花びらは砂糖に埋めて - 1/2

 丁寧な見送りを受けるとともに重厚な扉を開き、煌びやかな『ホテル・ドゥボール』から夜の緞帳が下りて久しいフォンテーヌ廷へ足を踏みだす。流れる空気はしっとりとしていながらも僅かな冷たさを孕んでいたから、リオセスリは自らの右腕へ身を寄せる女性の肩を抱き寄せた。彼女の身体は昔から、リオセスリのそれより冷たかった。いま以てなお冷ややかであるとしたら、それは些か心苦しい。
「ありがとう、リオセスリ。とても美味しかったわ」
「そいつはなによりだ。機会があったら、また来るか」
「こんな贅沢を頂ける機会なんて、次はいつになるのかしら」
 けれど抱き寄せたセヴリーヌの身体はあたたかく、彼女が夜風に身を震わせる様子もない。それが正しいかたちであるかのようにリオセスリへ身を寄せていたから、密やかに瞳を眇めるとともに安堵の息を夜のなかへと滲ませた。
「いつだっていいさ、あんたが行きたいって言うならな」
「駄目よ、そんなの。贅沢は特別な日の格別なんだから」
 セヴリーヌの横顔は未だ、生きとし生けるものが眠る夜のなかでは一際に美しい。それは彼女の正しさの証明であると同時、彼女が傷つけられた証拠でもある。セヴリーヌは気にしていないだろう、だからこそリオセスリが気にかけていた。喉元に刻まれているのだろう罪の烙印をなぞる指の痛々しさは、歓迎されて然るべきものではない。
「真面目だな、あんたは。それじゃあ、そうだな……来年の今日にでも」
「……いいのかしら」
「結婚記念日なんだ、俺たちにとってだけは特別な日だろう?」
 夜とは、彼女にとって唯一優しい存在だったのだろう。だが望むべくは対比による安堵ではなく、絶対的な安寧だ。小さな身体を抱き寄せながら帰路を辿り、夜の眠りを妨げないよう囁き声を交わしあう。そうして声を和らげれば、セヴリーヌの顔が夜闇のなかでもそうとわかるほどに華やいだ。
「……ええ、そうね。貴方の言う通りだわ」
 ワインを飲んだからというだけではないだろう頬の赤み、喜びに煌めきながら溶ける瞳。セヴリーヌははにかみながらリオセスリの言葉を丁寧に噛み締めて、彼の腕に絡める指へ僅かながらちからを込める。そのいじらしさに、リオセスリはまた密やかにくちびるを緩ませた。
 結婚したといっても、それに関連して取った行動はシンプルなものだ。共律庭へ婚姻届を提出し受理されるまでを見届けた以外にしたことといえば、ホテルでディナーを食べただけ。挙式をすることはない、式を挙げてまで婚姻を披露する相手はリオセスリもセヴリーヌも持っていない。リオセスリが彼女の隣で常に危険因子を排することが出来ない以上、婚姻関係は秘するべきですらあった。互いにその結論へ至ったから、ふたりの関係を知るものはいまのところ婚姻届の処理をする共律官しかいない。
 だが、それでも自分たちは夫婦となった。海底の泥から掘り起こしたものを、長く抱きあっていたから。愛するものを愛する権利が、欲しかったがために。
「……嬉しい」
「なにがだ?」
「全部が」
 うんと先の特別が、もう生まれてしまったのよ。愛によって眦を緩ませる姿に、ときどき考える。彼女はリオセスリがセヴリーヌのために取った行動であれば視線ひとつでさえ喜ぶから、その心臓を歓喜に耽溺させてしまったらどうなるのだろうと。
「その特別には、もっと慣れてほしいもんだがな」
「そんな日が来るのだとしたら、それはきっと、それも、とっても格別なことだわ」
 だが、詮無い思考はセヴリーヌの柔らかな声によって水泡へ。溢れてなお愛を注いだとて、彼女はそれを潤沢な好意を湯水のようにこぼして失っていくのではなく、そのすべてをいまと変わらず慈しむ。弾けた水泡が示した答えは確信に近い、その確信はリオセスリにとっても随分と喜ばしいものだった。
「楽しみね。うんと先も、ずっと」
「……ああ、そうだな」
