たとえ真珠が白くなくても - 2/4

 結婚式を執り行うとなれば、まず決めるべきは挙式の場所だ。婚姻関係を明らかにすることが難しいために、フォンテーヌはまず選択肢から外される。闘争の国であるナタとファデュイの拠点たるスネージナヤも治安の問題から見送ることになり、残るはスメール・モンド・璃月・稲妻の四国。そのうえで物理的な距離も考慮に入れれば、選択肢は必然的に限られた。

「リィリ! いまお手紙が届いたの、モンドの方がスーツとドレスの発注も引き受けてくださるって」
「ほう、そいつはなによりだ。見積書は?」
「それは……まだみたい。式を挙げる場所の下見も必要だから、今度モンドへ行ってくるわ。服の希望についてもそのときお話してくるつもりだから、見積もりはそのあとじゃないかしら」
 海を越えて届けられた手紙を配達員から受けとるや否や、セヴリーヌはリビングのソファに腰を落ち着けている夫の下へ小走りで向かう。挙式を計画するにあたり、リオセスリはそれまでよりも頻繁に水の上の邸宅へ戻ってくるようになった。それがセヴリーヌを思いやっての行為だとわかるから、彼の情愛が喜ばしくも胸は痛む。メロピデの王たる人物が持つ有限の時間を、ごく個人的な目的のために削ってしまっている。それは水の下を知る者であれば、誰もが覚える罪悪感に違いなかった。
「なら、行くときにはユーインくんも誘っておいてくれ。万一のことがあってからじゃ遅いからな」
「大丈夫、わかってるわ。あとは、ええと……」
「安心しろ。確認する必要のある部分は、あとでまとめておく」
 だが、それほどまでにリオセスリの時間を割かせて手を回す必要があった。ファッションの最先端を拓くフォンテーヌではなくモンドのデザイナーにオーダーメイドの依頼をしたのも、情報の伝播が速い業界内でふたりの立場が漏れ伝わる危険を避けるため。それほどまでに、セヴリーヌはリオセスリから守られていた。彼の妻であるという事実を狙う毒牙がそもそも生まれないよう、セヴリーヌの存在はリオセスリの手のひらに包み込まれている。
「悪いな、あんたばっかり走り回らせて」
「気にしないで。ふたりで決めることは、こうして一緒に決めてもらっているもの」
 その気遣いに比べれば、フォンテーヌとモンドを行き来することなど大した手間のうちにも入らない。国交が開かれた国同士なのだ、セヴリーヌのすることなんてチケットを取った船に乗って少し歩くくらいなもの。リオセスリの気遣いに対して微笑を浮かべながら首を振るのだが、それでもセヴリーヌの頬は労わるように撫でられた。
「だが、最近はずいぶん考え込んでるみたいじゃないか。顔色もあまりよくない」
「それは……ちょっと仕事のことを考えてただけだから、大丈夫」
 分厚い指の腹で眦を撫でられたのは、隈が浮きでていたからだろうか。あたたかな指に頬を寄せながら、ささやかに息を吐く。ごく個人的な目的のためにプライベートの時間を費やす一方で、セヴリーヌの意識は、ふとした瞬間には自らの運営する事業に対しても傾いてしまっていた。
「仕事の? なにかあったのか」
「ううん、困ったことはなにも」
 表向きはセヴリーヌの事業の業務提携先に過ぎなかったが、リオセスリは組織の実質的な相談役も担っている。その立場にある彼へなにも告げていないのは、セヴリーヌのなかに浮かんでいるものが現実的な課題ではないからだ。
 ただ星を指でなぞる程度の、なにかが生みだされることのない、なにも生まれていない、ささやかな思い。だからそこに言葉をはめることはなく、音を乗せることもなく、ただ自分のなかでだけ息づいていた。
「成る程。つまり、困っていないことならあるんだな」
 本当はこうして、表に滲ませる予定もなかったのだけれど。リオセスリはセヴリーヌの後ろ手に回したものにいち早く気がつくうえ、決してそれを見逃さない。そしてセヴリーヌは昔から彼へ嘘をつくことがへたくそだったから、困ったように笑みをこぼすことしか出来なかった。
「……少し、考えていたの。みんなが結婚式を挙げられるようにするなら、どうしたらいいかしらって。ドレスとスーツを買うのは難しくても、たとえば貸してくれるところがあるのかしら、とか」
