たとえ真珠が白くなくても - 4/4

 よし、と満足そうな声がする。それを合図とするように瞼を震わせて持ちあげれば、満足そうな女性の笑みが視界に入る。その表情の明るさにセヴリーヌがそっと息を吐くと、彼女を安心させるように女性が一際明るい笑みを浮かべてみせた。
「うん、いいね。胸を張りな、いまのあんたは世界で一番美人だよ」
「はい。ブロックさんがそう言ってくださるなら」
 セヴリーヌに化粧を施した女性は最後に彼女を立たせると、その場でくるりとセヴリーヌを一回転させる。高いヒールにふらつきながらもステップを踏めば、よしよし、更に満足そうな声。自分の晴れ姿は、どうやら異邦の友人の眼鏡にも叶うものとなったらしい。
「それじゃ、あとは旦那さんを待つだけだね。緊張はしてないかい? 水でも飲む?」
「いいえ、大丈夫です。私よりディオナさんのほうが、大丈夫でしょうか」
「ああ、そうだねえ。尻尾の毛が逆立つほど緊張してたけど、まぁ大丈夫でしょ」
 それよりも気がかりなのは、セヴリーヌたちの我儘を聞き入れることになった人物だ。モンド城の大聖堂ではなく静かな町での結婚式を望んだ異邦人からの相談を受けることになったディオナに対しては、挙式の打ちあわせへ付きあわせるだけに飽き足らず、それ以上の仕事を依頼してしまった。
 彼女にはあとで改めて、よくよく礼を伝えておかなくてはならない。胸にそう誓っていれば、でも、とブロックが呟いた。
「あんたこそ、いいのかい? 結婚ってのは普通、神様に愛を誓うものだろう」
「私たちの神は、先日その座を降りられましたから。それに代わって風神様へ誓わせて頂く、というのも、身勝手な振舞いですし」
 水神は自らへ向けられる感情よりも正義への意思を信仰心としていたことにも所以するのだろうか、フォンテーヌの婚姻において神への誓いはさして重要視されていない。フォンテーヌで行われる結婚式はむしろ、婚姻関係を披露し縁故を深める社交場としての意味あいのほうが重んじられていた。
 それに比べれば、モンドの風神信仰は神と袂を分かたってなお深い。そのため彼らの目には、セヴリーヌたちの選択はずいぶんと物珍しく映るようだった。
「誰かと交わす約束は、神へ捧げる祈りと等しく、守られるべきものであると。夫も、同じ考えでしたので」
「ははあ、成る程ねえ。ま、あんたたちがそれでいいならかまわないさ」
 愛の誓いは、神ではなく自分たちへ。それがセヴリーヌとリオセスリの決断であり、そのため今日の結婚式には神の使いも存在しない。そこにいるのは、徒人だけだった。
 そうしてブロックと幾らか世間話を交わしていれば、やがて家の扉がこつこつと叩かれる。ブロックがその扉を開けば、胸を打つような感嘆がセヴリーヌの鼓膜に触れた。
「へえ、これまた男前じゃないか!」
「ありがとう、ブロックさん。花嫁は早速迎えにあがっても?」
「もちろんさ。ほらセリン、こっちにおいで」
 ブロックに手招かれるまま、ドレスの裾を持ちあげながら扉の傍へと足を運ぶ。その途中で瞳が奪われ、ああ、と思わず吐息が漏れた。ひかり差さない海底の管理者、メロピデの王が、いまばかりは陽光に煌めき白銀の正装に身を包んでいる。はじめて流星群を見あげたときのような心持で言葉を失っていると、目を見張っていたリオセスリがやがて薄氷色の瞳をたわませた。
「……思った通りだ」
 花嫁姿のあんたは、格別だな。噛み締めるような声に、胸が震える。彼に望まれた、自分が望んだ。結実した我儘は、言葉を失うほど美しかった。
「私は、思っていた以上だったわ。想像していたより、ずっと綺麗よ、リィリ」
「俺にそう言うのは、あんただけだよ。あんたのほうがずっと綺麗だ、セリン」
 星月夜に見惚れるような心地で呟けば、そっと手を差しだされる。リオセスリの手のひらに自らの指を重ねあわせれば、ゆっくりとその身を引き寄せられた。
「さ、あとはみんなが待ってるよ。足場が悪いから気をつけな」
 最近雨が続いたから、ちょっと地面がぬかるんでるんだ。新郎新婦のために扉を開いたブロックの言葉通り、よくよく見下ろした土はひとの足跡がくっきりと残るほどに柔らかい。ドレスは裾を持ちあげれば大丈夫だろうけれど、高いヒールが土に絡めとられないだろうか。恐る恐る足を踏みだそうとしたところで、身体を覆う浮遊感。セヴリーヌがきょとんと瞳を丸くさせていると、その間にも彼女の身体は世界一安全なところにまで抱きあげられていた。
「なら、こうして行ったらいい」
「へえ。やるじゃないか、リィリさん」
「妻のエスコートは、夫の務めですから」
