獅子への嫁入り - 2/2

 主の帰還は夜遅く、日暮れから随分と時間が経ってからのことだった。幼子の姿で顕現した付喪神を慮ってのことだろうか、勝手口から出入りする主君を迎えて獅子王は浅く息を吐く。「ごめんなさいね、こんな時間まで出迎えさせてしまって」そう苦笑する姿に首を振った。
「俺らのことは気にしなくていいから、湯浴みしてこいよ」
「ええ、そうね。……獅子王、あとで部屋に来てもらっても?」
「ああ、俺もそのつもりにしてた」
 そこに疚しい意味はない、ただ政府から下された命になにがしかがあったのだろう。獅子王も預かっていた本丸の報告があったから、ちょうど良い。浴場へ向かう背を見送り、苦い心地でまた溜息。
 焚きしめられた香は甘酸っぱさが心地好く、だからこそ異分子の存在を容易に浮かびあがらせる。主君の薄羽織から男の皮脂の臭いが薄らと漂っていては、決して良い気はしないものだ。けれど彼女も望んで男を近づけていたわけではないのだろう、だからこそ疲れた顔で勝手口から出戻ったのであろうから。
 せめてもの慰みに、鶯丸から習った手筈の通りに茶を淹れる。昼に点てる抹茶ではなく、夜半に心身を落ち着けるためのもの。ふたりぶんの湯呑みと急須を乗せた盆を持って主君の部屋へと向かえば、そこには既に湯浴みを終えた女性が障子にその影を浮かびあがらせていた。
「主さん、入るぜ」
「獅子王。ええ、上がって頂戴」
 断りに許しを受けてから室内へ膝を入れ、文机で書き物をしていた彼女の傍に盆を置く。湯呑みに焙じ茶を注げば主君の眦がふうわりと和らいだから、獅子王の選択も間違ってはいないようだった。
「それで、主さん。今日はなにがあったんだ?」
「そう、そうね。……今日だけ、というわけでは、ないのだけれど」
 自分にも注いだ焙じ茶を啜りながら用向きを尋ねれば、主君は少しばかり言葉を濁して眉を下げる。「見合いの話を、頂いていて」告げられた言葉の歯切れが悪いのも、無理はない。獅子王はこころが冷たくなるのを感じながら、ああ、とひとまずは首肯を返した。
「これほど強く神通力を持つ身は珍しいそうで。……ぜひその奇跡を次世代へ、と」
「そいつは、ずいぶん手前勝手な言い分だな」
「本当に。私も断ってはいるのだけど、お上からの要望が強くて」
 彼女は既に、ひとが営む多くを捨てた身だ。いつ終わるかもわからぬ戦へ身を投じることを選び、時の流れが異なる空間で付喪神とともに戦うことを決めている。そうなれば当然ながら、親を看取ることも、子を成すことも叶わない。政府がそれを彼女に望み、彼女はそれに応えて、真っ当な人間としての生を放棄した。
 重なる政府の要望は、彼女のその誇り高い精神さえも侮辱するものだ。それはすなわち、彼女に仕える神をも侮っているのと同義。無力な存在の無知な高慢に腸を煮立たせていると、獅子王の指がそうっと白魚の手に包まれた。
「怒らないで、獅子王。貴方がそう感じてくださるだけで私は嬉しいわ、旦那様」
 堪えたつもりの感情はどうやら堪えきれていなかったようで、しかしながら漏れた神力も彼女の身体を穢さない。主君はたおやかに微笑むと、眦に甘露をひとしずく。僅かに甘い声が獅子王をそう呼んだから、彼もつい、と瞳を眇めた。
「……なあ、主さん」
「なあに、獅子王」
 彼女がこの場で獅子王をそう呼んだ。そこに意味が込められる、言霊によって獅子王という神に薄絹の概念が重ねられる。手のひらで握り締めた彼女の手が、そこから離れることはない。
「それだったら、俺があんたを娶りたい」
 幾ら彼女が寝汚いとはいえ、女性の寝所に唯一立ち入り朝のしどけない姿を許される理由。差配を振る姿を「旦那様」と称される所以。誰もが言葉にこそしなかった、けれど言葉以外のすべてはそこにあった。
 それを、くちにする。旦那様と、そう呼ばれたから。そう振舞うことを、許されたために。
「……よいのですか」
「赦すのはあんたのほうだ。俺の言葉に頷けば、あんたは真実、ひとでなくなるんだからな」
 本質的には、人と神。神の嫁取りに選ばれたならばその存在は神域に呑まれ、ひとでありながらひとならざる身となる。審神者と付喪神の関係からも脱輪するのだ、決して許される在り方ではないだろう。少なくとも職に殉ずる心づもりであれば、獅子王の言葉が採択されることはない。
「……わたしを、お嫁にしてくださるのですか」
「あんたが俺を赦すならな」
 けれどここにいるのは、人と神、審神者と付喪神、それらも超えて、ただ互いを恋うばかりの一対のこころ。彼女は頬に桜を散らし、獅子王の手をそうっと握り締める。瞳を潤ませ、春をまとったように微笑んだ。
「ええ、ええ、もちろんです。獅子王様、わたしの神。あなたが求めてくださるなら、わたしは喜んであなたの妻となりましょう」
 言霊が紡がれる、魂が結ばれる。愛するものと指を結びあわせる至上の幸福に息を吐き、細い身体を抱き寄せる。彼女はそっと獅子王へ身を寄せたから、その愛おしさに胸が詰まる。互いに頬を擦りあわせ、やがてその耳朶へくちびるを寄せた。
「なあ。あんたの名を、教えてくれないか」
 神が人を超越しないようかけられていた呪いを、容易く破る鈴鳴り声。囁くような声で真名を紡がれたから、獅子王はそれを魂へ刻みつけた。
「ああ、でも、お上には秘密にしておかないと。私、ここで皆といたいもの」
「確かに、あんたの言う通りだ。体裁だけは整えとかねえとな」
 これで獅子王は、いつでも彼女を真に浚うことが出来る。けれど自分たちが望むのは、ふたりだけの世界ではない。五虎退が虎とともに庭を駆け巡り、鯰尾藤四郎がそれらを可愛がり、鶯丸が縁側で緑茶を啜りながら彼らを眺める、この本丸こそがふたりの望み。
「じゃあこれは、ふたりだけの秘密ね」
「ああ、秘密だ。ずうっとな」
 だからこそ。顔を寄せあい、子どもの稚い口約束を真似てみせる。指切りげんまん、小指を絡めては歌いあって指をほどいたのちに身を寄せあって永遠を契る。
 ――この、こんじきの眠る花屋敷で。


First appearance .. 2023/06/18@yumedrop