 それは星を結ぶことも叶わない程度の、甘く幼稚な絵空事だ。現実にするべきはサーンドル河での炊きだしを継続可能なものにしてゆくための金策であり、ドレスを探す手段ではない。けれど思考は飛び散ってしまう、自分のすぐ隣にはそれがあるから。
「そいつは……水の上でも相談があったのか?」
「いいえ、まったく。私が勝手に考えてしまっているだけ」
 現実逃避の妄想めいた思考に意識を割かれてしまっているだなんて、決して褒められた行為ではない。ごめんなさい、と苦笑すると、謝らなくていい、とまた頬を撫でられた。
「なら、どうしてそれを?」
 だがリオセスリは、話をそこで終わらせなかったから。
 セヴリーヌが僅かに息を飲み、くちびるを結びあわせる。「どうしてかしら、なんとなく」辛うじてそう呟きはしたけれど、リオセスリはそれを微かな吐息で以て黙殺した。彼はどこまでも聡明で、だからこそ、セヴリーヌのささやかな隠しごとなんてすぐに見抜いてしまう。
 けれどそれをくちにしては、あまりにも身勝手。我儘な思いに首を振るのだが、リオセスリはそれを許さない。息が苦しくなるような沈黙の末、彼は柔らかく音を紡いだ。
「セリン。それは、俺以外になら話せることか?」
 優しく柔らかく、セヴリーヌを少しも傷つけないように。その声があまりに慈しみで満ちていたから、セヴリーヌはとうとう俯いた。
 後ろ手に隠したものをリオセスリへ告げることは出来なくともいいと言う、それをほかの誰かには明け渡すことが出来るなら。セヴリーヌがひとり泣き濡れることさえないのなら、黙っていてもかまわないと。
 その言葉が、苦しくなるくらいに誠実だったから。
「……だって」
 呆れるほどくだらない思いは容易く露呈する。そうでなければ、彼の至誠に対してあまりに不義理であった。
「だって、こんなの、ずるいから」
 それがたとえ、贈られる愛に対する不実であろうとも。
 歌劇場で罪をつまびらかにされたときの記憶が蘇る。自らの罪を突きつけられ、喉が塞がれるような感覚。勝手に擦れそうになる喉を必死で震わせて、セリンは自らの不誠実さを告解する。
「私だけが貴方に愛されて、私だけが幸せになって。あまつさえ結婚式だなんて、そんなものを、私だけが与えられる。そんなのずるいって、だったらみんなもそうでなくちゃいけないって」
「セリン、それは」
「わかってる、こんな風に思うだなんて、貴方の愛に対して無礼だって。そうだって、わかってるのに、思ってしまうの……」
 リオセスリは、彼がセヴリーヌへ注いだもののすべてを我欲の愛に因るものだと告げた。たとえそれが救済であったように感じたとしても、そこにあるのは公平な慈悲ではないのだと。だから彼の愛情は自分だけに贈られ、彼だけが自分の恋情を受け取った。恋人同士、パートナーとして愛の循環を成立させた。
 それでも、幸福だと思うたびに胸が痛んだ。安寧を感じるたびに、意識の端がざらついた。どうしてお前だけが幸せになるのだと、皮膚の内側から喉笛を掻ききるような怨嗟が消えなかった。そしてそれは、その通りだと思うから。生きとし生ける命のすべてに、幸福は平等に降り注ぐべきものだから。
「私が幸せになるなら、みんなも同じだけ幸せにならなくちゃ、そんなの、ずるい」
 愛しいひとから贈られた愛情を捨てることは出来ない。それならせめて、与えられた幸福を世界へ還元させなくてはいけないと。その思考がいまなおやまず、くちびるを噛み締める。それ以上の言葉が、セヴリーヌには、もうわからなかった。
「……ずっと、不思議だった。どうしてあんたは、そこまで罪悪感を覚えてるのかってな。刑期は終わったんだ、罪は既に濯がれた。それにあんたのやったことなんて、俺のものに比べたら事故みたいなもんだってのに」
 静寂に首を垂れていれば、やがてリオセスリがそう呟く。「そんなこと」思わず顔をあげて首を振れば、彼の顔から笑みがこぼれた。ああ、あんたはいつもそうだ。薄氷色の瞳が眇められ、腕がゆっくりと広げられる。
 「おいで、セリン」あくまでも呼び声、そこに強制力はない。けれど振り払うことなど出来なかった、セヴリーヌはリオセスリを愛しているから。彼の腕のなかへ向かえば、全身を抱き締められた。
