丁寧な見送りを受けるとともに重厚な扉を開き、煌びやかな『ホテル・ドゥボール』から、夜の緞帳が下りて久しいフォンテーヌ廷へと足を向ける。リオセスリの右腕へ身を寄せながら歩くセヴリーヌの足取りは、高いヒールとあっても安定している。それでもリオセスリへその身を預ける姿が愛しかった。
「ありがとう、貴方。とても美味しかったわ」
「喜んでもらえたようでなにより。また来年も、ここにくるか」
「ええ、ぜひ」
囁くような声が冷えた夜の空気を震わせ、その声へ耳を傾けるべく背を丸める。近付いた声はくすくすと軽やかに微笑むから、どうした、と尋ねれば、セヴリーヌは僅かな酒精で潤んだ瞳へ一層甘い色を乗せた。
「だって、もう来年の約束が生まれたのよ。なんて贅沢なのかしら」
「贅沢なもんか。あんたはもっと我儘を言っていいくらいだ」
結婚をして間もない頃よりは、リオセスリの贈った愛を受け取ることにも慣れている。けれどそれでもなお彼女は、贈られる愛情へ格別の喜びを覚えている。ささやかな口約束にさえも無垢な少女のようにはしゃいでは瞳を煌めかせるのだから、リオセスリは苦笑めいた微笑を自然とこぼしていた。
もっと傲慢であっていい、もっと特別でなくていい。リオセスリの贈る愛を摂理とするくらいでいい。それこそ傲慢な願いを抱く一方で、リオセスリから贈られたものを宝石の一粒のように愛する彼女の姿に喜んでしまう。これほどまでに贅沢な懊悩もないだろうと色惚けた己の思考に呆れながら、丸めていた背を伸ばす。ゆっくりと歩きだせば、セヴリーヌは美しい所作で彼のエスコートを受け取った。
「ええと、それじゃあ……そうだ、明日の朝ごはんはパンケーキが食べたいわ」
「本当に可愛いな、あんた」
公爵夫人に求めたとは思えないような我儘につい噴きだせば、セヴリーヌは困り顔で眉を下げてしまう。大粒の宝石も、繊細な工芸品も、精巧なクロックワーク・マシナリーも、彼女は思い付きもしないのだ。妻の純朴な姿を愛でる代わりにその額へくちづけて、困り顔をほどかせた。
そうしてささやかに言葉を交わしながら、夜のフォンテーヌ廷をゆっくりと歩いてゆく。それはホテルと水の上の邸宅を結ぶ最短距離ではなかった、けれど、それでよかった。太陽も、龍神さえも寝静まった深い夜のなかでは、街の人間も眠りについている。そのときにだけ、リオセスリとセヴリーヌは水の上で隣りあうことが出来るから。
回廊を渡って階段を下り、フォンテーヌ廷が誇る大噴水の前まで足を運ぶ。夜間であっても灯るひかりのお陰で水飛沫は幻想的な光景を生みだしており、足を止めたセヴリーヌはうっとりとその瞳をたわませた。
「綺麗ね。少しだけ、ルキナの泉を思いだすわ」
「ああ、あっちはもっと煌びやかだけどな。それも、じっくり鑑賞したことはないんだが」
「ふふ、実は私も。歌劇場へ行くときって、ほかのことで頭がいっぱいになってしまうから」
水の上と海底の要塞はエピクレシス歌劇場で結ばれているため、そこはどうしても公務の通り道でしかなくなってしまう。そうでなくとも、リオセスリたちはかつて壇上で裁きを受けた身だ。美しく整備された歌劇場の周辺を単純な感覚で楽しむことは難しく、どうしても足早に通り抜けてしまうことが多かった。
フォンテーヌ廷の大噴水は、そういった意味でもちょうどいい。意識が感傷に寄りすぎることなく、目の前の美しさを素直にそう捉えることが出来る。水面を照らすひかりを浴びたセヴリーヌの横顔を眺めていたリオセスリは、ふと静かな空間で瞬いた。
「セリン」
「なぁに、リィリ」
「水の上じゃ舞踏会が流行ってるって話だったが、あんたが誘われたことは?」
かの泉の傍はフォンテーヌ廷の流行を生みだしたその場であり、歌劇場の傍では巨大なクロックワーク・マシナリーが壮麗な円舞を披露している。そのことを思いだして、少し気になったのだ。先日のセヴリーヌは、流行をまるで他人事のように語っていたから。
「そういった方とのお付き合いは、あまりないの。そういった場にもお邪魔させて頂いて、ご縁を作ったほうが、仕事のためにもなるとは思うのだけれど」
「成る程、じゃあ個人的な経験は?」
「あら。……あったとしたら?」
「嫉妬で身を焼くことになるのは、間違いないだろうな」
いかにも上流階級らしい流行にセヴリーヌが触れていたとしたら、彼女は間違いなくリオセスリへそのことを告げるだろう。だが自分たちが出会う前に、彼女が誰かにエスコートをされた経験を持っていないとも限らないのだ。茶化しながらも本音を語れば、セヴリーヌは頬を赤らめながら笑みをこぼした。
「よかった、貴方の身体を焦がしてしまわなくて」
