罪人のためのガゼボ - 2/2

「……はい、じゃあ今日はこれでおしまい。また来月お邪魔するけど、それまでになにかあったら、気にせず私のところまできて頂戴ね」
「それって、じいさんの誕生日プレゼントの相談でも?」
「もちろん。アシルがお祝いしてくれたら、マスターもきっと喜ぶわ。私でよかったら相談に乗るから、いつでも声をかけてね」
 面談の終わり際、鋭い目つきを和らげた少年の言葉にセヴリーヌは目元を緩ませる。メロピデ要塞での刑期を終えたのち水の上へ戻ることを決めた少年は、セヴリーヌが紹介した勤め先とも良好な関係を築いているようだった。既に終えた店主との面談でも大きな問題は見受けられなかったし、こうしてこぼれた言葉がなによりの証左。彼はこの雑貨屋での仕事で、ようやく安寧を見つけられたようだった。
 「じゃ、来週行く」「わかった、時間を空けておくわね」少年との約束を手帳に書き込み、荷物をまとめて席を立つ。そうして雑貨屋奥の一部屋から店内へ戻ると、荷出しに勤しんでいた店主がゆったりと顔をあげた。
「ふたりとも、終わったか」
「じいさん、それは俺がやるって言ったろ! カウンター戻れって」
「はいはい、ありがとうな。まったく、アシルのお陰でわしの身体がなまっちまうよ」
「じゃあ空いた時間で散歩でもしてきたらいいだろ。こんなの腰に悪すぎんだよ」
 腰を擦りながら曲げていた膝を伸ばした店主は、生意気な言葉による気遣いを正しく受け取る。くすぐったそうに笑ってカウンターに戻った老齢な人物は、セヴリーヌに対してひょいと肩を竦めてみせた。
「さっきも話したけど、うちは御覧の通りですよ。よく働いてくれるお陰で、わしの仕事がなくなる一方だ」
「それはなによりです。……もしアシルの長期雇用を見越して店舗の拡大や取扱商品の拡充を検討されるようであれば、そちらについてもお手伝い致しますので」
「そうだな、考えてみてもいいかもしれん。そのときはまた相談させてもらいますよ」
「ええ、いつでもお待ちしています」
 セヴリーヌが店主に向けて笑みをこぼせば、うむうむ、と店主も満足そうに頷く。それからも幾らか世間話に花を咲かせていれば、雑貨屋の扉がそろりと開かれた。からん、ドアにつけられたベルが鳴る。荷出しをしていた少年が、反射のように顔をあげた。
「いらっしゃ……」
 けれどその声は不自然に途切れ、出入り口付近の空気がほんの僅かに冷たくなる。少年の瞳が本来の鋭さを取り戻し、店内へ足を踏み入れた人物が華奢な身をぎゅっと強張らせた。
 僅かな冷たさが浮かぶのも、仕方のないことではあった。少年は貧困に喘ぎ生活苦に追い込まれた元窃盗犯であり、雑貨屋へ訪れたのは先日までフォンテーヌの国政を執り行っていた元水神であったから。氷塊のようなわだかまりを無視することは、誰にも出来ない。
「こら、アシル」
 けれどそれは、やがて溶けてゆくべきものでもあるから。店主が困り顔を浮かべると同時、セヴリーヌが急ぎ足でふたりの間へ入り込む。少年の顔を覗き込むと彼は途端にバツの悪そうな表情になったから、セヴリーヌも怒り顔をすぐにほころばせてしまった。
「なにもしていないお客様を睨んでは駄目よ。アシルが怖い顔をするせいでマスターのお店のものが売れなくなったら、貴方だって困るでしょう?」
「……わかってるよ」
「なら大丈夫ね。私は貴方の笑った顔が好きよ、クールなのに優しいの。だからお客様にも、アシルの素敵な笑顔を見せてあげて」
 彼は聡い人物だ。冷たく厳しい感情を宥めれば、こころをそれ以上の感情に引きずられることはなく、事実とそれを理解する思考に寄せることが出来る。少しの棘を残しながらもセヴリーヌの言葉に頷いた少年へ、彼女はにっこりと笑顔を浮かべてみせた。そうすると少年は目を丸くさせ、脱力したように笑い声をこぼす。なんだよそれ、と笑った顔の優しさが、冷たくなった空気をあたためた。
「それが私にとっての本当だもの。……よし、じゃあお買い物して帰ろうかしら。小麦粉とラズベリージャムをくださいな」
「わかった。砂糖は?」
「今日は大丈夫よ。ありがとう」
 セヴリーヌの言葉を受け取った少年は、商品棚からそれらを取ってカウンターへと向かっていく。手際よく紙袋へ商品を詰める少年の姿に微笑を少しこぼしてから、セヴリーヌは居心地悪そうに視線を彷徨わせている女性の顔をそっと覗き込んだ。
「フリーナさんも、お買い物ですか?」
「あ、ああ。店主! パスタと、いつものトマトソースを」
「はいはい、ご用意してますよ。ちょっとお待ちくださいね」
 声をかければ、それを契機にフリーナは普段の彼女らしい振舞いで声を張る。透き通った声に店主は微笑みながら頷いて、フリーナとセヴリーヌのそれぞれがカウンターに並ぶ。会計を済ませて、紙袋を受け取った。「ありがとう。またお邪魔しますね」ただ買い物というだけでなく定期的に行っている面談を示唆すれば、店主と少年は揃って頷く。そうしてセヴリーヌは、フリーナを追いかけるようにして雑貨屋をあとにした。

「フリーナさん!」
