金継ぎの華 - 3/3

「……うん、こんなものかな。怜、よかったら味見してみて」
「ええ、ありがとう」
 神里家の厨よりもささやかな、ひとりで暮らすための空間に、家主とふたりで並び立つ。トーマにとっての小さな幸福のなかでひとくちぶんに取り分けた煮物を差しだせば、怜はそろりと小皿を受け取った。紅の差されていないくちびるに、出汁のよく染みた大根が飲み込まれる。なんてことのない動きにさえ瞳と意識の両方を奪われてしまうのは、盲目であるがゆえ。恋とは斯くも視野を削ぎ落としてしまうものだと、我が身の感覚をまるで他人事のように笑ってしまいそうになる。それも仕方のないことだ、恋とはなべてそのようなものであるのだから。
「――おいしい!」
「ははっ、ならよかった」
 細い首が動くような嚥下、そののちに煌めく瞳の稚さは格別に愛おしい。怜が品行方正な女性であるからこそ、美しく整えられる前の感情の発露は特にトーマを喜ばせた。「またいつでも作るよ」と眦を緩ませれば、そっと窺うような視線を向けられる。幼さの滲む表情から一転し怜は申し訳なさそうに眉を下げてしまったから、トーマも内心で密かに眉を顰めた。
「気持ちは嬉しいけれど、あまり気を遣わないでいいのよ。おやすみのときまでこうしていたら、お仕事と変わらなくなってしまうでしょう」
 それはトーマを思い遣るからこその言葉に違いない、けれど彼はそれが怜の本心すべてではないことを知っている。だからトーマは、どうすれば彼女が衒いなく望みをくちに出来るようになるだろうかと苦心していた。無論、自らに与えられた特権として。
「それこそ、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。料理を作るのは好きだし、怜と一緒に作れるなら尚更だ。君の家で一緒に料理をするなんて、それこそ休みの日の特別なんだから」
 欲しがりな彼女が、こころのまま欲しがれるように。怜が気負いすぎないよう声はあくまでも軽やかに、けれど音にした情愛に曇ったものはひとかけらも混ざらないように。思う相手のために意識を巡らせ整える、その行為に煩わしさを覚えないたちであるからこそトーマは進んで彼女のためだけの彩りと声を混ぜあわせていた。
 ね、と微笑みかければ、怜は幾許かの躊躇を残しながらもトーマの言葉に小さく頷く。そうしてそろりと様子を窺うのは、トーマを求めんとするこころがあるからだ。それを思えば彼女の踏む二の足もくすぐったく感じられるし、逡巡を繰り返しながら伸ばされる指をこころ待ちにもしていられた。
「それでも気になるなら、そうだな……次はなにが食べたいか考えててくれると嬉しいな」
「……いいのかしら」
「もちろん。だってそうしたら、怜の好きなものを作れるだろう?」
 ふたりで料理を作る時間もじきに終わってしまうから、怜の指に未来の望みを握らせる。流し台で調理器具を片付けながら彼女の瞳に笑いかければ、怜はその表情を僅かな稚さで震わせた。欲しがるこころの片鱗に、トーマは柔らかな笑みをとっぷりと深くする。少しずつ、本当に少しずつではあるけれど。遅々とした変化が喜ばしいのも当然だ、それはふたりがこころを傾けあわなければ生まれないものなのだから。
 次はなにを作るだろうか、彼女の食べたいものはなんだろう。怜の手に握らせた約束はトーマのなかにもあったから、いまから未来が待ち遠しい。調理器具を洗いながら胸を弾ませていたトーマは、ふと視界の端に滲む淡さに瞳を瞬かせた。
「……怜?」
 一服するための湯を沸かしていた彼女の瞳は、どこか滲んだ水彩画のよう。切ない稚さに声で触れれば、すっと瞳からその色彩は取り払われてしまった。
「ごめんなさい、ぼうっとしてしまって。お茶、すぐに用意するわね」
「焦らなくても大丈夫だよ。それより怜、どうかした?」