彼女のその言葉を喜ぶ程度には狭量な恋慕に内心で苦笑したのち、それなら、とリオセスリはセヴリーヌから僅かに身を離す。そして彼女がきょとんとしている間に一礼し、麗しい淑女へ手のひらを差しだした。
「では、我が愛しの公爵夫人。貴方を最初にエスコートする名誉をこの身に頂いても?」
それが幼稚な振舞いであることは自覚している。麗人と相対する際の立ち居振舞いこそ身に着けたものの、社交場における礼儀とあっては要塞の管理者に縁がない。そのためリオセスリのエスコートは、偏見を元にした見様見真似でしかなかった。
「……はい。貴方にそう言って頂けるのをお待ちしていましたのよ、我が愛しの公爵様」
けれどセヴリーヌは、そんなリオセスリの拙い振舞いにも瞳を輝かせてくれる。本物を知らないのは彼女も同じ、だからこそ稚拙な真似事でも互いに喜ぶことが出来る。リオセスリの差しだした手に己の指を重ねたセヴリーヌは、結んだ手を丁寧に引かれるがままにリオセスリへ抱き留められた。
「悪いな、ちゃんとしたパーティーもあんたに贈ってやれなくて」
「気にしないで、そんなこと。私はきちんと誂えられたパーティーよりも、貴方と一緒に過ごす夜のほうが好きよ」
リオセスリの知っているダンスといえば、それこそ氷上を舞うクロックワーク・マシナリーのものくらい。彼らを真似るように適当なステップを踏んで、セヴリーヌの足がもつれないようにそっとターン。ふわりと浮く感覚にきゃあとはしゃぐ声が、今宵は一際に愛らしかった。
「それにね、リィリ。私、うんと小さな頃、憧れていたの」
細い身体を丁寧に下ろせば、甘えるように手を引かれる。同じものを求める稚さに少しばかり笑ってから、抱き締めた身体ごとくるりと舞ってみせた。それもまたセヴリーヌのお気に召したようで、彼女は幼い少女のような無垢さで笑う。そして寄せられた身体を包み込んで、知らぬステップを踏むように足を動かしながら身を屈める。そうするとセヴリーヌが、秘密を打ち明けるようにリオセスリの耳元へと顔を寄せた。
「綺麗なドレスを着た私を素敵な王子様が見つけてくれて、その王子様にエスコートをしてもらって、ダンスを踊るの」
リィリが全部、いま叶えてくれたのよ。
彼女は、そう囁いて笑う。リオセスリと出会う前に彼女が抱き締めていた、喉元に罪の烙印を刻んで以降は手放したのだろう、かつての憧憬を告白する。仕立てて間もないドレスの裾を夜風に揺らすセヴリーヌは暗闇のなかでも明瞭に、幸福に満ちていた。
「……それだったら、尚更だ。俺はあんたに、ダンスホールから贈るべきだった」
「まぁ。それもとても嬉しいけど、きっと、私の身には余ってしまうわ」
稚拙な真似事と幼い頃の夢を結びあわせるセヴリーヌを、見様見真似のダンスも放棄して抱き締める。こぼれた言葉は本音に違いないのだが、どうやら彼女はそう捉えなかったらしい。くすくすと軽やかに微笑む声が愛おしくも口惜しく、その身体を抱き締める腕に、少しばかりのちからを込めた。
まだ濯ぐ罪を持っていなかった少女の夢を、裁きの奥で出会ったリオセスリに満たさせたのだ。それこそが身に余るほどの栄誉であることに、彼女自身が気付かない。彼女にとってそれは、ごく自然な愛の発露であったから。
「それなら私、ダンスホールが建つのを待つより、もう少しだけ貴方とここで踊っていたいわ」
そして彼女は無邪気に笑ってワルツの続きを求めたから、リオセスリにはその言葉を叶える以外の選択肢が思い浮かばない。セヴリーヌの腰を抱いて足を動かせば彼女はばら色の頬へ歓喜を溶かし、リオセスリへと身を寄せた。
「でも、それだけじゃ割に合わない。ほかに、なにか願いごとは?」
「……ふたつだけ、いいかしら」
「ふたつと言わず、幾らでも」
なおも我儘に少女の憧れを重ねて望めば、彼女は恥ずかしげに目を伏せてから微かな声を弱く紡ぐ。少しでも強い振動を与えればほどけてしまいそうだったから、リオセスリは自らの知り得る限り最も柔らかな声で頷いた。そうすればセヴリーヌは、ダンスの合間で逡巡を繰り返したのちにこう告げる。
「……ダンスの最後は、王子様に抱き締められるの。そのまま王子様に抱きあげられて、パーティー会場をあとにするのよ」
そのささやかな願いの、なんと甘美なことだろう。稚く淡い幻想に胸が詰まり、いますぐにでも叶えてやりたい衝動をぐっと堪える。高いヒールでも軽やかに踊る彼女は、まだ少女の夢のなかにいるのだから。
「……ああ、もちろん。喜んで、お姫様」
そうして、砂糖菓子のような少女の夢を慈しむ。自分だけに許された特権を、手のひらに重なった愛情を守るように。