 揺るぎないものを疑わない瞳の先にある絶対的な存在が己であるという事実は、優越感や独占欲よりも誇らしさめいた感情を呼び起こす。それは、彼女がリオセスリの正義であるという証明に他ならなかった。

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 回廊を抜けて新居へ戻ると、めかしこんだセヴリーヌを浴室まで送り届ける。彼女はリオセスリのほうを先に入浴させたがったが、今日のセヴリーヌはホテルでの食事にあわせて服装から爪先に至るまでのすべてを整えていたのだ。それならば、彼女の身体をほどかせてやるのが先だろう。リオセスリの配慮も過不足なく伝わったようで、セヴリーヌは申し訳なさそうに眉を下げながらも「ありがとう」と微笑んでひとり浴室へ向かっていった。
 女の身解きは身支度と同じだけ時間がかかるものだ。酔い覚ましの紅茶を用意すると、芳醇な香りとともに臓腑を内からあたためるブラックティーへ舌鼓を打つ。心地好い一服を堪能したしばらくあと、ようやくその身から装飾のすべてをほどいたセヴリーヌがリビングへと顔を覗かせた。
「ごめんなさい、ずいぶん時間をもらっちゃって。ありがとう、リィリ」
「一夜にも満たないんだ、こんなのは待ったうちにも入らないさ」
 真っ白な寝衣へ身を包んだセヴリーヌはリオセスリのよく知る彼女らしく、妙齢の女性でありながらも瞳のふちには微かな稚さが滲む。その少女めいた眼差しが特別なものであると知っているからこそ、ソファの端に腰を下ろした彼女の身体を中心にまで引き寄せた。
「俺も入ってくる。紅茶は、ちょっと冷めちまってるかもしれんが」
「大丈夫よ。貴方が私を待っていてくれた時間のぶんだけ、むしろあたたかいかもしれないわ」
 薄着の身体を冷やさないようソファの肘掛けへ行儀よく座っていたショールをセヴリーヌの肩に乗せ、くすくす笑う彼女の額にくちびるを寄せてからリオセスリも浴室へと向かう。リビングの扉を閉めるついでに背後を少し振り見れば、セヴリーヌはいそいそとポットからティーコジーを外していた。小さな動きが微笑ましく、そっと眦を緩ませる。
 そうしてリオセスリも浴室で一日の汗と汚れを洗い落とし、濡れた髪を軽く拭くと寝衣へ腕を通す。時間帯と用途によっていちいち服を替える習慣はあまり持っていなかったのだが、これに関しては仕方がなかった。そうしなければ、セヴリーヌが寝衣を受け取らなかったのである。
 彼女に人並みの生活を与えようとすると、彼女はリオセスリにも同じものを求めてくるのだ。だからリオセスリはこの家で過ごすとき、午後のティータイムには紅茶だけでなくクッキーやフィナンシェもくちにするし、眠るときには薄手の寝衣を身にまとう。さすがのリオセスリもそれには慣れなかったが、その不慣れさを楽しんでもいた。少なくとも彼女に倣えば、セヴリーヌは嬉しそうに微笑むのだ。
 リビングへ顔を覗かせたがそこの明かりは既に消えており、テーブルの上に置いてあったティーセットも片づけられている。セヴリーヌも夜の一服を味わったのち、寝室へと引きあげたのだろう。夜のリビングは彼女の足首を冷やすから、それは正しい判断だった。
 寝室の扉をノックすれば、はぁい、まろやかな声。彼女が靴を履く二度手間を避けるため早々に扉を開くと、セヴリーヌはまさしくベッドのふちからフラットシューズに素足を重ねようとしていた。
「悪い、待たせたか」
「一晩にも満たない時間は、待つ、なんて言わないわ」
 リオセスリがクイーンサイズのベッドへ腰を下ろすと、セヴリーヌの素足は白いシーツの海へと戻る。意趣返しとも呼べない言葉遊びに笑みをこぼし、寄せられる小さな身体を抱き締めた。なにに警戒することもなく、誰を慮ることもなく、赴くままに彼女を愛することが出来る。それは喜びに相違なかった。
 ベッドへ上がったリオセスリの腿にそっと座り込むセヴリーヌは、その体躯の細さも相俟ってか庇護欲をちょうどよく刺激する。額から頬、頬からくちびる、バードキスを繰り返し贈りあう。その心地好さへ瞳を眇め、やがてリオセスリはセヴリーヌの背を撫でた。ショールを羽織らせていたとはいえ、やはりその背中は少し冷たくなっている。
