熾った種はカンテラへ - 3/4

 木漏茶屋でそわそわと落ち着きなく片付けを繰り返していると、それを宥めるように太郎丸がクゥと鳴く。トーマは整理していた棚のなかから顔をあげると、つぶらな瞳をじっと向けてくる太郎丸へ苦笑した。
「ごめんな、太郎丸。なんだか落ち着かなくて」
「クゥーン……」
「ああ、わかってるよ。もうじき時間なんだから、しゃんとしないとな」
 客の来訪時にがさがさと動いていては無礼だからと背筋を伸ばし、それでも未だそわつくこころを宥める代わり、柔らかな毛並みに指を通す。太郎丸も仕方ないといわんばかりの表情でトーマの手のひらを受け入れてくれたから、しばらくふわふわの毛並みを堪能した。
 そうしていればやがて表に賑やかな声が聞こえたから、太郎丸から指を離して乱れた毛並みを整える。音もなく滑る扉、差し込むひかりとともに見慣れた姿。「こんにちは、トーマ」柔らかな声は、長屋で聞くそれとなにひとつ変わりない。
「こんにちは。いらっしゃい、怜。それに、そっちのふたりも」
 けれど違う点があるとすれば、怜の後ろに立つ見知らぬ男女。真っ赤な二本角を持つ青年と、口元を面頬で覆った少女。青年は初めて会う相手にも、初めて訪れる場所にも気後れした様子を見せず、快活な笑みをその顔に浮かべてみせた。
「おう、邪魔するぜ!」
「親分だけでなく私までご招待頂いたこと、感謝する」
 人懐っこさが明瞭に浮かぶ青年と、丁寧な会釈で礼儀を添える少女。柔らかな眼差しで彼らを見守っていた怜は一歩脇に下がると彼らに手のひらを向け、まるでトーマと太郎丸へお披露目をするようにふたりを示す。
「紹介するわ、トーマ。荒瀧派の頭領こと荒瀧一斗と、彼の右腕で荒瀧派二番手の久岐忍。私の家族よ」
 怜はそう告げてどこか誇らしげに微笑むから、それが眩しくて、トーマもそっと瞳を眇めた。

 怜と一斗が家族に等しい関係であると聞いてから、間もなくのことだった。かねてより鬼族の青年と親交を深める機会を探していたトーマが怜へ相談すれば、彼女はふたつ返事で頷いたのである。「新しい友人が出来るのだから、一斗もきっと喜ぶわ」そう快諾した彼女の想定通り、一斗はトーマの誘いを断らなかった。それどころか自らの身内も紹介したいと忍の名を挙げ、それならばと木漏茶屋の一室で歓迎することに決めたのである。
 もてなすための手料理を幾つか用意すれば一斗は子どものように喜び、わかりやすくはしゃいではひとくち食べるごとに「うめえ!」と声をあげた。忍はそのたびに彼の脇を小突いて「親分、はしたない」と窘めていたが、料理を振舞った身としては喜ばれて嫌がるわけがない。「気にしないで、くつろいで食べてくれ。友人との食事に片肘を張る必要なんてないだろう?」トーマがそう告げれば、忍は少しばかりの遠慮を見せながらも、貴方がそう言ってくれるなら、と頷いた。
 料理を囲みながら聞く一斗たちの武勇伝は社奉行の耳にも遠いものだったが、成る程、花見坂の荒瀧派といえば城下町ではそれなりに有名であるらしい。「天領奉行にはよく知られている、どちらかといえば悪い理由で」そう肩を竦める忍にも怜は微笑ましそうな笑みをこぼし、また彼女に呆れられていた。曰く、怜は一斗に甘いのだとか。
 そうして話も弾んでしばらく、今度は一斗が忍の脇をちょいと小突く。彼女はそれに対してもの言いたげな目を一斗に向けていたが、やがて何事もなかったかのように立ちあがった。
「すまない、トーマさん。太郎丸さんへ挨拶をしに行ってもいいだろうか」
「ああ、もちろん。太郎丸も喜ぶよ」
「ありがとう。……姉さん、私ひとりで行っては太郎丸さんを驚かせてしまうかもしれない。ついてきてもらいたいんだが」
「ええ、いいわよ。トーマ、一斗、少し失礼するわね」
 忍の声に怜は眦を緩ませながら頷くと、美しい所作で一礼をしたのちに膝を伸ばす。行ってらっしゃいと手を振るトーマに対して目礼ののち音もなく襖を閉めるから、その動作は職業病でもあるのだろう。座敷での振舞いにおいて、彼女の右に出る者はそう存在していない。
「……ふう、やっと行ったぜ。これでようやく、お前とサシで話せるってもんだ」
「あ、やっぱりオレに用があったんだ」
 まるで息を詰めたかのようにおとなしくしていた一斗は、やがて深々と息を吐く。忍に対するわかりやすいアイコンタクトは、やはり意図あってのことらしい。「どうかしたのかい?」首をひねって尋ねるのだが、一斗はそれに対して怪訝そうに眉をひそめてしまった。
「お前、俺様になんか言うことはねぇか?」
「言うこと? うーん、なんだろう……あっ、よかったら夕飯も一緒にどうだい? オレ、鍋遊びが好きなんだ。君もきっと気に入るんじゃないかな」
