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小さくもひかりのよく差し込むリビングで、他愛のない本をめくって読書に耽る。穏やかに流れてゆく時間を緩やかに享受する、そのささやかな贅沢にリオセスリが身を預けていれば、やがて小さな足音が近づいてきた。時間潰しのために眺めていた本へ栞を挟んで顔をあげれば、扉の軽やかに開く音。「リィリ」稚い声が、リオセスリの鼓膜を甘く撫でた。
「お洋服、これでいいのかしら」
「ああ、大丈夫だ。よく似合ってる」
「本当? リィリが見立ててくれたお陰ね」
セヴリーヌは初めて袖を通すフォーマルな衣服へ緊張した様子で身を固くさせており、リオセスリの言葉へその表情をほころばせはしたものの、その動きはどこかぎこちない。ブーツも履き慣れていないからだろう、ともすれば少しの段差にも躓いてしまいかねない様子だったから、リオセスリはソファから立ちあがるとすぐにセヴリーヌの手を取った。
「準備が出来たなら、もう行くか」
「ええ。さすがに緊張しちゃうけど」
「共律庭に書類を提出するだけだ、別に取って食われやしないさ」
小さな手を己の腕に導くと、セヴリーヌは小さくはにかんでからリオセスリへ半身を寄せる。素直な仕草に瞳を眇めて彼女の額へくちびるを寄せれば、セヴリーヌはくすくす笑ってから同じものをリオセスリへ返した。
「それでも緊張するわ。書類の審査が通ってくれないと、みんなへのお仕事の斡旋も始まらないもの」
「だがフォンテーヌ廷の共律官は細かい手順の逐一にまで厳格だからな、こればっかりはどうしようもない」
セヴリーヌの手を取って間もなく、リオセスリはフォンテーヌ廷に小さな邸宅を購入した。それは概ね彼女のためのものだったけれど、以来リオセスリがメロピデ要塞の外で休暇を過ごすようになったのも事実。その立場上彼女と日々のすべてをともに過ごすことは難しかったから、せめて残りの時間は愛する相手へ注いでいた。
そうして監獄にいた頃と同じように身を寄せあって、かつては終ぞ交わすことの出来なかった言葉を幾つも互いへ贈りあう。その合間でセヴリーヌが「そうなればいいなって」そう祈るように囁くから、リオセスリは祈るために組んだ手指へペンを握らせた。夢物語の描き方を伝えれば、彼女は嬉しそうに瞳を輝かせてペンと本を手に取った。
彼女の願うことを尋ねてはそれらを現実に落としんでいくたび、奇妙な感慨を覚えたものである。「みんな、普通のお仕事を、普通に出来るようになってほしいの」彼女のその願いは、どこまでも正しい。そして彼女の正しさは今日を契機に、水の上でも結実されて然るべきなのだ。
「これで共律庭の許可をもらったら、次はええと、お仕事を提供してくれる先との契約よね」
「ああ。提携先の目星はついてるんだろう?」
「ええ、まだ少ないけれど」
「事業を最初から手広く始めても、落とし穴が増えるだけだ。少しずつ広げていったらいい」
刑期を終えてメロピデ要塞を出たひとびとへの真っ当な仕事の斡旋と、その業務や労働環境に問題がないかを確認する定期視察。それら業務の開業にあたり必要な知識を身に着けながら取引先探しに奔走し続け、今日ここに至ってようやく開業手続きにまで到達した。緊張も感慨も妥当な感情ではあるのだが、未だ身体を強張らせているセヴリーヌへ苦笑する。彼女は身を竦ませるのではなく、もっと胸を張るべきだ。
「安心しろ、セリン。なにかあったら、俺のところまで来たらいい。いつでも話は聞いてやる」
「それはそれで、大丈夫かしら。知らない女が突然メロピデへ遊びに来たようなものだもの、みんな吃驚しちゃわない?」
「看守連中には俺から話をつけておく。囚人たちに関しては、気にする必要もないだろう。あそこはあんたを知らないやつのほうが少ないし、手を出すとなれば尚更だ」
恐らくセヴリーヌは、自身の努力と功績に対する自覚がないのだろう。善性は彼女のなかであまりにも当然に存在しているために、その善性に基づく行動もセヴリーヌにとっては特別視に至らない。だから彼女はそれを誇りとせず、それよりもただ、早く地底へ手を伸ばそうと必死になっている。
「そうなのかしら。……私が、貴方のパートナーだから?」
「もちろん、それもあるけどな。だが、それ以前の問題さ」
その、未だ細かな傷が残る手のひらを、リオセスリは己の手で丁寧に包み込んだ。
「みんな、あんたに救われたからだ」
First appearance .. 2023/10/28@yumedrop