金継ぎの華 - 2/3

 立てつけの悪い扉の外で飛び交っている長屋の賑わいを聞きながら、小さな炊事場で湯を沸かす。お座敷では茶を点てることも少なくなかったが、家で過ごすときの一服はもっと手軽なもの。それでも今日は来客があったから、新茶の茶葉を用意した。
「お待たせしました」
「ああ、おかまいなく。でも、いい香りだ」
「そう言ってもらえてよかったわ。このお茶、私も好きなの」
 緑茶を淹れて手狭な部屋の座敷へ戻れば、一際に美しい色彩が春を呼び込むように明るく笑う。無邪気さすら感じさせるトーマの素朴な喜びに、怜はそっと笑みをこぼす。彼はひとの心配りを見つけて喜ぶことが、怜の知る誰よりも上手かった。
 淹れたての緑茶の香りをふたりで味わってから、トーマが手土産にと持参した練りきりを見つめて瞳を眇める。季節の花を模った生菓子の粋を愛でていると、その向こうでトーマはくすぐったそうに笑う。どうかしたのと尋ねれば、彼は稚さの滲む表情はそのままに、なんでもないと首を振った。
 彼と交際を始めてから日々を幾らか重ねたが、トーマと過ごす昼下がりには大きな変化も生じていない。強いて挙げるなら長屋の外で子どもたちと遊ぶのではなく、怜の部屋で一服する時間が生まれたくらい。そういうものなのか、それとも違うのか。怜にはわからなかったから、与えられた変化を、ただ両手で握り締めている。
 お茶とお茶菓子を味わいながら、なんてこともない世間話。トーマから家司としての日常を聞き、花見坂の犬猫たちと親しくならんとする奮闘の日々に笑みをこぼす。野良猫たちは特に警戒心が強いから、トーマも彼らのこころをどう解きほぐしたものかと苦心しているらしい。
 彼の声を介するだけで彩り豊かになる景色へ相槌を打ちながら、ふと怜のなかで疑問が浮かぶ。トーマの日常へ耳を傾けているとき、自身の内側で同時に広がっていた同じもの。ぼんやりと追想していた自らの営み、普段はただせせらいで流れていくだけのものが飛びだした小枝に引っかかった。
「怜? どうしたんだい、なにかあった?」
「ああ、いえ。ごめんなさい、ぼうっとしてしまって」
 そこに目を落としたせいだろう、そっと顔を覗き込んだトーマに慌てて首を振る。怜を思い遣る瞳になんでもないのだと首を振り、それを示すようにくちを開いた。
「昨日、お客様と話したことを思いだしていたの。お客様の飼っておられる猫が子どもを産んだんですって」
「へえ、それはいい! きっと可愛くて仕方ないだろうなぁ」
「ええ、そうみたい。大層な愛猫家の方だから早速子猫たちの誕生日をお祝いしようとして、気が早いって奥様に止められたんですって」
 本当は写真を撮りたかったのだが、産後で気が立っている親猫に威嚇されて泣く泣く諦めたのだとか。そんな話も添えればトーマの瞳にも微笑ましさが移って和らぎ、湛えられたあたたかなひかりに瞳を眇める。
 ただ、小枝に引っかかったものはそれではなかったから。怜は二拍ほどくちを閉じたのち、ささやかに声を紡いだ。
「……そのときにね、思ったの。私、貴方のお誕生日を知らないわ」
「へっ、あ、オレ?」
 知らないことばかりの、彼の輪郭。トーマが長屋のひとびとにどう接してくれて、誰に慕われていて、誰と親しいのかは知っているけれど、怜の知っていることなんてそのくらい。聞かなかったから知らなかったことをひとつ問えば、トーマは豆鉄砲を食らった鳩みたいに目を丸くさせてわかりやすく動転。「そういえば言ってなかったっけ?」すっかり話したつもりでいたといわんばかりの表情に、怜は小さく微笑みながら頷いた。
「1月だよ、1月9日」
「冬の生まれなのね。それなら、次のお誕生日は私からもお祝いさせて頂戴?」
