00:なるようにするだけ - 3/3

 仮想現実での覚醒は、現実で起床するときよりも更にスムーズなものだった。意識が一度断絶したあと瞬きをしたら景色が変わっていた、という体感には、呆気なさすら感じられる。目線を落として両手足を確認し、手のひらの開閉とともに皮膚の触感を確かめる。握り締めた手のひらと指の接触も良好、成る程仮想現実は確かに正しく現実だ。科学技術の進展に拍手。こころのなかでスタンディングオベーションをしてから、部屋の扉をがらりと開けた。
「おっ、来たねゃ」
「……うん」
 仮想現実上の仕事部屋拳私室の外には純和風の広々としたお屋敷と庭が広がっていて、音に気付いた吉行がまたも明るく笑ってみせる。青々とした庭の木々を背負ってなお目を惹く色合いに、なんとも言えず息を吐いた。改めて思う、本当に鮮やかな存在だ。
「よしよし、それでは本丸のなかを案内しよう」
「いや、なんで三日月さんもいるんですか?」
 そうして吉行に目を取られていたこともあって、横から聞こえた声へ二重の意味で飛び跳ねる。私に業務説明をした彼は現実にひとりしか存在しない三日月宗近の付喪神であり、その付喪神がわざわざしがない新人審神者の仮想現実にまで付き添うものだろうか。というか、目の前にいるこの存在はどういうものなのか。募る疑念を目で訴えれば、はっは、と彼は鷹揚な笑みをこぼした。
「俺も陸奥守と同じく、今日からこの本丸でお前とともに時間遡行軍と戦うことになっていてな。ああ、安心しろ。この身は自力で作った分霊体だ、お前の資源は使わんさ」
「初耳なんですけど……」
 私はてっきり、現実で説明を終えたらそこでお別れだと思っていたのに。しかもこのサーバーのリソースを使わず仮想現実内に存在しているということは、私の指揮下にあったとしても私の制御下にはないということだ。
 確かに電力系統にトラブルが起きてサーバーダウンしたときには、別系統からのエネルギー供給でサーバーを維持する必要はあるけれども。親会社からの出向者と相対するときのような居心地の悪さに思わず顔を歪めたが、彼はそれさえ気にせずころころと微笑んでいた。
「さあ、行くぞ。まずあちらがお前の部屋、そこから人間用の生活空間が繋がっている。本丸内の内装や構造はお前の端末で変えられるが、外から持ち込まれたもの……たとえば万屋で買った菓子などは変えられない。本丸の部屋を変えたりするなら、刀(ひと)の少ない間にやっておくことをお勧めする」
 三日月さんはマイペースに説明を始めるから、疑念と不満は業務説明の下敷きに。私も諦めて彼の話に追いかけることにして、やれ台所だ、やれ風呂だ、トイレはどこだと小型端末で仮想現実内のマップを開きながら基本的な間取りを確認した。
「そういやぁ、ちっくと腹が空いたのう。どうじゃ、確認がてら昼飯ちゅうんは」
「あー、まぁいいけど」
 気付けば確かに現在時刻は正午過ぎ、吉行の言う通り栄養補給のタイミングだ。三日月さん曰く自炊に必要な食糧や調理道具は最低限揃っているらしいし、申請を出しておけば食糧の定期補充も可能なのだとか。自動で定期補充をしてくれるのは有難い話だ、いちいち気にかける必要がないのだから。私は少しだけ安心しながら、三日月さんの本丸案内ツアーを追いかけて台所へ足を踏み入れた。
「うん? なんじゃ、この箱は」
「私が申請しておいたの。基本的なものは揃ってるって聞いてたのに、これなかったから」
 複数人が使うことを想定されているのだろう台所はずいぶんと広いシステムキッチンで、むしろこれは料理人でなければ使いこなせないのではないだろうか。基本的には畳の敷き詰められた日本家屋でありながら扉一枚隔てた先がときどき妙に現代チックだから、そのシュールさがなんとも仮想現実らしい。私はキッチンの調理台に置かれていた段ボールの中身を取りだすと、それを吉行と三日月さんにも手わたした。
「こりゃあなんじゃ? 焼き菓子か?」
「だから昼ご飯。一日三回、これを食べるだけで成人に必要な栄養素がすべて過不足なく摂取可能な完全栄養食よ」
 難しいことを考えなくともこれだけ食べておけば健康体が維持出来る優れものなので、学生時代に出会ってから私はずっとこのブロック・ブレッドのお世話になっている。これさえあればカロリー補給も問題なく出来るのに、どうしてこれが最低支給食糧に含まれていないのかが不思議で仕方なかった。だから申請したのだけど。
「ほおお、現代はそがなもんがあるんじゃなあ」
 吉行は目を輝かせてまじまじと個包装されたブロック・ブレッドを色んな角度から眺めているから、最初の印象から変わらず奔放でどうにも神様らしくない。まるで好奇心旺盛な子どものような彼とは裏腹に、三日月さんは袋をつまむと「ううん」と初めてその顔から笑みを消した。
