真珠は海に、星は夜空に - 1/8

 細やかに敷き詰められた石畳をようやくすべて磨き終え、折り曲げていた身体をようよう引きあげる。全身に痛みと倦怠感、大きく息を吐きだして夜空を仰ぐ。見あげたとて網膜が軋むことのない、微かなひかりが散りばめられているだけの濃紺。海底によく似た色彩に僅かばかり瞳を眇めたのち、セヴリーヌは磨かれたばかりの石畳に視線を落とした。
 幾何学模様を描く床は、陽光を弾けばさぞ美しく煌めくのだろう。けれどセヴリーヌがその光景を見たことは、いまとなっては数えるほどしかない。石畳を磨きあげるのはいつも夜、このフォンテーヌ廷のすべてが寝静まったあと。そして自分のように薄汚れた清掃員は街の美しい景観を阻害するために、日の高いうちに職務をこなすことが許されていなかった。
 知らぬことは、少し惜しい。けれどそれに固執するほどの強い思いもなく、なんてこともない諦念とともに仕事を終える。明日も清掃範囲の広いヴァザーリ回廊全域を担当する予定となっていたから、少しでも身体を休めておきたかった。
 夜間警備のクロックワーク・マシナリーが巡回しているだけの回廊、その端を遅々とした足取りで下っていたセヴリーヌは、視界の隅で動いた影に気づくと半ば反射的にその身を柱の傍へと寄せる。機械の規則的な巡回とは異なる動き、それはすなわち人間だ。自分のような立場の者はひとの目に映る美しい街の景観を汚してしまうそうだから、出来る限り誰の視界にも入らないよう努めていた。
「そこにいるのは……セヴリーヌ、か?」
 けれど、回廊の中心を堂々と歩く人物は自分に視線を留めている。それどころか名前さえ呼ばれてしまえば、その人物の意識から外れることも難しい。セヴリーヌは柱の影に身を溶かしたまま、意図的にほどいていた視線をその人物へ結び直した。
「……ご機嫌よう、公爵様」
 夜闇のなかでさえ冴え冴えとひかる、透き通って凍てつく瞳。月光を内包する瞳を一度だけ見あげると、セヴリーヌはすぐに腰を折って深々と頭を下げる。彼は、そうされるに値する存在であった。
 メロピデ要塞の管理者と、ひとは呼ぶ。けれどその実態は、メロピデという国の王と称するほうが相応しい。少なくとも、いまの水の下で生きる者にとっては。
「おいおい、やめてくれよ。ほかでもないあんたにそういう態度を取られちゃ、落ち着かなくて堪らない」
「そういうわけにはいきません。閣下と私では、身分が違いますから」
 メロピデの王――リオセスリがセヴリーヌの下げた頭に苦い声をこぼし、セヴリーヌは腰を折ったまま小さく笑う。彼のことだ、生煮えでいながら冷えた野菜を前にしたような顔を浮かべているのだろう。けれどその顔を、セヴリーヌが見ることはなかった。
「公爵って立場は、水の上から与えられたもんだ。だがお天道様も水の上の住人も寝静まってるんなら、すなわちここは、水の下となんにも変わりゃあしないんじゃないのか」
 だがリオセスリはセヴリーヌの顔をあげさせようとしており、尽くされた言葉にやがて彼女は折った身体をゆっくり起こす。再び視線が重なって、リオセスリは満足そうにくちもとを緩ませた。
「屁理屈が上手いんだから」
「そこは弁が立つ、と言ってほしいところだな」
 つられるように笑みがこぼれ、冷たく冴えわたる夜の空気が僅かに弛緩する。懐かしさが頬に触れ、気が緩んでしまいそうになる。けれど星々のひかりに照らされたリオセスリの姿を見あげれば突きつけられる現実があったから、懐古のさざ波へこころを預けずに済んだ。
「……久しぶりだな」
「ええ、本当に」
「どうだ、あんたは。……っつっても、その様子だとあまりいい環境じゃなさそうだが」
「そんなことない。恵まれているわ」
 彼のそれと重なる記憶は、海底の監獄で過ごしていたときのものだけ。彼が監獄を王国とし、管理者の椅子が玉座になる前。閉鎖的で荒んだ獄中で、僅かに身を寄せあっていたというだけの。刑期を終えて水の上へ出てからは、こうして出会うこともなかった。今宵、ここに至るまで。
「私は定職をもらえているし、そこに命の危険もない。水の下から出てきたひとには、真っ当な仕事をもらえるほうが珍しいもの」