 トーマはなんの衒いもなく冬の盛りを指差して、怜はその日をそっとこころに縫いつける。窺うように尋ねれば瞳だけでなく頬にまでひかりを散らすようにして「もちろん! 怜に祝ってもらえるなんて、楽しみだよ」そう笑ったから、怜も同じひかりに瞳を眇めた。恋い慕う相手を祝福する権利を手ずから与えられる、そのことが彼女のこころを柔らかくあたためる。
「そうだ、怜の誕生日は?」
「私? ないわ」
 いったいなにを用意しようか、そう夢想するだけでも押し寄せる未知の幸福で浮足立つような心地。くちびるを自然とほころばせながら、怜はトーマの言葉にするりと返事。けれどそれにトーマが目を見開いたから、どうしたのだろうかと首をひねった。
「……ああ、言葉が正確ではなかったのね。知らないわ」
 生まれているから誕生日がないわけではないだろう、と。言葉を整えるのだが、トーマの表情は驚愕に染まったまま。その理由がわからなくて、ただトーマの顔から明るいひかりが消えてしまったことが悲しくて、どうするべきなのだろうかと思い悩んで彼の顔を覗き込む。「……トーマ?」そっと名を呼べば、彼はやがて強張っていた身体を動かした。
「それは、その……いままでは、どうしてたんだ?」
「自分の歳は、年が明けるのにあわせて増やしてるわね」
 まるで怖々と暗闇で手探りに提灯を探すような声が不思議で、首をひねったまま彼の言葉に返答する。長屋住まいのなかでは自らの年齢や誕生日を知らぬものも珍しくはなく、怜もそのひとりに過ぎないというだけだった。
「トーマ、どうかしたのかしら」
 けれどそれにトーマは驚き、言葉を失っている。思わずその頬を手のひらで撫でれば、触れた手指をそっと握り締められた。弱くて優しい、彼の思い遣りと同じ触れ方。
「……いや、なんでもない。ただ、オレも怜の誕生日を祝おうと思ったから」
 どうしようかって、ちょっと考えてしまったんだ。トーマは困ったような顔で、それでも笑うから。怜は目を見開き、言葉になりきらない吐息をこぼした。
「……そう、そうよね。ごめんなさい、私ってば本当に考え足らずで。貴方はきっと、そう言ってくれるひとなのに」
 怜がトーマを祝福したいと望むのだから、彼だって同じことを思考するだろう。そうでなくともトーマは、怜が知るなかで最も他者へこころを配るひとなのだから。それでも怜のなかには存在していない日のことだったから、まるでそこに思い至らなかった。恥と申し訳なさに目を伏せると、それを止めるように怜の頬にもトーマの手のひらが伸ばされる。
「怜が謝ることなんて、なにもないよ。だから、そんな顔をしなくていいんだ」
 触れる温度と同じ、果てなくただ優しい姿。柔らかな笑みを向けられ、怜はトーマを見あげながら空白に喉を震わせた。柔らかく、あたたかく、怜の至らなさを受容する。それが、なんの質量も伴わずに喉を塞いだ。
「それ、なら」
 辛うじて細い声を編み、うん、と優しく頷くトーマを見つめる。我儘への躊躇と疑問、決して短くはない沈黙の末に呟いた。
「……決めてほしいわ、トーマに。私の誕生日」
 それは、求めることが許されるのか。わからないままくちにして、息を飲むトーマをただ見あげる。駄目ならいいのよ、用意していた言葉は音を重ねる前に霧散した。
「いいのか、オレで」
 僅かに震える声、感情を堪えたような表情はどうしてか切なく映る。眦を指の腹で撫でられ、彼の手のひらのあたたかさに瞳を閉じながら頷いた。
「貴方が、いいと言ってくれるなら」
 からんとした内側に落とされる、小さな灯り。与えられる優しさに甘え、破片も取りこぼすことなく掻き集めて抱き締めた。それが夜闇を照らすひかりになるように、もしくは指先の低温火傷を望みさえして。

( 金継ぎの華 )