トーマと怜の逢引は、そのほとんどが彼女の住む長屋で行われる。ときどきは外の屋台で食事をしたり、小間物屋を覗いたりもするけれど、芸者である彼女は仕事柄どうしても宵っ張り。太陽とともに生活を送るトーマとは重なる活動時間が少なかったから、怜の身体にかかる負担を減らしたくて彼女の長屋へ足を運ぶようになったのだ。
その日も普段と同じように花見坂の裏路地を通り、つつましくも賑やかなひとの声の合間を通る。そうして怜の部屋へ向かおうとしたトーマはしかし、その途中で足を止めた。なんてことはない、長屋の共用部である井戸の前に彼女の姿を見つけたのである。
「怜姉ちゃん、一斗兄ちゃんは?」
「一斗なら今日はお出かけですって。たたら砂の辺りに強いオニカブトムシがいるって聞いたみたいよ」
「えーっ、じゃあ今日は虫相撲出来ないの?」
「その代わり今日我慢したら、明日は強い虫を捕まえた一斗とたくさん虫相撲が出来るわ」
彼女と同じく花見坂の長屋に暮らしているのだろう子どもが、怜とともに井戸から水を汲みながら雑談に興じている。その光景の微笑ましさに瞳を眇めていたのも少しの間のことで、トーマは気配を消すこともなく、かといって足音をあえて派手に立てることもなく、井戸の傍へと足を向けた。
「怜、それに太一。こんにちは」
「あっ、トーマ兄ちゃんだ! こんにちは!」
怜と交際を始めてから長屋の住民たちとも親交を深めている甲斐あってか、子どもはトーマの挨拶に対して笑顔を見せると跳ねるように喜んで彼を歓迎する。「なぁトーマ兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ。今日は一斗兄ちゃんがいないから、つまんないんだ」腕をぐいぐいと引く少年の頭を撫でながら首を捻り、穏やかに微笑んでいる怜へ瞳を向けた。
トーマは長屋の子どもたちと遊んだり、おとなたちの洗濯を手伝いながら世間話に花を咲かせたりすることも好きだけれど、それらはすべて怜の受容あってこそ。彼女が少しでも迷う素振りを見せるようであれば、トーマは怜を優先するつもりでいた。
「ごめんなさい、トーマ。貴方さえよかったら、一緒に遊んであげてもらえないかしら」
けれど怜は、そのような顔を見せたことが一度もない。だからトーマは、顔をあわせるだけで喜ばれるほど子どもたちと友情を育むことが出来ている。
「ああ、喜んで。じゃあ、荷物だけ置かせてもらってもいいかな」
「ええ、もちろん。太一、ここでちょっとだけ待っててね」
怜は今日も自らの思いを優先させることなく、周囲を慮っては柔らかく笑う。ときどき気がかりになることもあるが、その優しさは間違いなく彼女の美点だ。だからせめて怜の優しさを大事にしようと、彼女とともに長屋の一室へ足を向ける。もちろん、彼女が井戸水を汲みあげた木桶はトーマが持った。
がたた、と音を立てながら開かれる扉をくぐり、竃の脇へ木桶を置く。僅かな手荷物を座敷へ預けながら、トーマは一旦長屋を離れる準備をしている怜を振り返った。
「怜、ひとつ聞いていいかな」
「うん? どうかしたかしら」
「さっき太一が言ってた「一斗兄ちゃん」って、もしかして噂の鬼族の?」
彼女も、子どもも、ごく当たり前にその名を告げていた。トーマが出会ったことのない、けれど城下町でもなにかと派手な噂の立ち込める赤鬼の青年。機会さえあれば是非知りあいたいと思っていた相手が、よもやこれほど身近にいるだなんて。トーマが抱いた少しの驚嘆に怜は気付いた様子もなく、こともなげに「ええ」と頷いた。
「よく長屋の子どもたちの面倒を見てくれるの。喧嘩をすることもしょっちゅうだけど」
台所で作業をしながらこぼれる笑みは軽やかで、件の青年がいかに彼女の生活へ根付いているかがよくわかる。それだというのにいままで顔をあわせるどころか名前を聞く機会すらなかったのだから、奇妙なすれ違いもあるものだった。
「へえ、君とも仲がいいのかい?」
「弟だもの、もちろん」
しかし、告げられた言葉に思わず目を丸くさせる。つい怜の額に目を向けてしまったからだろう、その視線に気付いた彼女はトーマを振り見て苦笑した。
「もっと正確に言うなら、弟のような存在、だもの」
「それは、なんていうか……意外だったな。幼馴染とか?」
「……簡潔な表現は、難しいかもしれないわ」
怜はたすき掛けをほどいて着物の袂を下ろし、なにかを探すように目を伏せる。竃の傍に佇む彼女が少しさみしくて、トーマは怜の手を引いた。畳にふたり並んで腰を下ろして、ほんの少しだけ安心する。結んだ手は、ほどかなかった。
――私と彼がともにいた期間は、数日にも満たないわ。
秋雨の冷たい日だった。家族も、家も失くした一斗と、家族も、家もなかった私。雨風を凌ぐために偶然同じ橋の下へ潜り込んで、ふたりでそのまま雨をやり過ごしたの。
