熾った種はカンテラへ - 4/4

 日々の仕事をつつがなくこなし、夜の帳が落ちてゆくのを台所からゆっくりと眺める。公務を終えてようよう帰宅した神里家当主の夕餉は些か遅れていたが、仕事に追われていた身であるからこそ、しっかり食事を摂ってもらわなくてはいけない。執務室の隣に設けられた休憩部屋へ夕餉を運んで「若、お食事お持ちしましたよ」と声をかければ、綾人は書類整理と未来の整備を一旦中断する。そうしなければトーマが横でずうっと待ち続けることを、よくよくわかっているからだ。
 ひとりの食事は味気ないから、先に食事を済ませてしまったトーマは夕餉に箸を伸ばす綾人の傍で茶を啜る。明日にはもち米が届く予定だから団子を作っておやつに振舞おうかと考えていれば、ああそうそう、と普段と同じ軽やかさで綾人から声を向けられた。
「トーマ、来週から半月ほどお客人をお迎えすることになった。離れの掃除と手配を頼めるかい」
「ええ、もちろん。ですが、わざわざ離れの客間を使うんですか?」
「ああ、そのほうがなにかと都合もいいだろうからね」
 客人をもてなすのも家司たるトーマの務めであるため、その軽やかな声は特段珍しいものでもない。強いて物珍しさを挙げるならば、よほどの理由がない限り部外者を招くことのない離れを客間として宛がうことくらいか。よほどの賓客がくるのかと首をかしげれば、食事を終えて両手のひらを重ねたのちに綾人はにこりと微笑んだ。
「来月、鳴神大社の儀式で巫女神楽の奉納があるだろう? だが今回は宮司様ではなく他の巫女が舞うことになったから、神楽の指南役が必要となってね」
「……待ってください若、それってもしかして」
 流れる水のように軽やかな言葉を堰き止めようとしたが、川流れとは人力で容易く止められはしないものである。トーマが思わず肩を張ったことに気付いているだろうに、綾人は言葉をつらつら紡ぐ喉を塞がなかった。
「寂室怜。稲妻の芸事は、すべて彼女に帰結する。だが鳴神大社から稲妻城まで毎日通うのは、芸者の彼女にとっては些か骨の折れる話だ」
だから巫女神楽の指南が終わるまで、神里家から鳴神大社へ通ってもらうことになったというわけだ。決定事項をつるりと告げられ、トーマの肩ががくりと落ちた。
 別に、怜が社奉行とともに仕事をすることは今回が初めてというわけではない。そもそもトーマが彼女と知りあったのも、かつての彼女が仕事で神里家へ招かれたがためである。
「離れのほうが、芸事の稽古に対する気兼ねも減るだろう。けれど使用人たちの声も遠いから、ご不便おかけすることも多いかもしれない。トーマ、彼女をよく歓待するように」
「若……」
 だが綾人はトーマと怜の関係を認識しており、そのうえで彼を接待役に命じている。あまりにも丁寧なお膳立ては、言葉のないものまで求められているかのよう。思わず頭を押さえながら、つい綾人へじとりとした目線を向けた。
「先に言っておきますが、オレは神里家の家司として客人をもてなすだけですよ」
「ああ、もちろん。家司としてのお前は、いつも通りの仕事をしてくれたらかまわないよ」
 まるで糠に釘を刺したかのような手触りに深く息吐いてしまったのも、仕方のないことといえよう。

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 一斗たちと会食をしてから怜に会うのは、これが初めてのことである。
 不自然なほど間が空いているわけではない、彼女と会うことに気後れしているわけでもない。けれど巡らせる思いが多く、トーマの指先が少し泳いでしまっていたのもまた事実。だが社奉行の家臣としての務めとなればそこはそれ、トーマは護衛として派遣されていた社奉行仕えの武士とともに邸宅の正門をくぐった人物を一礼しその来訪を歓迎した。
「ご無沙汰しています、寂室さん。このたびは社奉行からの要請にお応え頂けたこと、当主に代わりお礼申し上げます」
「ご無沙汰しております、トーマ様。こちらこそ、しがない芸者へ斯様に手厚いご対応を頂き、大変恐縮にございます」