「確かにそれは優れものだろうが、些か風情に欠けるなあ」
「食事に風情とか求められましても……」
 食事とはそもそも栄養補給のための行為だろうに、もしかしてこの御刃は人間の身体を模したからには人間の生みだした娯楽を一通り試したがっているのだろうか。それはもはや趣味趣向の話になるから職場の福利厚生として求めるのではなく、ご自身で解決して頂きたいのだが。「握り飯とかはないのか?」「お米なんて十年近く食べてないから、炊き方すらもはや記憶にないですね」食い下がる三日月さんに首を振っていると、ブロック・ブレッドをしれっと袂にしまい込んだ吉行が間に入り込んだ。
「ならわしが作るき、ちっくと待っとおせ」
「えっ」
 彼の提案に思わず声をあげると、不思議そうな顔を向けられる。「どういたが?」どうしたもこうしたもなかった。
「なんで作れるの?」
 人間の身体を模倣して付喪神としての意識をアバターに顕現させているが彼の本体は刀であり、当然ながら米を握ったことはないはずだ。他のサーバーで既に活動しているアバターの記憶が本体に還元され、その情報がいま顕現されたアバターに反映でもしているのか。知らない仕組みを問いかければ、吉行は自信満々に自分の胸を叩いてみせた。
「わしぁ元々坂本家の家宝じゃったがよ。家んなかのことは全部見とったき、食事の作り方ぐらいはわかるちや!」
 思ったよりも単純な理由だったし、実践経験はないようだった。
「そうか、それは頼もしい。では頼んだぞ、陸奥守」
「えっちょっとマジで作らせるの? 吉行もそれでいいわけ?」
「刀が米握りゆうがなんて、まっこと面白い話じゃ。わしはやりたいぜよ」
 三日月さんは彼の言葉に満足するとブロック・ブレッドを調理台のうえに置いてキッチンを出ていってしまうし、吉行もそれを気にすることなく笑っている。彼が申し出て、しかもそう言うのであれば、もはや止める理由もないのだけど。釈然としなくて眉をひそめていたら、肩を軽く叩かれた。
「主も作り方は知らんのじゃろ。わしが覚えたら教えちゃるき、いまは向こうで三日月の相手しとき」
「……わかった」
 吉行が軽く笑ってそう言うから、私は結局キッチンをあとにしてやたらに広い居間へと戻る。いまは小さな卓袱台と数枚の座布団があるだけの空間だが、そのうちここもアバターでひしめくようになるのだろうか。縁側から見える庭の景色を眺めている三日月さんのそれなりに近くへ腰を下ろすと、ほんの少しだけ溜息をついた。
「……三日月さん」
「うん?」
「『刀剣男士』って、みんなあんな感じなんですか?」
 思わず尋ねると、彼は縁側から視線をほどいてたおやかな微笑を私に向ける。明らかに足りていないであろう私の言葉へ質問を返すこともなく、それでいて真意を正しく汲み取る顔。今日だけで何度も目の当たりにしているその様は、彼が本物の付喪神であるからなのか、それともこの三日月宗近という存在が持っている特権なのか。
「そうだな。違いの大小はあれど、概ねあのように、こころの赴くままに振舞っている。その点は我らも人間と同じ、意思ある存在だからな」
 理由はわからず、ただ彼は相変わらず私の疑問をそのまま射抜いて言葉を返す。彼らは――仮想現実内においてのみ実体として顕現が可能になる『刀剣男士』という存在は、マザーデータから人格や性能をコピーされたデータによるアバターでしかないのだと思っていた私の認識を、思考から引き剥がそうとする。
「だから各本丸の刀剣男士を現実に顕現させることが出来ないのだ。お前の先輩の本丸にいる陸奥守は、完全栄養食とやらを嫌がるじじいを見て握り飯を作ってはおらんだろうからな」
 情報の整合性にエラーが生じる、とは、つまり。あの吉行は『審神者』の数だけ存在している陸奥守吉行のアバターであると同時に、あの吉行、なのだと。自分の頭のなかへ叩き落とされた現実は、仮想現実と現実の間で自己矛盾を発生させないことよりよっぽど私の頭をちかちかさせた。
 なんだろうこの、猫のアンドロイドを愛でていたと思ったらそれが本物の猫だった、みたいな気分は。溜息を吐いて、思わず畳へ仰向けになる。三日月さんはそれを見て、ずいぶん楽しそうに笑っていた。
「お前は些か頭でっかちなようだ。道理を解しているのは素晴らしい、あとはこころを学ぶことだ」
 なあに、安心しろ。陸奥守は、人心をよく解している。
 そう言われたが、それはつまり、私のほうが吉行よりひとでなしって言いたいのだろうか。