「事故だろ、あれは。あんたに殺人の意思はなかった」
「でも、傷ついてしまえって思った。同じ思いをしたらいいって、そう、思ってしまったの」
「ああ、それで結果的にはひとが死んだ。あんたは、そんなつもりじゃなかったのに」
 罪を告解する、歌劇場の中心へ立たされていたときのように。他害の願いを懺悔すると、リオセスリは一層のちからでセヴリーヌを抱き締めた。そして、分厚い手のひらがまたセヴリーヌの頬を撫でる。そのときに初めて気がついた、いつの間にか頬がぐっしょりと濡れていた。
「あんたはずっと、「そんなつもりじゃなかった」んだな」
「え……」
「そんなつもりじゃなかったのに殺しちまった、だからあんたはいつまで経っても自分のことが許せない。しかもそこに俺がきて、勝手にあんたを救った。あんたは、そんなつもりじゃなかったのに」
 彼の手を濡らしてしまったことよりも、告げられた言葉に胸が痛む。苦笑するリオセスリを、真っ先に否定する。「違う、そんなことない」彼が自らの行いを悪し様に語る必要など、どこにもないのだ。けれどリオセスリはセヴリーヌの頬を拭いながら、おかしそうに喉を鳴らした。
「いいや、そうだ。ずっと言ってたじゃないか。自分だけが俺に救われるのは不公平だ、それなら他のやつらも救われなきゃいけないって」
「それは、でも」
「いいんだ、あんたが気に病むこともない。そもそも俺の愛する女は、元からそういう女だ」
 そうじゃなきゃ、一枚のパンをわざわざふたつに分けはしないだろ。リオセスリはそう笑う、けれどセヴリーヌにはその言葉の意味がわからない。返す言葉を見つけられずにくちを噤んでいると、リオセスリが眦を緩ませる。それは、いつかの夜に見あげたものとまったく同じ笑みだった。
「あんたがそういうやつだとわかったうえで、俺のエゴで、俺が勝手にあんたを救ったんだ。俺はどうしても、そうしたかったから」
「リィ、リ」
「悪かった、セリン。そうしたらあんたはずっと気にしちまうって、もっと理解しておくべきだった」
 そう告げられて、涙がまた溢れだす。それでも涙を拭うより先に首を振って彼の言葉を否定する。自らの手で不格好に落ちるしずくを拭えば、その手を労わるように大きな手指で包み込まれた。
「貴方が謝ることなんて、どこにも存在してないわ。リィリはなにも悪いことをしてないんだもの」
「……ああ、そうだな。俺も、あんたも。濯いだ罪以上の悪いことなんて、してないんだ。だから気に病むことだって、なにもない」
 そうだろう、と濡れた手先にくちづけを落とされ、言葉をなくしたくちびるが中途半端に吐息をこぼす。指差された罪悪感の根源を見つめる代わりにリオセスリを見あげていれば、無邪気な子どもがするように額と頬を寄せられた。美しい瞳が、一層近くなる。
「それでもまだ引っかかるなら、誰もが挙式が出来るようにしたらいい。いまの事業を始めたときみたいにな。ただし、今度は「そんなつもりじゃなかった」ことの埋めあわせじゃない。あんたが、そのつもりでやるんだ」
「……そんなの、私の我儘でしかないのに」
「知ってるか? 他人を思っての我儘は、献身と呼ぶんだ」
 愛に不実な罪悪感すらリオセスリは鷹揚に受け入れ、それに従わんとする脅迫的な思いさえ肯定する。それがセヴリーヌの意思によるものであるならばかまわないと、ほかの誰でもなく自分自身のせいで消し去ることが出来ない罪の烙印にさえくちづけを落とす。そうしてセヴリーヌの濡れた手に、彼女のこころを握らせるのだ。
「ま、さすがに結婚式だけは「そんなつもり」でいてほしいがな」
 罪滅ぼしにも我儘であれと語る声に、涙が滲む。ああ、また彼に守られている。彼にこころまでもを救われている、自分だけが。そんなつもりではなかったのに。彼は、そのつもりだったから。
「……私、ずっと、そのつもりだわ」
 互いの手指を結びあい、寄せられた顔に涙を拭われる。稚い愛の交合にまた泣いて、セヴリーヌは濡れた頬を自らリオセスリの瞳の下まで摺り寄せた。
「貴方を愛することだけは、私、ずっと、自分で選んでいたの」