「さ、もう寝るか。今日は疲れただろ」
 ふたりにとっては喜ばしく格別な一日となったが、一日中気を張ってもいたのだから疲労に蝕まれてもいるはずだ。妻ともなった恋人の頬に触れてシーツの海へ誘おうとすれば、彼女の瞳がきょとんと丸くなった。小鳥のような瞳のつぶらさに、リオセスリも内心で僅かに首を捻る。それは彼が想定する反応ではなかった。
「……リィリ。私は今日、貴方と結婚したのよね」
「ああ、そうだな。間違いなく」
「じゃあ今日は、初夜ではないのかしら」
 セヴリーヌはきょとんとしたまま、特段の恥じらいもなくそう告げる。あまりにも自然に告げられたから、リオセスリのほうが瞠目してしまった。「まぁ、そうだが」そのせいで思わず頷いてしまう、彼女と健全な夜を迎えるのであれば煙に巻くのが最適解であるとわかっていながら。
「私は貴方と初夜を迎えるつもりで、貴方を待っていたのだけど」
「いや、だが冷静に考えてみろ。何年ぶりだと思ってる」
 セヴリーヌは善良でどこか稚さの残る女だ、だが間違いなく成人女性なのだ。過酷で下卑た海底の牢獄で半生を過ごしていた人物は、その見目の印象ほど清廉というわけでもない。それは他でもないリオセスリが、最もよく知っていた。
 だが互いを欲望の捌け口としていたのは、いまから何年も前のことである。昔から変わらず小さな女の痩躯は、そう容易くリオセスリを受け入れられはしないのだ。
「一晩やそこらでどうにかしようとしなくていい。俺はあんたを傷つけたくはない」
「大丈夫よ、心配しなくても。ちゃんと準備してきたもの」
 だがこの愛しい女、リオセスリの思い遣りに対して想定すらしていなかった言葉を返してくるではないか。喉元まで出かかった衝動的な声を辛うじて堪える。褥のうえで女に恥をかかせるなど、あってはならないことだった。
「……準備」
「ええ。昔も一度じゃ入らなかったから」
 それはそうだ、だからかつては腹のうちで唸る本能へ口枷をつけて彼女の身体を暴きたてんとする欲を必死で制御した。セヴリーヌがリオセスリを受け入れられるようになるまでそれなりの時間と手数をかけたし、そうまでして欲の対象を限定した己を昏く笑いもした。だがまさか、当時の経験を基に対策を打ってくるとは終ぞ思いつきもしなかった。
「なにを、どうやって」
「……それはさすがに、秘密」
 あっでも、いけないことはしてないわ。セヴリーヌはここへきて初めて羞恥心を覗かせながらも、不貞は犯していないと胸を張る。リオセスリもそんなことを心配して尋ねてはいなかった。
「だから、その……駄目かしら」
 見あげる瞳は甘く、控えめな声はだからこそ蠱惑的。考えられる懸念事項をすべて潰し込む聡さのうえで手を引かれてしまえば、それを振り払うほうが愛への背信に他ならない。返事の代わり、小さなくちびるへ触れるだけのキスを贈る。膝上の身を一層に抱き締めれば、セヴリーヌは細い両腕をリオセスリへの背中に回した。
「セリン。ひとつ、いいことを教えてやろう」
「ん、なぁに?」
 薄い布越しに伝わる体温は高く、彼女の内側でひっそりとあたためられていた情がその指先にまで溶けている。あたたかい指が、リオセスリの項をなぞった。さり、と髪の付け根をくすぐられる。
「俺は、あんたからのおねだりに一等弱いんだ」
 くちびるの真横へくちづけて、頬に触れたままそう囁く。セヴリーヌは吐息に身を震わせて、小さな身体をひくんと震わせた。それに思わず瞳を眇める。彼女の身体についた手垢は自分のものだ、けれどそれもいまとなっては遠い日々。かつてを手繰り寄せながらいまのセヴリーヌに自分の手形を残す行為には、どうしたって欲と興奮を禁じ得ない。
「ふふ。私と同じね」
 彼女の身体に熱が灯っているなら、尚更。鼻頭を摺り寄せれば甘く溜息、くちづけは互いの意思で。