真珠は海に、星は夜空に - 7/8

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 世界の誰もが眠る頃、ただ黙々と仕事に耽る。それは労働による疲労も生みだしていたが、少しの心地好さも孕んでいた。美しい街が夜に沈むときだけ、セヴリーヌは罪の烙印から解放される。世界に誰もいないから、誰に罪を糾弾されることもない。それは彼女の人生のなかでもごく僅かな、ただの人間としての生を許されている瞬間だった。
 その少しの休息を経て、夜が明ければ喉元には焼き印がまた浮かびあがる。たとえ誰かに怒っても、手をあげてはいけません。もう幾度目になるだろう訓戒を、また心臓に刻みながら立ちあがった。左肩の打ち身もようやく治りつつあったから、仕事用具をまとめる手を動かす際にも支障はない。
 昼間は賑わっているのだろう巡水船の待合所も清掃を終わらせると、無人のホールをあとにする。リフト周辺の清掃担当になったときは、サーンドル河との行き来がしやすくていい。自然と地底への帰路へ目を向けようとしたセヴリーヌは、噴水広場の前に立つ人影へ目を丸くさせた。
「公爵様」
「セヴリーヌ。もう三度目だ、俺の言いたいことはわかるだろう?」
 こうも頻繁にフォンテーヌ廷へ足を運ぶほどの余暇も持ちあわせてはいないだろうに、彼は何度もセヴリーヌの前に現れる。せっかく与えられた身分を肩から落とし、わざわざ最下層の人間の隣にまで降りてきて。それが彼の情だとわからないはずがなかったから、セヴリーヌは瞳の奥へ過ぎる痛みにくちびるを噛んだ。
「貴方の気持ちは嬉しいわ、本当よ。でも、言ったでしょう。私だけが貴方に救われるなんてこと、あっては駄目よ」
 差しだされる言葉に首を振る。彼からの慈悲を拒むなど、それこそいまの水の下では不敬罪で首を刎ねられてしまうのかもしれない。けれどここは水の上、どれほど水の下に近くとも。そしてこの瞬間のリオセスリは自らの権力を手放しているからこそ、セヴリーヌはそう我儘をくちにすることが許されていた。
「それは、あんたが罪人だからか?」
「ええ」
「なら逆に聞くが、あんたは刑期を終えたやつらが救われちゃいけないと思ってるのか? もしテオが雇い主に気に入られてヴァザーリ地区へ移り住めるようになったとして、それはいけないことだと?」
 あんたの言い分は、そういうことだ。詰問するようなリオセスリの口調に、セヴリーヌは小さく微笑みながら「いいえ」首を振る。そしてすぐに言葉を続けた。リオセスリは眉間に皺を寄せたまま、彼女の言葉を待っている。
「それはテオの努力の成果だわ、彼の誠実な仕事に対する正当な評価よ。……でも、リオセスリ。私は、違うでしょう。私はなにもしていない、ただ貴方と昔親しかったというだけ。ただそれだけのことで、貴方から慈悲を授かろうとしている」
 そんなこと、あっては駄目よ。そう、言葉を繰り返す。小さな子どもへ、教え諭すようにして。
「罪人が救われてはいけないなんて、私も思ってない。私たちは罪を濯いだのだから、みんな、地上で同じように暮らしていいはずなの。……それなら、私が貴方の慈悲に救われるなら、私以外のひとも救われなければいけないわ」
「成る程、だからあんただけが救われてはいけないと?」
「ええ。だってそんなの、不公平」
 そしてひとりの人間が万人を救うなど、土台無理な話なのだ。その無謀な幻想をリオセスリへ押しつけることもまた、あってはならない。だから、とだけ呟いて、セヴリーヌはくちを噤んだ。あとは言葉を繰り返すほかないのだ、無駄なさざめきで眠る夜の安寧を乱してはいけない。
「……あんたは本当に、なにも変わらないんだな」