 神里家の家司として芸者たる怜と顔をあわせるのは随分久しく、美しい一礼とたおやかな笑みに見入って言葉を失いそうになる。長屋住まいの女性でしかない怜はトーマにとって特別な存在であったが、見目から所作に至るまで芸者として完成された彼女には、目を奪われてしまう美が宿っているのだ。
「本日は誠に勝手ながら当主が留守にしておりますゆえ、ご挨拶は明日に改めて」
「もちろんにございますわ。然様なほどご多忙のところでこうしてご丁寧にお出迎え頂けましたこと、有難う存じます」
 夜も更け、仄かな灯りだけが薄暗闇を照らすなか、その姿は殊更に美しい。彼女の護衛を務めた武士が大輪の花の如き女性へ見惚れてしまうのも、無理のないことであった。彼がしっかりと背負っていた風呂敷包みをトーマが受け取り、歩を進める前にもう一度彼女と向きあう。
「離れにお部屋を用意していますので、ご案内致します」
「お願い致します。……道中、ありがとうございました」
 怜はトーマの言葉に一礼をすると、護衛を務めた兵士に向き直ってもう一礼。しゃらりと鳴る簪の音が美しく、その残像をそっと追いかけた。再び涼やかな音が聞こえるまで待って、トーマは彼女を引き連れ神里家の廊下を進む。その途中で、あのとき絹さやのすじ取りをともにした相手ともすれ違ったが、向けられた目線もなかったことにした。

 トーマにとっては慣れた道を進んで離れへ辿り着くと、縁側から一室の襖を開く。「こちらでお休みください」と床板に膝を預けながら告げれば、怜は美しい微笑とともに「ありがとうございます」とトーマへ深く頭を下げた。
「お荷物も、なかへお運び致します」
「すみません、重ね重ねお手数おかけ致します」
 怜が客間に入ったのち、トーマもその内側へ身を置いて提灯にひかりを落とす。夜を照らすささやかな灯りで彼女の周囲を幾らか明るくしてから襖を閉め、トーマは羽織を肩からほどいた女性をそっと見あげた。
「……怜」
 名を呼べば、彼女は驚いたように目を丸くさせる。数秒前までは神里家の家司として彼女をもてなしていたのだから、その変わり身で驚かせてしまったのかもしれない。実のところトーマ自身も、これほど滑らかに彼女の名を紡ぐことが出来るとは思ってもみなかった。
 いまここにいるのは、神里家の家司と芸者である。そして互いをそう定める限り、歓待の丁重さは揺るがない。けれど綾人は甘い結び目をわざと用意し、トーマにそれを握らせた。偶然にも、埋火の熾った彼の手に。
「怜」
「……トーマ様、もう夜も遅うございます。これ以上もてなし頂いては、恐れ多いことにございますわ」
 無欲な存在ではないと語られた。けれど彼女は、トーマになにかを求めなかった。トーマを受け入れ、その穏やかな受容で以て彼を満たしこそしていたけれど、満たした対価をトーマに望んだことはなかった。
 それを、悔しいと思ったのだ。求められていないこと、彼女をからっぽにさせてしまうかもしれないことが。
「大丈夫、用がない限りここまでひとがくることはないから。……あ、でもそれだと君になにかあったときによくないな。あとで鳴り物をひとつ持ってこよう」
「いえ、鳴り物であれば私が持参しておりますゆえ」
「怜。……ごめん、オレの我儘だ。でも、君といつもみたいに話したい」
 畳に膝をつけたまま、乞うように彼女を見あげる。否、それは正しく懇願だ。互いの立場を思い遣り、お互いが暗黙のうちに設けた節度を、トーマの私心によって踏み越えようとしているのだから。
 無言で見つめ続けて、しばらく。怜はそっと、トーマの前にまで足を運んだ。どちらからともなく、指が重なる。外を長く歩いていたからだろう、怜の手は普段よりも冷たかった。
「……貴方が私に我儘を言う日がくるなんて、思いもしなかった」
 やがて、怜のくちからほろりとそんな言葉が落ちる。灯りは弱いのに、眩しそうに瞳を眇めながら。トーマの我儘を許す彼女の優しさを両手で包み込みながら「そうかな」と思わず笑う。トーマは怜に甘えることが多いように感じていたから、まるでそんな気はしていなかった。
「だって貴方、私のなにも欲しがらないから」
 いらないんだと思ってた。
 眩しそうに、さみしそうに。微笑とともに落とされた声へ、だから、言葉を失った。