寒くて、冷たくて、とってもお腹が空いていた。寒くて冷たいのは、身を寄せれば少しはましになったわ。でも空腹だけはどうしようもなくて、でもね。私、そのときたまさか、スミレウリをひとつだけ持っていたの。
隠しておくか悩んだわ、次はいつ食べ物が見つかるかもわからなかったから。でも一斗があんまりにもお腹を鳴らしていたから可哀想になって、彼と半分こをして食べたのよ。
綺麗に半分に割れなくて、大きいほうを一斗にあげた。そうしたらどうしてって聞いてくるから、答えたの。
「わたし、おねえちゃんだから」
正確な年齢なんてお互いわからない。でも私はそのとき、一斗のほうが幼いと思った。自分のほうが年上だから、彼を守らなければいけないって。
それで、ふたりでスミレウリを食べて、雨をやり過ごして、なんとか夜を明かした。朝になってからふたりで橋の下を出て、外を歩いて。でも結局、ずっと一緒にはいなかった。彼はお婆様に保護されて、私はこの長屋に受け入れられた。どうやって離れたのかは、もう覚えていないけれど。
そうして彼と離れて、何年も経ったあとに、偶然彼と再会したのよ。私は彼がすぐにわかった、私の知っている赤鬼は彼だけだったから。それでも彼は、私のことなんてわからないのが当たり前。
それなのに。あの子は私と目があった瞬間、迷わず「姉貴」って言ったの。
あのときの私には名前もなくて、私が彼に話せたことなんて「おねえちゃんだから」くらい。でもあの子はそれを覚えていて、ほかに呼び方もなかったしちょうどいいからって、私をそう呼ぼうと決めていたって言うの。
――だから私は、あの子の姉で。あの子は、私の弟なのよ。
包んだ手のひらの熱を灯台の代わりに、歌うような声に連れられて知らぬ過去を追想する。外は眩しいほどに晴れているのに肌寒さを感じたような気がして、怜の肩を抱き寄せた。彼女はトーマの腕に包まれるがまま目を伏せていたが、やがて吐息だけで微笑む。
「……ごめんなさい。つまらない身の上話を聞かせてしまったわ」
「そんなことない。オレの大事なひとの、大事な話だよ」
自嘲するような怜の言葉にすぐさま首を振り、あたたかな指をそっと握り締め直す。彼女の話が切なくて、そしてそれ以上に自分自身が不甲斐ない。しかしながら怜はあまりトーマを気に病ませたくないのだろう、彼の顔を覗き込んで穏やかに微笑んだ。
「そんな顔をしないで、トーマ。私、いま元気よ」
「うん、本当によかった。……でも自分が情けないよ、君の大事な話をいままで知らなかったんだから」
あえて明るい笑みを傾けられたのだから、ひとり落ち込んでいるわけにもいかない。けれど不甲斐なさはすぐさま消化することも難しく、苦い気分で肩を落とす。怜と一斗の関係だけではない、彼女の経緯さえトーマはひとつも知らなかったのだ。
「怜が聞き上手だからそれに甘えて、ついオレばかりが話しちゃってたんだよなぁ。自分のことばっかりで本当にすまない……」
モンド人の血が色濃く出ているトーマは自らの身分証明も兼ねて、己が神里家に仕えるまでの経緯を周囲へ語り聞かせることも少なくない。だから怜もトーマのことは知っている、けれどトーマは怜のことを知らなかった。その不公平さを生みだしてしまった自覚があるだけに頭を垂れて胸のうちに自戒を刻み込んでいると、やがて怜が囁いた。
「優しいひとね。貴方は、私を怒っていいのに」
「オレが、怜を? どうして」
「ひとのことは聞いておきながら、どうして自分のことは話さなかったんだ、って。貴方は私に怒る権利を持っているのよ」
まるで自らを貶めるような怜の言葉に思わず眉をひそめながら、そんなことは心配しなくていいと首を振る。彼女に怒る権利だなんて、たとえ差し出されたところで火にくべて焼き芋の種にでもなるのが関の山だった。
「言っただろ、君に話をするタイミングをわたさなかったのはオレの問題だよ」
彼女に無理やり話をさせる気はない、生きている限り他人へ打ち明けたくないことだって腕のなかに積もるからだ。しかしくちを開くかどうか、悩む契機すらトーマは怜へ差し出していなかった。だから怜がそのようなことを言う必要は、どこにもないのに。
「……本当に、優しいひと」
怜はそう呟いて瞳を眇めると、トーマの手を引くようにして立ちあがる。「さ、もう行かないと」今頃は長屋の外で待ちくたびれているだろう子どもを示されたから、トーマも落ち込む意識を切り替えて頷いた。
「さて、じゃあ今日はなにをして遊ぼうかな」
「最近は街の子どもたちに新しい遊びを教えてもらったみたい。よかったら付き合ってあげて」
手はどちらからともなくほどかれ、思い出と感傷は長屋の内側へ。