 やがて、そんな声が密やかに響く。懐古と追想に滲む情へ、そっと息を詰まらせる。彼の声は、あまりに優しいものだった。
「だが、ひとつ訂正しておこう。俺があんたを呼んでるのは、なにも博愛精神に基づいた慈悲のためってわけじゃない。同情でも、ましてや気遣いなんてもんでもない」
 がらんどうの夜に熱を求めて身を寄せあったとき、飢餓と寒さに震える身体で抱き締めあった頃、互いへ注ぎあったものと同じ声がセヴリーヌに傾けられる。触れればわかる、触れなくともわかる。不可分の熱が、そこにあった。
「俺はただ、愛する女を苦しみから救いたいだけだ」
 輪郭のなかった熱に名前が与えられる。それに、くちびるを噛み締める。そうしていなければ、いまにも崩れ落ちて泣きだしてしまいそうだった。
「……どうして。もう、あれから何年も経ったわ。私より素敵なひと、たくさん出会っているでしょう」
「いいや。何年経ってもあんたほどの女には、一度も出会ったことがない」
「私、なんにも持っていないのに? 身分も、富も、頭脳も、才能も、美貌も、愛嬌も、なにもかも」
 リオセスリの言葉に、また首を振る。彼のことを愛している、だからこそ彼の言葉に頷くことが出来なかった。愛するひとの幸いを願うのは、誰もが同じ。彼と不釣りあいな存在である自覚があるからこそ、わかるのだ。自分では彼に幸福を与えることが出来ないと。
 逃げるように身を下げる。けれどそれ以上に距離を詰められる。逃げだすよりも先に手を取られ、縋るように握り締めていた掃除用具が噴水広場に散乱した。静寂が割れる、けれど夜は夜のまま。リオセスリの指が、セヴリーヌの薄汚れた手を握り締めた。
「勿体無いな。当たり前すぎて、自分じゃまるで気づかない」
 オイルと埃にまみれ、爪の間には砂利が挟まって取れ落ちることもない。あかぎれで指は腫れあがり、皮膚は白く硬化している。みすぼらしい手指なのに、リオセスリはそれを見下ろすと眩しそうに瞳を眇めた。
「俺は、あんたほど正しい人間を知らない」
 そして彼は、汚れた手のひらに顔を寄せる。恭しいまでの動きで以てくちづけを落とすと、その手指を引き寄せて己の頬を撫でさせた。冷たく乾いた指に、薄らと浮かぶ傷跡が触れる。くぼんで硬くなった皮膚の感触に、喉が震えた。
「なぁ、セヴリーヌ。俺にはあんたの正しさが必要だ」
「でも、だって、ずるい。私だけ、そんなの」
「自分だけが救われちゃいけないって言うんなら、あんたが他のやつらを救えばいい。あのとき、俺や他のやつらにパンとミルクを分け与えてくれたように」
 彼に触れたくなかった。自分の汚れた手ではリオセスリの美しく白い肌を汚してしまうし、なにより、触れてしまえば離れ難くなる。感傷が生ぬるい熱を宿し、皮膚の下で水っぽくぐずついた未練へ成り果ててしまう。
 だから立場を理由に距離を保ち続けていた。現にいま、セヴリーヌは、触れた熱を突き放すことが出来ずにいる。
「セヴリーヌ。あんたが俺を愛してくれているというのなら、あんたの愛する男に、愛する女を救う権利をくれないか」
 まるで懇願するような愛の言葉へ、喘ぐように息を吐く。セヴリーヌの意地めいた意思さえもが尊重して掬いあげられる、縋りつくべきは自分のほうであるというのに。詰まりそうな息を吐く、震えるくちびるを持ちあげる。声をこぼそうとすると、それよりも先に、涙が落ちた。
「リオセスリ」
「ああ」
「許して」
「なにを?」
「貴方を、愛することを」
 泣きじゃくりながら愛を懇願する。縋るように美しいかんばせを見あげれば、視界はすぐに塞がれた。骨が軋むほどに痛む、塞がれた視界はあたたかい。思わず顔を寄せると、額に頬を寄せられた。
「生憎それは、出会ったときから許してる」