 彼女との交際のきっかけも、確かに熱烈な求愛を経ていたわけではない。怜と親しくなり長屋へ足を運ぶ頻度が増えた頃に周囲からその様子をひやかされ、ならばと囃したてる声を好機にしたのだ。「それなら、本当に付きあおうか」好意を伝えたのちの提案、それに怜が頬を赤らめながら頷いたことで自分たちは恋仲となった。だがそのようなかたちでも彼女を望むこころは紛うことなく真実、中身のない恋愛ごっこなんてトーマは望んでいない。
「っ、そんなことない。いらないわけ、ないだろ」
 けれど届かなかったものは生まれることもなく、トーマの慕情は灰のなか。恋い慕う思いは彼女にとって存在しないものだったから、怜の目に映るトーマは無欲な存在になったのだろう。そして恐らく、一斗が指し示した通り、彼女はからっぽを求めない。
 怜の無欲を、ようやく理解する。欲しがられていない相手を欲しがるには、大層な勇気と覚悟が必要だ。けれどからっぽを一等嫌う彼女が、どうしてその恐れを振りきれるだろう。だから彼女は無欲なまま、トーマの贈ったものだけを抱き締めていたのだ。
「欲しいよ、全部。芸者としての君がいまみたいに誇りを持って仕事に打ち込むことも、そうじゃない君がオレの恋人でいてくれることも」
 一斗と言葉を交わしたときに、認識している世界の差を感じた。本来ならばそのときに、それに気付いておくべきだった。怜は一斗の姉であり、一斗は彼女の弟なのであれば。怜の生きる世界はトーマに見えているものではなく、家族のいる場であるに違いないのだと。
「君の全部が欲しいよ、怜。……君にも、たくさん欲しがられたい」
 シンプルな発想、シンプルな我欲。言葉なく木漏れ日のように心地好い微睡みよりも、あれが欲しいと手を引く子どものような駄々のほうが、彼女には必要だったのだ。
手を強く握り、希う。白魚のような指は長らくトーマに包まれるがままでいたけれど、やがてゆっくりと意思を宿す。
「……いいの?」
 弱いちからで、けれど確かに、彼女の意思でトーマの手指を握り返される。ひんやりしていた指先には、いつの間にか熱が移っていた。
「ああ、もちろん」
「でも、どうやったら」
「じゃあ、教えてあげる。オレが全部」
 美しく整えられた手指の動きは稚く、まるで迷子がおとなに縋るよう。揺るぎない立場を確立したほどの存在でありながら、彼女はこころの求め方すら知らないのだ。生成りの顔をトーマの眼前に晒している無防備さにぞくりと背筋が震えるのを感じながら、背骨を震わせる熱をそっと逃がして怜の手を引いた。畳に座り込んだ彼女を抱き締めれば、トーマの背にも怜の腕が回る。それはまさしく、トーマに恋を教わっているかのようだった。
「怜、顔をあげて」
 望めば応えられる、その事実に魂までもが震えそうになる。埋火が熾って爆ぜる微かな音は、自らの欲を満たす音に相違ない。そうして欲に火が灯るからこそ、あたたまりたがる彼女の手指を見つけられる。
 ――求められていた、たぶん初めて、こころから。まるでしがみつくような手指のちからが愛おしく、同じだけのちからで彼女を包み込みながら紅で彩られたくちびるに触れる。
 触れて、やがて離れる。怜の頬にかかった髪を指先でそっと払いのければ、紅を差した眦を溶かすような水気がふわり。頬を紅潮させながら泣きそうな表情を浮かべる怜の姿は、一等、一際に特別だった。
 自分だけの姿に見入っていれば、不意に寄せられた顔とどこか幼さの滲む甘い音。紅の移される音に面食らっていると、怜はくすくすとおかしそうな笑い声を微かに立てた。
「トーマ。顔をさげて?」
 稚い模倣に、胃のふちが焦げ付きそうなほどの衝動。確かにこれが自らの内側で生きているなら、からっぽになる余地はない。せめてトーマは彼女が怖がらないように、努めて丁寧に頭を垂れた。そうすれば、怜から求められる音がトーマを満たす。
 そうして熾った焔の種は灰に埋もれないようカンテラに移し、互いの輪郭を正しく浮かびあがらせる。


First appearance .. 2022/11/28@Privatter, another name