真珠は海に、星は夜空に - 2/8

▽▲

 意識が覚める。眼前には見慣れた薄暗い景色。拭い取ることの出来ない汚れがしみ込んだ机、いまにも脚の折れてしまいそうな椅子。その光景を認識するだけで悪臭の記憶が蘇る。肉は中途半端に煮え、そのくせ一部が生焼けになっているから、そこから漂うのはもはや腐敗臭に近い。健全な精神を摩耗させる劣悪な環境、その渦中にいながらそれらを他人事のように受け止める。否、いまのリオセスリにとってはすべてが他人事であった。彼は眼前に広がる光景のなんたるかを知っている。これはリオセスリにとって何度となく読み返した本であり、擦りきれるほど繰り返し眺めた映像フィルムでもあった。
「リィリ、おはよう」
「おはよう、セリン。ところで、その呼び方はどうにかならないのか」
「どうして? とっても可愛いでしょう」
 通貨を支払ったところで、得られるものは家畜の餌ほども乱雑な食事だけ。辟易としながらも不平を浮かべず食事の蓋を開いたところで、リオセスリの正面の空席が埋まる。監獄に沈むほどには落ち着いた、けれど粗末な朝食の席を僅かにでも満たす程度には軽やかな、女の声。セヴリーヌはリオセスリの苦言に不思議そうな表情を浮かべると、自らも食事の蓋を開いた。
「どうするんだ、こんなむさくるしい男を子どもみたいに可愛く呼んで」
「どうもしないわ。でも、いいことじゃない」
「俺が可愛くなることがか?」
 世間話は味気ない食卓を華やかにさせる調味料だ。だからだろう、そこにどれほどの効率性や生産性が存在していなくとも、リオセスリは彼女と行う他愛ない言葉の応酬を好んでいた。本日の議題はセヴリーヌが彼につけた、まるで少女を呼ぶような愛称について。幸いにして格闘場でそう呼ばない程度の分別はつけられていたが、セヴリーヌはことあるごとにリオセスリを可憐な響きで呼びたがった。
「だって、可愛いって「いい」ことよ。可愛くないより、ずっといいでしょう」
 くすくすと笑う少女に、リオセスリは諦めて息を吐く。なにも彼女も本気で言っているわけではない、乾いた日々に対するちょっとしたスパイスだ。それを無理やり止めることは、リオセスリから彼女との言葉の応酬を奪うことと同義。「あまり人前で派手には呼んでくれるなよ」肩を竦めながらそう言えば、セヴリーヌの眦が喜びに溶けた。
「じゃあ、ほら、可愛いひとにはいいことがないと。はい、どうぞ」
 そのご機嫌な表情のまま、セヴリーヌは自らの食事から肉の塊をリオセスリの皿へ分け与える。悪臭も薄く、肉の断面に赤らんだ箇所もない、この監獄においては比較的真っ当な食事だ。リオセスリは再び溜息を吐いた。
「……あのな。これはあんたの飯だろう」
「でも、リィリのほうが私よりずっと大きいもの。ごはんだって、たくさんいるでしょう」
 セヴリーヌの言い分は真っ当だ、少なくとも水の上では。しかしここは水の下、法治国家から切り離された無法の地。そのような常識的な良識は、あまり衆目の面前へ晒しておくべきではなかった。生き物は、善良さを容易く食い潰すのだから。
「施すばかりじゃ、いつか食い散らかされるぞ。せめて対価を要求しな」
 幸いにして、セヴリーヌの善良さはいまのところ誰の食いものにもなっていない。そしてこの監獄において、彼女が囚人の暴力性の餌食になることはないだろうという確信もある。けれどこの世界には、絶対的なものなど存在しない。たとえば今宵リオセスリが格闘場で強者に打ち負かされて、彼女を守ってやることが出来なくなる可能性もゼロではないのだ。
 せめてもの自衛を求めれば、セヴリーヌは少し悩んだ素振りをみせたあとにリオセスリの食事を指差す。「じゃあ、そのニンジンをちょうだい」生煮えで中途半端に硬いくせして青臭さと甘苦い味を両立させた野菜は、特別許可食堂で提供される食事のなかでも最たる悪評を誇っているものだ。それは対価の要求ではないだろうと呆れながらも、その体裁を保たれてしまってはリオセスリに反論する余地もない。せめてもの意趣返しに、手ずから彼女へ食事を分け与えた。
 片手で頬に触れ、薄いくちびるに指で柔らかく触れ、フォーク越しに開かれた口内へ触れる。児戯、もしくは。リオセスリの戯れにセヴリーヌは目を丸くさせたが、堪えきることが出来なかったのだろう微笑とともにそれを受け入れた。
「まったく、あんたの取引相場はどうなってるんだろうな」
「きっと可愛い子専用の特別市場があるのよ」
「成る程、そりゃあ可愛く呼んでもらう価値がある」
 誰も喜ばないだろうニンジンを食べ終えたセヴリーヌはミルクでくちのなかを潤したのち、肩を竦めたリオセスリにくすくす笑う。もう何度となく、忘れようもないほどに、繰り返し見た光景だ。

