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ナルボンヌ地区の清掃を終え、箒へ身を預けるようにして深く息を吐く。この区域は清掃範囲も狭く、またリフトの点検のように複雑な手順を踏む必要もない。セヴリーヌがそこに配されたのは雇い主からの配慮であった、そうして慮られたのであればそれに応える必要があった。痛む身体を起こし、幾何学模様がくすんでいないかを確認する。街灯の埃も落とされており、明かりが薄ぼんやりと霞んだ様子もない。最後の点検を終えると身体は疲労感に蝕まれ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
だが、せっかく磨いた床で眠るわけにはいかない。痺れる指先を動かしながら仕事道具をまとめ、表通りへ出ようとしたところで反射的にその身を影へ引き戻す。月光に照らされた美しい景観に溶け込んでなお目を惹く存在、ひかりの差さないところでだけ出会うひと。セヴリーヌは閉じた店の影で息を潜める。リオセスリとは長らく出会っていなかったから、もう彼とは出会わないのだと思っていた。
細い呼吸を繰り返し、足音が消えるのを待つ。しばらくして、ときどき吹く微風の音しかしなくなったから、セヴリーヌはそろりと影の外を覗き込んだ。
「かくれんぼは、もう終わりか?」
「っ!」
けれど彼女が表通りへ爪先を乗せた瞬間、セヴリーヌの姿を揶揄する声が降り注ぐ。心臓が破裂してしまうのではないかというくらいに驚いて足を震わせると、くつりと喉を鳴らすように笑われた。
「な、んで」
「あんたの隠れ方が、俺にわからないと思ったのか?」
どうやらリオセスリは店の前で彼女を待ち伏せしていたらしい、セヴリーヌの驚いた表情を見ると満足そうに瞳を眇める。けれどそこは間もなく鋭さを帯びて、彼女の左肩へと向けられた。
「で、そいつはどうした?」
「そいつ、って」
「隠そうとしたところで、身体に余計な負担をかけるだけだぜ」
あまりセヴリーヌに向けられることはなかった、鋭く冷たい瞳。左肩を刃物で縫い留められているかのような錯覚のなか、セヴリーヌは目を伏せる。けれど、その彼女を追い立てるように声が落とされた。「怪我してるんだろう」まるで怪我の瞬間を目撃していたとでもいわんばかりの、確信を含んだ物言い。リオセスリが告げた通り、隠し立てたところでその行為は徒労に終わるのだろう。
「ちょっとぶつけただけ」
「左手にちからが入っていないようだが? 俺が殴ったところで、そうはならないだろうよ」
「そう? 貴方に殴られたら、左腕が肩から捥げちゃうんじゃないかしら」
「おいおい、幾ら俺でもそこまでのちからは出ないぞ」
ささやかなごまかしも通用せず、リオセスリは咎めでもするかのようにセヴリーヌを睨みつける。それは過去に何度か向けられた、彼の言葉に頷くまで続いた無言の駄々に少し似ていた。
浮かぶ感傷をちからの入らない手で握り潰して、セヴリーヌは微笑する。「大した怪我じゃないわ」そう告げても、リオセスリはその顔に納得を浮かべなかった。
「……サーンドル河へ帰る途中で、梯子から足を踏み外してしまって。でも落ちたのはちょっとだけよ、お医者様にも診てもらったわ」
「……そうか」
セヴリーヌが観念して端的に起きた出来事を伝えれば、リオセスリは冴え冴えとした瞳を僅かに曇らせてしまう。それを見ていたくはなかったから、ちゃんと治るから大丈夫よ、と重ねて告げた。
昨日の夕方のことだった。仕事へ向かおうとするセヴリーヌの横を、子どもが駆け下りようとした。それだけならば微笑ましかった、けれど子どもの他愛ない悪ふざけはときとして悪意よりも暴力的なもの。小ぎれいな子どもが、冗談めかしてサーンドル河へ戻ろうとする子どもの肩を押した。その勢いで梯子を掴み損ねた子どもは、地下への大穴に滑り落ちてしまったのだ。
セヴリーヌは気づけば飛び降り、子どもを全身で覆うようにして落下した。幸い梯子は分散してかけられていたから、地底へ叩きつけられることもなく、鉄板の階層に落ちるだけで済んだ。けれど子どもの頭を抱え込んでいた左肩はその重みをすべて受け止めたから、痺れが残ってしまっていたのだ。
告げればきっと、リオセスリはその顔を曇らせるだろう。彼とは無関係の存在である自分が、彼のしこりとなってしまうのは、よくないことだ。だからセヴリーヌは、リオセスリを安心させるために微笑を浮かべる。本当は左腕を動かすことが出来ればよかったのだが、動かない腕を無理やり動かして仕事をしていたから、今日は指先も碌に動かなかった。
「……なぁ、セヴリーヌ。やっぱり、俺のところに来ないか」
「もう、そんなに心配しないで。貴方が気に病むことなんて、なんにもないんだから」
そうしてまた告げられる、くちびるを濡らす砂糖水のような慈悲を差しだされる。それに苦笑して首を振ると、リオセスリの眉間へ皺が寄った。いつかの夜と同じ苦い顔、本当は額を撫でて皺をほどいてしまいたい。けれどセヴリーヌの手は相変わらず汚れとオイルにまみれていたから、白い肌に触れることは叶わなかった。
「俺は気に病んでるから誘ってるんじゃない、ましてや単なる気遣いで言ってるわけでもない。前にも言っただろう、あんたはもっと真っ当な生活を送るべきだ」
「いいえ。いけないの、リオセスリ」
浮き彫りになる立場の差、不可視の膜は自分と彼の間にも。セヴリーヌは一歩下がって、左肩を影に溶かした。
「だって私は、人殺しなのよ」
微笑みながら、そう告げる。半生以上をともに過ごした罪の烙印を指し示せば、リオセスリの顔が今度こそ不愉快に歪んだ。
「それを、俺に言うのか」
「だって貴方は違うもの」
「なにが違う? 俺もあんたも、犯した罪は変わらない」
「ええ、そうね。そして私たちは、あの監獄で罪を濯いだ。そうして貴方はメロピデ要塞の管理者に、公爵になった」
リオセスリが感情を露わにすることは、そう多くない。彼は劣悪な監獄のなかでさえ、怜悧で計算高い人物だった。聡く、他人へ見せる感情を細やかに制御しているようでもあったように思う。けれどいま彼がその制御を手放しているのは、今宵も世界がよく眠っているからなのだろうか。リオセスリの苛立ちに反して、セヴリーヌは凪いだ気分で言葉を紡ぐことが出来た。
「私はね、違ったの。罪を濯いで水の上に出たところで、ひとの目に映る私は犯罪者。我儘な感情で、卑劣な手段で親友を殺した、悪逆の女。世界が私をそう呼ぶ限り、私はずっと、人殺しなのよ」
セヴリーヌがメロピデ要塞へ収監されるきっかけとなった事件が起きてから、もう十年以上が経っている。小汚く薄汚れた清掃員の人相など誰も覗きにくることはない、けれど新聞社の特集では悪辣な事件としていまもそれを取りあげる。親は子どもを育てるとき、我が子が誤って友を殺すような恐ろしい存在にならないようにとこころの奥を震えあがらせる。
そこには常に、セヴリーヌという罪人が存在しているから。彼女はいまも、水の上で罪の烙印を撫でている。
「そんな女だけがいい生活を与えられたら、今度こそ、この喉笛を噛み千切られてしまうわ」
消えることのない焼き跡は、一生をかけて償わなければいけないものだ。だから大丈夫、と言えば、リオセスリの顔が暗く歪んだ。