 ちなみに吉行の作ったおにぎりとお味噌汁だが、引くほど美味しくて軽く引いた。曰く「見よう見まねじゃ」とのことだが、見るだけでどうにかなるなら世の訓練プログラムはすべて座学講習だけでよくなってしまう。ちなみに初めての料理は思いのほか楽しかったようで、夜は卵を焼いてみるそうだ。こころの赴くまま過ぎないか。

 しかしまぁ、仮想現実内で送る日常生活は業務の本分足り得ない。ずいぶんと派手な脱線を挟んだのちに鍛刀プログラムを実行して新たな刀剣男士のアバターを生成し、時間軸における人類の敵――時間遡行軍の歴史干渉を防ぐべく過去へ彼らを送り込む。
「っあー、回復! 手入れありがとな、主さん!」
「いや、むしろ私のほうが浅慮で申し訳ない……」
 そしてものの見事に返り討ちに遭い、生成されて間もなくプログラムを大幅に破損させてしまったのであった。
 仮想現実内で初めて実行した鍛刀プログラムにより生成された愛染国俊は幼い見目ながらおおらかで豪気なたちをしているらしく、私が深く頭を下げても「まぁ気にすんなって、次はオレがぜってー倒すし!」と元気よく励ましてくれる。初めての業務で初日から大失敗をするこの感覚、果たして何年ぶりだろう。新卒の頃に舐めまくった辛酸を思いだしては、ばんばんと背中を叩く国俊のちょっと痛い励ましに助けられていた。痛みに引っ張られて思考の落ち込みループはとりあえず止まる。
「それより、陸奥守のほうも気にしてやってくれよな。あいつのほうが重傷だったんだし」
「うん、そうする。ありがと、国俊」
「おう!」
 先に手入れ――破損したプログラムの修復を終えた国俊は本丸内の一番お気に入りスポットを探してそこを自分の部屋にするらしい。「おやすみ主さん、ちゃんと寝ろよ!」そう言う国俊に手を振って、私はプログラム修復完了までのタイマーに視線を移した。
 国俊の言った通り、吉行は彼を庇ったこともあり構成データの八割を破損する結果となった。データの修復には各アバター専用の修復パッチを当てて基本データを再構成させたのち、サーバーと本体に保存されているローカルファイルを再インストールさせるため、破損規模が大きくなるほど修復にも時間がかかるのである。
 それに、ふと思い至ってしまった。ローカルファイルのインストールに失敗したら、もしくはそのローカルファイル自体が破損していたら、吉行のなかから今日おにぎりを作ったことは消失するのだということに。
「……ん? なんじゃ主、ここで待ちよったがか」
「そりゃ、まぁ。……吉行、大丈夫?」
「ん、なんちゃあない。それよりすまざったな、卵焼かれんで」
 国俊からやや遅れてプログラムの修復が完了した吉行は、修復用のプログラムファイルが揃った専用区画――手入れ部屋から出てくるなり、申し訳なさそうに眉を下げて苦笑する。「そんなの、気にすることじゃないでしょ」そんなことを言われてしまったら、安心するやら呆れるやら。でも今日の夕食は晴れてブロック・ブレッドとなり、三日月さんが渋い顔になったことは黙っておく。
「ねぇ吉行、ちょっと触っていい?」
「んん? えいけんど」
 それよりも。落ち着かない自分を宥める目的で許可を取り、背中を少し丸めた吉行に手を伸ばす。首に触れれば肌の質感、親指の腹には喉仏の硬さ、動脈に触れればずくんずくんと血潮の気配。それは確かに、生きている手ざわりだった。
「……ありがと」
「えいえい、気にしな」
 現実の模倣、実在のアバター、人工知能に類似するデータ群。彼らはそういうものではないのだと、その事実を痛烈なまでに骨身へ叩き込まれる。仮想現実はもはや、もうひとつの現実だ。少なくとも私の脳は現実で目覚めたとき、ここで得た刺激をすべて現実のものとして処理するのだから。
 そして、この仮想現実で実体を持つ彼らも、私にとっては電子データに留まらない。吉行のなかから昼間の出来事が消えてしまう可能性を恐れた時点で、私のなかで、彼は吉行という固有の存在として成立していた。
「……っし、反省終了。明日はもうちょいプロテクトとデータ保護の機能いじるわ」
「っはは、しょうまっこと真面目な主じゃのう! けんど、今日はもう寝んといかんぜよ」
「わかってる、さっき国俊にも言われた」
 それなら私は、ただプログラムを遂行するだけの機能になるのではなくて。彼らが万全に戦い、無事に戻ってこられるように、全体を見て考えながら指示を出していく必要がある。つまりはオペレーター業務、結局私の仕事はそこにあるらしい。
「ほいたら続きはまた明日じゃ」
「うん、明日もよろしく」
 なんとなく吉行と手を叩きあって、仮想現実こと本丸での業務初日はこれにて終了。あとは人生どうとでもなるんだから、なるようにしていくだけ。


First appearance .. 2023/05/21@yumedrop