「おう、そりゃもちろんかまわねぇぜ! ……って、そうじゃねぇだろ!」
 一斗はトーマの心当たりを探っては引きだそうとしているようだったが、当のトーマ自身には思い当たるものがまるでない。童心に満ちあふれた彼ならばきっと心底楽しんでくれるだろうと夕餉の提案をすればそれにはやはり喜ばれたが、すぐさま顔をしかめられてしまった。
「あいつのことで、言うことあるだろ」
「怜の? ……ああそうだ、ご家族に対して挨拶が遅れて申し訳ない。彼女にはいつも本当によくしてもらっているよ」
「そうだろうそうだろう、あいつは俺様自慢の姉貴だからな! ……って、そうでもねぇ!」
 恋人の身内へ挨拶出来ずにいた不敬を詫びるのだが、どうやらそれも一斗の開けたい引き出しの中身ではないらしい。彼はむすっと顔を歪めてトーマを睨むのだが、幾ら目力で訴えられたところでこれ以上は思いつくものもないのだ。両手を肩まであげて降参すれば、一斗は深々と溜息を吐きだした。
「わざわざ挨拶したいって言ってくるってこたぁ「お嬢さんを僕にください」ってやるもんだって守が言ってたのによぉ、そういうのねぇのかよ」
 そうして一斗が溜息混じりにそんなことを言うものだから、「は……!?」思わずその場で引っ繰り返りそうになってしまった。
「い、いやいや、それは気が早すぎるだろ」
 というか、何故一斗のほうがそれを待ち望んでいたのか。もしかしてやりたかったのだろうか。彼の無邪気さを見ていたらそんな気もしてきてしまうが、それは決して易い覚悟で告げて良い言葉ではない。ぶんぶんと首を左右に振れば、一斗は更に機嫌を損ねてしまったようだった。わかりやすく眉をひそめ、くちを曲げ、背中を丸めて、抗議するような瞳。なんとも正直な青年である。
「なぁにが「早すぎる」だよ、早いに越したことねぇだろうが」
「そんな、早い者勝ちの買い物じゃないんだから……。だいたい、そういう大事な話はオレひとりで進めることでもないからね」
 トーマがそれを一斗に申し出れば彼は自らが姉と慕う相手の嫁入りを了承することになるのだが、彼はその事実を正しく認識しているのだろうか。幼さが目立つだけに過ぎる懸念を黙殺しながら苦笑すると、ふん、と一斗は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「なんだよ、つまらねぇ。あいつの恋人がこうも欲のない奴だとは、思いもしなかったぜ」
 面白くないといわんばかりの声が吐き捨てられ、それにトーマが首を捻る。彼の物言いは、明らかにトーマの認識の外側で息衝いているものだった。
「欲なんて、強くないに越したことないと思うけどな。……それに」
 一斗の言葉だけを聞いていれば、まるで怜が強欲であるかのようではないか。周囲を慮り、華やかな仕事に従事しながらも私生活は質素な彼女とは、真逆の評価。違和が外へ出る前に奥歯で磨り潰していると、一斗もまたトーマの言葉が想定外であるかのように目を丸くさせた。
「何事もないよりあるほうがいいに決まってんだろ。こうしてえ、ああなりてえ、って思いがなけりゃ、なんにも手に入らねえ」
 シンプルな発想、シンプルな我欲。交わす言葉で、生きている世界の違いを目の当たりにする。トーマは神里家に仕えて長い、だからこそ知っているのだ。欲望の成れの果てに生み落とされる醜い妄執も、存在するからこそ発生せざるを得ないしがらみも。
「それについては、姉貴も同じ考えだぜ。あいつが芸者になったのは綺麗な着物をたくさん着たかったからだし、雷電将軍の前に立てるほど舞の稽古をしたのは、一等綺麗なところで舞いたかったから。『烏有亭』で仕事することが多いのは、あそこの飯を食いたいからだ」
 一斗も齟齬に気付いたのだろう、そしてトーマが潰したものに対しても。彼はなんてこともない様子で、トーマの知らない怜の姿を指し示す。それに、つい、笑みもなく瞳を眇める。しかし一斗はそれに驚くどころか、歪めていたくちの端をつりあげて喜んだ。
「姉貴の一番嫌いなものを教えてやろう。――あいつはな、からっぽが一番嫌いなんだ。自分のことなら殊更にだ、からっぽってのはひもじいからな」
 欲のねぇやつは、からっぽになってくだけだぞ。
 それは、あかあかと燃えあがる炎よりも明快な挑発だ。成る程、天領奉行を振り回すことでも名高い荒瀧派の頭領は何事も派手であることを好くたちでいるらしい。トーマは煽られた先にあった自らの埋火を努めて俯瞰しながら、社交的で柔和だと評判の良い笑みを顔に浮かべてみせる。
「成る程、参考になるよ。とてもね」
 それに対して、一斗からの言葉はない。ただ、彼の顔を彩る笑みのかたちがすべてであった。