 恐らくはその職業柄だろう、怜は彼女自身の内側から他人の目を逸らさせることに長けている。割れた卵の欠片ほどの違和もなく、濾した豆腐のような滑らかさによる振舞いは、そこになにかが隠されていることすら気取らせないのだ。
 いまもそう、彼女の瞳に浮かんだ淡い色は音も立てずに霧散した。変化で色は波立たないから、無意識下でひかりの加減による錯覚と結びつく。だからトーマは、長らく見つけられなかったのだ。欲しがる彼女の逡巡を。
 水に濡れた手を拭いてから背骨を僅かにたわませて、怜の顔を覗き込む。彼女が怯えないよう穏やかに、けれど見落とすものはないように。思いびとへこころを砕く特権の先、怜は幾らか黙ったあとに囁いた。
「はしたないことを、考えたわ」
「うーん、そうだなあ。もしオレのことなら、教えてくれないか? オレだって同じこと考えてるかもしれない」
 柔らかな午後の陽射しが差し込むなか、甘くまろやかな囁き声は筆舌に尽くし難い官能を秘めている。けれど焦がれそうな熱を表に出してしまっては、それこそ彼女が呟いた通り「はしたない」。努めて常日頃と変わらないようくちびるを緩ませ、迷う彼女の指先を自分の傍にまで引き寄せる。ね、と、怜を安心させるべく首を傾けながら微笑んで、彼女はようやくそのくちびるを震わせた。
 あのね、と。前置く声は、どうしてか甘い。
「貴方に欲しがられたいときって、どうしたらいいのかしら」
 注がれた言葉が、どこまでも甘いから。
 脳髄が蒸発しそうなほどのなにかが、言葉の追いつかない速度で身体の内側を駆け巡る。脊髄反射で衝動に轡を嵌めていれば、怜の瞳に淡い色が広がった。
「わかっているの、はしたない我儘よ。……でも、私ばかりが貴方を欲しがって、トーマにもらってばかりだから」
 彼女の瞳を揺らめかせている幼い水彩は、トーマを求める色なのだという。欲しがりな彼女の無垢な我欲ではなく、それと同等の欲を向けられたがる思いが、新雪のような彩りで以てトーマの眼前にだけ広がっている。
 誰の足跡もなく積もった新雪、或いは地に落ちていない白椿。それをはしたない我儘と称する様はいじらしく、トーマは水の気配が残る手で白魚の指を掬いあげた。身を焦がす衝動は加工せず差しだすにはあまりにも無骨で、けれど彼女に注げるほど丁寧に濾す余裕もない。本能的な情動と彼女を慈しみたい我欲の狭間とあっては、手を掬うだけで精いっぱいだった。
「そんなことない。……そんなこと、ないんだよ」
 彼自身が身を尽くすたちであることにも所以しているのだろう、トーマは望むよりも与えるほうが好ましい。怜は自らを欲しがってばかりだというが、トーマにとってはそうして伸ばされる指こそが欲しいのだ。
 それでも、それだから。欲しがられたがる自己本位な願いをよく知っているからこそ、背骨の芯が痺れるような心地になる。その我儘を覚えて、けれどそれを持て余して、困り果てて立ち尽くした末にトーマをそっと見あげる様の無垢さたるや。抱いた衝動の発露にこれほどの難解さを覚えたのは、初めてのことかもしれなかった。
「オレのほうが、怜を欲しがってばっかりだ」
「それこそ、そんなことないわ」
 白く美しい手指に頬を寄せ、切なく微笑む怜の言葉に首を振る。欲しがられたがる思いは、シンプルな我欲より一層ずるくて我儘なのだから。「そんなこと、あるんだよ」懺悔のように呟いて、桜色の爪にくちづけ。はっと息を呑む音に、トーマはそっと瞳を眇めた。
「前にも言っただろう。全部欲しいんだって」
 彼女に曰くはしたない我儘、土のついていない白椿を差しだされて、身のうちが焦げそうなほどに熱を覚えたから。熱く溶けた欲を濾した指で、彼女の身体を抱き寄せる。欲を稚く揺らめかせる瞳がそっと閉じたから、新雪へ指を埋めるようにしてくちびるを重ねあわせる。
 雪に初めてついた足跡の甘さは、花の蜜によく似ていた。

( 滴る花の蜜溜まり )


First appearance .. 2023/04/23@yumedrop