/

 意識に次いで肉体が覚醒し、柔らかなマットレスでリオセスリは身を起こす。薄暗くとも悪臭のない、空気は常に水っぽいが清潔感のある、要塞内の見慣れた私室。ランプで室内に明かりをつけて、ベッドのうえで僅かに深呼吸をした。
 過去の追想は、いまに始まったことではない。それは要塞で過ごす日々のように何度も繰り返されている、だからあの夜もセヴリーヌに気づくことが出来たのだ。そうでなければ、何年も顔をあわせていなかった人物へ確信を持って呼びかけることは難しい。
 愛した女だった。それを言葉にしたことは、一度としてなかったとしても。
 当時の劣悪な収監環境においては、互いにいつ命を落としてもおかしくなかった。そうでなくとも、やがて刑期を終える日は訪れる。そのような明日をも知れぬ状況で生半可に愛を囁き、舐めあった生傷に爪を立てるリスクを背負うことは出来なかった。
 事実、自分と彼女はこうして道を違えている。セヴリーヌは刑期を終えると、水の上へ戻ることを選択した。当時のメロピデ要塞には秩序もなく、また公正なものも存在せず、囚人同士の闘争と抗争のみならず看守からの暴力と怠慢も目に余った。そのような環境を選び続けられるほど、彼女は強い命ではなかった。
 リオセスリも、そのほうがいいと思ったのだ。少なくとも水の上は、人身を蹂躙する暴力が他人に向けられることを許さない。セヴリーヌの生命は、ここにいるより守られると踏んだ。だからリオセスリは自身の選択を告げにきたセヴリーヌを、ただ抱き締めることしかしなかった。
(……だが、実際はどうだ。ここは秩序を手に入れて、あいつはいまや、いつ食い潰されるかもわからない)
 リオセスリがメロピデ要塞の管理者を引き継いだのは、セヴリーヌが刑期を終えた一年と少しあとのことだ。それから重ねた日々でメロピデは無法の流刑地から規律に則る国となり、その一方でセヴリーヌは貧困を強いられ続けている。
(何年経っても、あいつは変わらなかった。……だが、変わってしまってもいた)
 貧しさのなかでも、彼女の善良さは変わらなかった。だが貧困は明確に生命を削ぎ落とす。それだけではない、暴力もあっただろう。その肉体が傷つくことはなくとも、彼女の精神には何者かに踏みにじられた跡があった。
 元より控えめな女だった。理不尽へ表立って叛逆するほどの強さはなく、それらを躱す器用さも持ちあわせておらず、不当な暴力に翻弄されることしか出来ない、弱い女だ。それでも彼女は無邪気だった、月日の累積により消失するものとは別種の無垢さを持っていた。――リオセスリを、わざわざリィリと呼ぶような、稚い女だった。
 その稚さは砂土にまみれ、いまやざらついた皮膚の下に押し込められてしまっている。それが、リオセスリの気に障った。
 水の上で、セヴリーヌが少しでも幸福であればよかった。だが現実は等しく弱者へ厳しく、彼女は嬲られることすら甘んじて受け止めながら、その状況に対して「じゅうぶん」などと言う。「じゅうぶん」なことなど、なにひとつないだろうに。
(なら、どうしてやろうか)
 業務よりも、食事よりも、紅茶よりも先に、ゆっくりと思考を巡らせる。彼女は、正しく言葉通りの「充分」を注がれるべき存在だ。