 生きる世界が違っていれば、それもごく自然なこと。フォンテーヌ廷に住む貴族がサーンドル河へ立ち入ることがないように、下水通りに住む人間がパレ・メルモニアへ足を運ぶことがないように。フォンテーヌ廷はひとつの街であるようでいて、不可視の膜によって階層状になっている。だから彼の現状に関しては、上層から吹きつける風の噂でしか知らなかった。
「日雇いの仕事ですら探すのに必死で、雇い主の嫌がらせだって少なくない。テオなんて雇い主の八つ当たりで海に突き落とされて、錆びた碇で腕を裂いてしまったもの」
「そいつは、酷い話だな。雇用者には、労働者を守る義務があると思っていたがね」
「日雇い労働者の扱いなんて、動力部の壊れたクロックワーク・マシナリーに対するものより乱暴よ」
 噂でだけは聞いていた、セヴリーヌにとってはそれでじゅうぶんだった。リオセスリとは元より生きる世界が違っていて、水の下で偶然交わってしまったというだけのことなのだ。空気の澄んだ夜、彼を見あげていればその事実がよくわかる。彼は地の底を知る人間だ、けれど下層で生きているべき存在ではなかった。
「テオは無事なのか?」
「ええ。みんなで少しずつお金を出しあってね、お医者様に診てもらえたの。処置もきちんとしてもらえて、毎週診察にも来てくださって。経過がよければ、来月には傷も完全に塞がるだろうって」
「そいつはなによりだ。……ちなみに、あんたもそこに乗ったのか?」
「もちろん。どうして?」
 それでも同郷の話題だからだろうか、冷たく眇められた瞳に労わるような情が滲むから、セヴリーヌはリオセスリを安心させるように微笑んで頷く。先月のサーンドル河の一角は血と錆の悪臭に埋もれていたけれど、それもいまは清潔な布と水に拭い取られている。傷の完治が見えてきたからだろう件の人物も最近は意欲的に次の仕事を探し始めていたから、ようやく地下の一部に活気が戻ろうとしてもいた。だから、リオセスリが気にかけるべきことはなにもない。
「いいや、なんでも。日々の生活すら楽じゃないのにか、と思っただけだ」
「誰もが楽じゃないからこそ、よ。誰かに助けてほしいときって、そういうときでしょう」
 美しいものを知ることはなく、美しい景観を阻害する者として静かに排される。真っ当な扱いを受けることさえ難しく、壊れかけの機械部品ほども丁寧に触れられることはない。けれど、それでもまだなんとか、生きていくことは出来ている。だから海底の王は、地底のことまで気にかける必要はないのだ。
「だから、でも。うん、大丈夫よ。私は、いまでじゅうぶん」
 どうだ、と。問われた言葉へ改めてそう返事をすると、リオセスリが微笑とも自嘲ともつかぬ感情で僅かにその表情を変化させる。微かな柔らかさを孕んだくちびる、憧憬を追うような瞳。それらとともに、彼の手がセヴリーヌへと伸ばされた。
「……駄目よ、リオセスリ」
 一歩と言わず二歩、三歩と身を引いて、柱の影の奥深くへ入り込む。そうすれば彼の顔には不平不満が隠されることなく浮かびあがったから、胸のうちへ正直な態度には微笑ましさすら感じて笑みがこぼれかけた。
 けれど、彼に触れることはない。手のひらでおもむろに頬を拭えば、汗と埃と油が滲む。爪はひび割れ、指はあかぎれで皮膚を硬化させながら腫れあがっている。指の付け根は潰れた肉刺で汚れていて、割れた皮膚の隙間に入り込んで取れない砂利が一層手のひらをくすませていた。
「ほら。せっかく綺麗なお洋服なのに、私に触ったら汚れてしまうわ」
 油と汚れが染みついて取れない作業着に、汚れて固くこびりついた髪。あまりにも見すぼらしい姿だった、美しい景観を損ねてしまうと言われた際にも反発より納得を覚えるほどに。
「……セヴリーヌ」
「さあ、もう帰りましょう。私も、下に帰る時間」
 整えられた髪、白く透き通った肌、精悍な体躯に清潔な衣服。その彼の美しさを自分の泥砂で汚してしまいたくなかったから、セヴリーヌはリオセスリとの間で生まれた距離もそのままに彼へ手を振った。
「さようなら、リオセスリ。貴方の健康と、安全と、無事と、幸福を、ずっと願っているわ」
 不可視の膜で上下が分断された国では、そう出会うこともないだろうから。愛する者への祈りだけを捧げて、夜に溶ける。苦く砂利を噛み潰すような顔のリオセスリが溜息とともに回廊を抜けるまで、ずっと。