真珠は海に、星は夜空に - 3/8

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 月光が差し込まない建物の影は、夜のさなかにあってなお一層暗く澱んでいる。リフト付近はその暗がりへ紛れ込ませるように、汚れが散らされていることも少なくない。汚物の溶けた水垢を拭い取り、余分にこびりついたオイルを削ぎ落とす。リフトの接続部に入り込んで固まる埃を削り、軋む可動部へ様子を見ながら必要なだけオイルを差した。
 リフトを稼働させながらすべての階層の点検と清掃を終え、セヴリーヌは深々と息を吐く。表通りの清掃よりも手順が複雑になるため、リフト付近の担当は清掃員たちのなかでも人気が低い。けれどセヴリーヌは、ここが存外嫌いではなかった。汚物の処理は好まないが、機械の稼働音はそれを補って余りある。ひかりの差さない場所に坐する、冷たい鉄とオイルの匂い。それは彼女にささやかな望郷を与えていた。寄せた思いの先は、決して郷里ではないというのに。
 ややの感傷が意識を撫でるのは、少し前にリオセスリと出会ったからだ。セヴリーヌにとっての幸い、少しの間だけれど身を寄せあったひと。思いだせば愛おしく、ほんの少しのさみしさが、ときどきさざ波のように訪れる。
 けれどそれは所詮感傷に過ぎず、それ以上のものはない。セヴリーヌは眠るリフトの扉を眺めてから、仕事道具を手早くまとめた。夜の緞帳は降りて久しく、世界は眠りについている。自分も、もう眠る時間だ。
 サーンドル河へ戻ろうと無人のセントラルポートホールを出たところで、月光がひとの影を彫る。反射的に通路へ身を下げたセヴリーヌは、彫刻の正体を一瞥するとすぐに深く頭を垂れた。
「ご機嫌よう、公爵様」
「ご機嫌よう、セヴリーヌ。いい夜だな、それに静かなもんだ。誰もが平和と安眠を堪能していると、よくわかる」
 瞳同士が触れたからにはくちを開かぬわけにもいかず、静かにくちを開けばまるで歌うような声。彼は変わらずセヴリーヌが頭を下げるのを疎んでいるらしく、いつかの夜と変わらない屁理屈へ彼女はそっと笑みをこぼした。
「貴方は公爵様なのでしょう? 礼を払われることに慣れないと」
「普段から受け入れてるさ、下ではな。だが、あんたのそれは不要なものだ」
 リオセスリはセヴリーヌの言葉に軽く肩を竦めてみせると、彼女の姿を一瞥する。先日の夜と変わらない、みすぼらしく汚れた姿だ。彼の瞳に映る自分が美しいことはなかったから、今更気にすることでもないのだろう。けれどここが白く美しい水の上で、彼はそこへ佇むに相応しい風格を持っていたから、セヴリーヌは薄汚れた自分自身が恥ずかしくなった。
「あんたは、相変わらずのようだな」
「毎日って、そう変わらないものよ。なにか事件でも起きない限り」
 月光の生みだす影にせめて汚れた片腕を隠しながら、リオセスリの言葉へ静かに頷く。セヴリーヌが身を預けていた日々は、その事件が起きたから変わったけれど。地底での慎ましい毎日は、彼女を震撼させるような大波を呼び起こすこともない。
「ああ、でも、テオの傷がようやく治ったの。お医者様ももう大丈夫って言ってくださって、昨日からお仕事も再開してね。テオが張りきっているからかしら、次の雇い主の方は仕事ぶりを褒めてくれたんですって」
「そうかい、そいつはよかった。誠実な仕事には正当な評価が必要だからな」
 リオセスリはセヴリーヌの状況を痛ましく感じているようだから、彼の気がかりを払拭しようと瞳を眇める。悪いことはひとつもない、悲しいことはもう終わり、だから気に病む必要なんてなにもないのだ。そう彼に向かって微笑みかけると、リオセスリもその眦を僅かに緩ませた。
「……なぁ、セヴリーヌ」
「なあに、リオセスリ」
 名を呼ぶ声に気遣いの色が滲んでいなかったから、セヴリーヌも同じ調子で彼の名を呼ぶ。万一にでもスチームバード新聞社の人間が目撃していれば、どのような虚構が脚色されて、どのように空想が出来上がるだろう。だがセヴリーヌには人影の有無がわからなかったから、世界が眠っているというリオセスリの言葉を信じるほかなかった。
「俺と、来ないか」
 そのように詮無いことに意識を取られていたせいだろうか、告げられた言葉が咀嚼出来ずに首を捻る。彼の下へ行く、その言葉の意味がよくわからなかった。
「あんたはもっと真っ当な生活を送るべきだ。あんたがそう望むなら、俺はあんたを救ってやれる」
 言葉が重ねられて、ようやくリオセスリの意図を受け取る。差しだされる慈悲と救済は甘美な響きに満ちていて、弱いこころはそれに縋りたがる。冴え冴えとした、美しく澄んだ瞳。まっすぐに向けられたそこから注がれる真摯な思いに、セヴリーヌは微笑んだ。
「……ありがとう、気を遣ってくれて。でも大丈夫よ、いまでじゅうぶん」
 リオセスリは真摯だった、だからセヴリーヌは弱い思いを飲み込んだ。救済という甘い水は、罪人の誰もが望むもの。けれど、だからこそ受け取ることが出来なかった。その慈悲は、自分だけが受け取るべきものではない。
「水の上へ戻ってから、二度も貴方とお話させてもらえた。こうして貴方に心配してもらえた。私はそれで、じゅうぶんすぎるくらい」
 そもそも彼は海底の国の王、地底の民まで慮る必要はないのだ。セヴリーヌは苦く眉を顰めたリオセスリの幼い表情に笑ってから、夜の影に身体を託した。
「だから、気持ちだけもらっておくわ。ありがとう、リオセスリ」