 雑貨屋の扉が、セヴリーヌを見送るようにベルの音をかろんと鳴らす。小さな鐘の音を背に石畳を小走りで進めば、ゆっくりとした足取りでいた女性が彼女を振り返った。セヴリーヌが追いかけてくることを見越して、その足取りは緩められていたのだろうか。そうであれば、身勝手にも喜ばしいと思った。
「先ほどは、大丈夫でしたか?」
「ああ、あれくらいなんともないさ」
 セヴリーヌの言葉にフリーナはあっさりと頷いたが、額面通りには受け取り難い。たとえ本当に平気であったとして、強い敵意を向けられたことは事実。それは決して、なんともない、という言葉で丸めていいものではない。
「キミがいたってことは、彼は恵まれない立場の者なんだろう? それなら、彼が僕を怨むのも当然のことだ」
「それは……」
 だがフリーナは、切なくなるほど達観して現実を呑みこんでいる。フォンテーヌの格差社会、不可視の膜によって遮られた階級ごとの層構造。サーンドル河に住む者が国政によって救われることはなく、その果てに罪が横行する。少年の憤りは正当なものであった。せめて炊きだしのひとつでもあれば、彼は罪を犯していなかった。
「それを思うと不思議なのはキミのほうだよ、セヴリーヌ」
「え……私、ですか?」
「そう。彼らへの救済を生業とするキミにとっても、僕は快い相手ではないだろう。それなのにキミは僕に話しかけ、あまつさえカフェでお茶にまで誘ってくる」
 フリーナの瞳が、言葉とともにセヴリーヌへと向けられる。異なる色彩の双眸に浮かぶのは同じ感情。フリーナの住むアパートメントの傍でマルコット草を助けた日から続いている交流を、彼女は不思議そうに持ちあげ眺めていた。
 己の立場を過剰にひけらかしてはいない。けれど世間話のなかで自然と漏れる範囲では、セヴリーヌも自らが行っている事業の話をこぼしていた。メロピデ要塞で刑期を終えたのち水の上へ戻ると決めた者や、サーンドル河で生活苦に喘ぐ者。彼らへの生活支援を、彼女は長らく続けている。
「キミは、僕が憎くないのか?」
 だからこそ生まれたのだという疑問を歌う素朴な声に、胸が軋んだ。
「フリーナさんを憎む理由なんて、どこにもありませんから」
 自身を憎まれて然るべきだと定義づける姿は、どんなものであれ痛々しい。セヴリーヌは首を振り、なおも怪訝そうに眉をひそめているフリーナを見下ろす。彼女がいまも水神であれば、胸中に渦巻く感情はいまあるものと異なっていたかもしれない。けれど紙袋を腕に抱えてセヴリーヌの隣を歩く人物は、ただの女性でしかないのだ。
「……私たち罪人は審判を下されたあと、メロピデに向かいます。そして彼の地で罪を濯ぎ終えれば、水の上のひとたちと同じように生きることが許される。現実がそうではなかったとしても、本質はそうあるべきなんです」
 声は自然と小さくなる。けれどフリーナは囁き声を拾いあげ、宝石の如き瞳を震わせた。息を飲む女性へ、微笑をひとつ。彼女はセヴリーヌのことを覚えてはいなかった、けれど罪はきっと知っているだろう。セヴリーヌの犯した罪は娯楽として、戒めとして、いまもフォンテーヌに消費され続けている。
「水神様も、歌劇場で審判を受けたと聞いています。そこで判決は下り、罪は処断された。そうして罪を濯いだひとは、普通に生きていい。それはきっと、人間も、神様も、同じだと思うんです」
 だって私たちは同じように罪を犯し、同じように罰されたのですから。セヴリーヌの呟きに、フリーナの歩みがとうとう止まる。彼女を庇うように道の端までそれとなく誘導すると、花のかんばせが伏せられた。
 言葉が生まれることはない。空気が僅かに震え、弾けはするけれども。音が生まれようとして立ち消える、幾度とない空気の囁きがフリーナの胸中をセヴリーヌへと伝えてゆく。彼女のなかにあるものに、どの言葉も当てはまらないのだろう。ただ苦しげな吐息がときどきこぼれるから、セヴリーヌも目を伏せるようにしてフリーナを見つめる。
「罪は一生消えないし、ずっと自分を苛むのだと思います。……でも、だからこそ。せめて、世界からは許されるべきじゃないかって、いつも思うんです。そうじゃなきゃ、下された罰になんの意味もなくなってしまう」
 罪は罰され、その先で生まれる赦しは祝福となり、徒人としての生を与えられる。少なくともセヴリーヌはそう思っていて、それを願っているから。祈るために組んだ手を、地底から地底へ伸ばし続けている。
「だから、私がフリーナさんを憎む所以も、嫌う理由も、ないんです」
 そして叶うなら、彼女にも伸ばした手が届くように。祈るような思いで言葉を紡ぐと、小さな首肯だけが返される。言葉はない、空気はただ震えるばかり。花のかんばせが向けられることもなく、セヴリーヌにはフリーナが浮かべている表情もわからない。
「……よかったら、カフェに寄って帰りませんか。新しいフレーバーティーがとっても美味しいって、友人から教えてもらったんです」
 せめて、それが少しでも彼女の安寧となるように。喧噪のはずれ、往来の端で陽光が降り注ぐ街をただ眺める。ひかりのしたへ戻るのは、もうしばらくあとのこと。