの完成。
 出来上がったチキンライスはお皿に盛りつけて、フライパンの汚れを簡単に落とす。次は卵が二個と、ボウルが二個。私は深呼吸をして一番の難敵を見下ろすと、気合を入れて卵を割った。
 卵は白身が消えちゃうくらいにしっかり解きほぐして、塩と胡椒で味つけしてから熱したフライパンへしっかりサラダ油を敷く。はじめて卵を焼いたときは、油が少なくてフライパンに張りついてしまって、焦げた炒り卵になってしまったのだ。そのときの教訓を生かしたのち、いざ尋常に卵液を注ぎ込んだ。
 傾けたフライパンで卵液をじわじわ固めて、表面がかろうじて焼けたタイミングで卵液たちをフライパンの逆ふちまで民族大移動。表面が綺麗になったところで火を止めて、震える手で出来上がった卵をチキンライスのうえに乗せた。
「……よしっ」
 チキンライスを卵で包んだオムライスではないけれど、チキンライスのうえにふわとろオムレツが乗ったこれだって立派なオムライスだ。絵に描いたようなオムライスに挑戦して失敗した私に、男の子が教えてくれたレシピ。だから今日は、これをひとりで作りたかった。これは我が家の味じゃなくて、彼に教えてもらった味だから。
 二個目のオムレツはちょっとかたちが崩れたから、そっちは自分用にして。使い終わったフライパンやボウルを水につけてから、お皿をひとつずつ運んでいく。「出来たよ!!」本当は腕をぐんと伸ばして掲げたいところだったけど、その思いをぐっと堪えてリビングのテーブルにオムライスを置けば、男の子は大きな瞳をきらきらにしてくれた。
「おおっ! すごいなぁ、上手に出来てるじゃないか!」
「でしょでしょ! いままでで一番うまくいったかも」
 オムレツもうまく固まらなくて炒り卵にしてしまったり、火を通しすぎて固くなってしまったりしたのが悔しくて、いっとき毎日オムレツを作っていたから、無事その練習の成果が発揮出来てひと安心。あたためたスープとサラダ、あとはドレッシングを並べたら、なんだかすごく満足感の高い食卓が出来上がった。
「よぉし、それじゃあ」
「いただきます!」
 ふたりで両手をあわせたら、オムレツにスプーンのふちを立てる。ぷつんと表面を切れば、なかからとろとろのオムレツがあふれだしてチキンライスに絡むのだ。「おお……!」初めて作ってもらったときから変わらない興奮で声を漏らしているうちに、男の子は先に掬ったオムライスを頬張ってしまう。
「……うん、すっごく美味しいよお!」
「よかったぁ! お米固まってたりしない? 味だいじょぶ?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。いままでのなかで、いっちばん美味しいさ」
 ごくんとごはんを飲み込んだ男の子の言葉にほっとして、私もようやくオムライスをスプーンで掬う。とろとろ卵とほかほかチキンライス、一緒に食べればケチャップの甘酸っぱさと卵のまろやかさが最高のバランスだった。
「うん、美味しい!」
「だろ? 自信持ちなよ、こんなに美味しいごはんが作れるならじゅうぶん料理上手だって」
 男の子はごはんを一緒に食べながら、くすぐったくなるくらい私を褒めてくれる。スープもサラダも、美味しい、美味しいって。いつも以上にそう言ってくれるから、嬉しくて、でもちょっとだけさみしくもなる。彼が言ってくれる「美味しい」は、きっと男の子から私への最後のプレゼントなのだ。
「……でも私、目標出来ちゃったからなぁ」
 お別れが近いからって、しんみりはしたくなかった。そうやってさみしがったら、この優しい男の子はきっと私のことを心配してしまうし、お別れしたくないって考えるのも、なんだか、なにか違う気がする。だから私は、いつもよりちょっと高い声で白々しくそう言った。
「目標?」
「うん。桂剥き! ニンジンで長い桂剥きが出来るようになりたいなって」
 きょとんとした男の子に私の目標を伝えると、彼はきゅうっと眉を下げて大きく笑う。はじめて一緒にごはんを作ったとき、彼は私の目の前でするするとニンジンの皮を剥いたのだ。そのオレンジ色の長いリボンを見て、ああいいなぁ、これが出来たら格好いいなあって思ったから。
「そっかぁ。じゃあ、いっぱいごはん作らないとねえ」
「うん、いっぱい作るよ。お母さんよりいっぱい」
 男の子があのとき言ったみたいに、ごはんを作ろうと思ったし、いまだってその気持ちは変わらない。「だから」ちょっとだけ深呼吸をしてから、男の子をじっと見た。
「……私が上手に桂剥き出来るようになったら、また一緒にごはん作ってよ」
 さみしがってしんみりするより、叶うかどうかわからない約束をするほうが、私はずっと、すっとする。男の子の顔を覗き込んでお願いすると、彼はこの夏一番大きな花が咲いたみたいな顔で笑ってくれた。
「うん、約束するさ!」