 長いドレスの裾も彼女の脚ごと腕に乗せるようにして、リオセスリはセヴリーヌを横抱きにする。彼女は花束を抱き締めたまま瞳をしばたかせていたが、やがて堪えきれずに笑い声をこぼしてしまった。
「ふ、ふふっ、こんな結婚式、見たことない」
「いいだろ、アドリブを利かせやすくて」
「ふふ、そう、そうね。私も、こっちのほうが好き」
 格式ばった式典に詳しいわけではない、けれどこれが作法通りでないことくらいはセヴリーヌにもわかる。不思議とそれを好ましく感じながら、セヴリーヌはリオセスリに抱かれたまま結婚式場として設えられた滝の傍にまで向かうこととなった。
「あっ、来た! ……リィリさん、なんでセリンさん抱っこしてるの」
「足元が悪いみたいだからな。俺の大事な花嫁が怪我をしたら一大事だろう?」
「ああ、昨日の雨のせいね。まぁいっか」
 滝の傍、泉のほとりでは清泉町の人々がふたりに対して煌めく瞳を注いでいる。それがくすぐったくも喜ばしく、セヴリーヌはリオセスリの手を借りて地に足をつけながら周囲をぐるりと見わたした。
 昨日まで降っていた雨も今朝になればぴたりと止んで、頭上には突き抜けるような晴天が広がっている。穏やかな自然に満ちた空間に施された花飾りの彩色、クロスが敷かれたテーブルのうえには湯気の立つモンドとフォンテーヌの郷土料理。町の人々は異邦人の結婚式に対して胸をときめかせており、そのあたたかな空気にくちびるが自然とほころんだ。
 重ねた木箱のうえに立ったディオナは、セヴリーヌたちと視線の高さをあわせたのちに小さく咳払い。シスター役を務めることとなった少女は、愛らしいかんばせにきりりとした表情を浮かべてふたりを見下ろした。
「さて、じゃあリィリさんとセリンさんの結婚式を始めます! ……あたし、シスターさんなんて初めてなんだから、ちょっと変でも許してよね」
「もちろん。むしろ俺たちの無理をこうして聞いてくれたこと、感謝している」
 高らかなディオナの声に対して拍手があがる明るさにセヴリーヌが笑みをこぼす横で、リオセスリが穏やかな微笑とともにディオナへ改めて頭を下げる。セヴリーヌも同じように一礼すると、ちょっとぉ、と弱り声が落とされた。
「やめてよ、まだなんにも始まってないんだから! ほら、ええっと、行くよ」
 こほん、また小さな咳払い。けれどそれを聞けば、賑わっていた空気は涼やかなものになる。耳のすぐ下を、心地好い風が通り抜けた。
「新郎リィリさん、新婦セリンさん。あなたたちは病めるときも、健やかなときも、幸福なときも、つらいときも、お互いを愛し、敬い、慈しむことを、あなたたち自身に誓いますか」
 愛するひとに、愛を誓う。それはふたりにとって最も自然で、最も正しい愛のかたちだ。互いへ瞳を向け、自然とその手を結びあう。純白の正装を溶けあわせるように身を寄せながら、声は自然とともに出る。
「はい、誓います」
「俺たち自身と、俺たち異邦人の結婚を祝福してくれる、この町の人々に」
 そして愛とは、互いだけに傾けられるものでもなく。ふたりの個人的な事情を我がことのように喜ぶこころへの情愛を告げれば、ディオナの瞳が大きく震えた。
 小さく息を飲む音、喉がひくりと震える。胸をいっぱいにしてくれた少女は涙をこぼさないよう両手をぎゅっと握り締めながら、清泉町いっぱいにその声を響かせた。
「っ、じゃあ、あたしたち全員が、ふたりの愛の証人です!」
 その声へ呼応するようにして、弾けるような歓声が溢れかえる。花びらの雨が頭上へ降り注ぎ、どこからかワインのコルクが抜ける音。「ちょっとお、それ全部まだでしょ!」慌ててそれを止めるべくディオナは木箱から降りてしまったから、シスター役も式場から退場してしまった。
 アドリブだらけの結婚式に、気づけば笑みが止まらない。ブーケでくちもとを隠しながら笑い続けるセヴリーヌを抱き寄せながら、リオセスリも珍しくその肩を震わせている。まるで喜劇のようだった、だがそれはフォンテーヌ人の最も愛するものだ。だからこんなにも幸福で仕方ない。
「どうする、セリン。誓いのキスは」
「しておかなくちゃ、もちろん」
 コメディタッチな幕引きに結婚式の参列者たちはどうしようかと各々話しあい、セヴリーヌたちを手招いたり、既に食事の席へ向かっていたり。ふたりを呼ぶ女性に少しだけ手を振って、セヴリーヌはリオセスリの腕へもたれかかりながら背伸びをした。リオセスリは彼女の背中を支えながら背中を丸め、誓いの口づけは喧噪の最果てで密やかに。
 降り注いで落ちた花びらは風によってまた舞いあがり、どこからか竪琴の歌声。空から降ってきたセシリアの花を受け止めて、ふたりはまたキスをした。