森海遊泳 - 3/3

3.
 休息日の午前中、舗装された道を進んで密林までの距離を埋める。草地に水気が混ざり始める頃、その道すがらに珍しく人影が存在した。スメールシティの学生や行商人も使う道なのだ、他者の気配に特異さは生まれない。それがアルハイゼンの目を惹いたのは、偏にその人影が知己のものだったからだ。
「やあ、アルハイゼン。よかった、君に会いたかったんだ」
「ティナリ。俺に用があるのであれば、勤務時間中に執務室まで来てくれればいいはずだが」
「もちろん、仕事ならそうするよ。僕が君を探してたのは、あくまで個人的な理由。それも急ぎのものじゃないから、どこかで会えたらいいな、くらいのものだったのだけど」
 学生時代から現在に至るまで良好な関係が続いている友人は、誰に対してもそうであるように、至って柔和な笑みをその顔に浮かべてみせる。彼は手元で広げていたノートを手早く荷物にまとめると、七天神像の根元からゆっくりと立ちあがった。目的地の進行方向であるためアルハイゼンが彼の隣に向かえば、ティナリは自然な動作でアルハイゼンを見あげる。
「この間カーヴェから聞いたんだ、君がローカパーラ密林へ通ってるって」
「ただのフィールドワークだ」
「それにしたって、珍しいじゃない。君の知識欲に分野の壁がないことは知ってるけど、あそこは君が執心するような場所じゃない。つまり君は、なにかを見つけたんだろう?」
 柔和な表情、穏やかな語り口、言い回しはやや迂遠ながらも本質への到達にさして時間を要さない。ティナリを彼たらしめる言葉に、アルハイゼンは吐息未満の嘆息を微かにこぼした。
 レンジャー長を務めるティナリにとって、雨林の変化は些細なものでも感知しておく必要がある。そのために、彼の把握している雨林の平常に該当しないアルハイゼンの行動が気にかかったのだろう。急を要する事態であれば正式な報告が既に届けられているはずだから、緊急性の高い変化でないことは理解したうえで。
「ああ。いまから対象の観察へ向かうところだ」
「やっぱりね。それ、僕が同行しても?」
「構わない。断る理由もない」
 それも想定内の出来事だ、想定より些か早い到来であっただけで。だが既に最低限の準備は整っていたから、ティナリの提案を言葉と首肯で了承した。
 旧知の友と歩みを並べ、密林までの距離を埋める。スメールシティでプライベートな時間を重ねるときと同じように言葉を重ねながらもティナリの意識は既に雨林の奥地へ傾いているようで、フェネックの耳は遠く音を拾わんと毛先までもが尖っていた。
 足元の草地に溜まる水分がブーツ越しに感じられるようになった頃、雨林の奥地、僅かに開けた場所に出る。巨大茸の燐光は変わらずマウティーマ稠林を青白く照らし、傘に溜まっては落下する流水にそのひかりを反射させていた。
 目的地へ到着したアルハイゼンは足を止め、それに倣ってティナリも踵に草地の水気と燐光を滲ませる。顔を少し上向けて森全体へ視線を巡らせれば、対象の認識にさして時間はかからなかった。
「あれだ」
「あれ、って」
 目線で頭上高くを示す。その先には蛍光植物の放つひかりを反射して煌めく鱗、森の中空を遊泳する一匹の魚。言葉を失ったティナリを横目に指笛を鳴らせば、幽玄な空気を切り裂く音を受けた魚が空を泳ぐ。森海魚はアルハイゼンの眼前まで降り立つと、そのかんばせに無邪気なまでの笑みを浮かべてみせた。
「あぅはいぇ!」
「ああ、こんにちは」
「うぉんいぃ、は!」
 彼女の成長は目覚ましく、人語の発声も徐々に会得しつつある。コミュニケーションに関してもそれは同様。意図の理解には未だ至っていないだろうが、少なくとも親の躾を守る子どもと同等の行動を取ることに成功していた。顔をあわせたら、まず挨拶をすること。彼女はそのルーティンを身に着けている。
「……アルハイゼン。これ、彼女、は」
「先日フィールドワークを試みた際に発見した。元素生命体と人間の特徴が混在した生命体で、現状の知能は低いが学習能力は高い。あとひと月もすれば、テイワット語の発音を会得するだろう」
 警戒心を僅かにも抱かない森海魚とは対照的に、ティナリはその顔を青褪めさせて絶句している。それも無理からぬ反応だろう、生論派で学位を修めた人物であれば尚更に。その衝撃を理解しながらもアルハイゼンは一度ティナリから視線を外すと、彼をしげしげと眺めている森海魚へ声をかけた。
「彼は俺の友人だ。名を「ティナリ」と言う」
「い、あ、り」
「ああ、そうだ」
「いあり、うぉんいは!」
 唇を指で示しながら発音すると、彼女にしては比較的流暢にその名を呼ぶ。そして森海魚は、自発的に挨拶を試みた。それはすなわち、アルハイゼンとの間で繰り返されている行為がただの模倣と反復ではないことを示している。対象が異なる際にも条件が同じであれば同様の行動を選択する、それを自らの判断で実行出来るほどに彼女の知能は発達していた。
「ティナリ。こんにちは、だそうだ」
「っあ、ああ、こんにちは……」
 その選択が社会的に正しい行為であることを示すためには、ティナリからの応答が必要となる。唖然とした彼に促した返答へ、森海魚は笑顔を浮かべながら中空で尾鰭を揺らした。喜びの感情を示す動作である。
「さて、悪いが少し遊んできてくれ」
 アルハイゼンが森海魚へ言葉をかけながら、人差し指で頭上の空を二度示す。彼女はそれに頷いた。アルハイゼンがこれまで取っていた首肯という動作の意味を理解し、自身もそれを取り込んだのだ。そして長い尾鰭が雨林の色を揺らめかせるようにして空に昇り、生成した水元素を弾ませて遊び始める。彼女が単身での遊戯に興じ始めたことを確認してから、アルハイゼンはティナリへ視線を落とした。
「……あれは、彼女は、自然発生した生命体じゃない。人間の模倣が可能な純水精霊であれば言葉を解しているはずだし、全身が水元素で構成されているはずだ。だが彼女は、下半身しか水元素で構成されていなかった」
 一見だけで件の生命体が孕む異常を理解したティナリは、青褪めた唇を強く噛み締める。彼女を発見した当初のアルハイゼンにとっては可能性のひとつに過ぎなかったが、森海魚を目撃したばかりのティナリが可能性を検討しないのは、偏にそこが彼の領域であるからだ。検討などしなくとも、彼の持つ知識は正答を導きだしている。
「先日、別件でマハマトラの資料を閲覧する機会があった。ついでに彼女の件の調べもつけておいた――あれは、二十年ほど前に生論派の学者が行った禁忌の産物だ」
 自らが所属していた学派の罪だ、ティナリが知らないはずもない。マハマトラに取り締まられた研究内容が大々的に公示されることはなかったが、学派内では往々にして話が出回るものだ。そこにいる学者たちへの、戒めのために。
「人間と元素生命体の人工授精。人類の進化に関する研究は当然罰され、研究成果はマハマトラが押収・処分する。しかし当時、受精卵を培養していた試験管の一本だけが割れて中身の回収が不可能となった。現場廃棄として処理されたが、それを確認出来た者はいない」
「……じゃあ彼女は、そのときの、唯一の生き残りだって?」
「他の可能性が考えられない以上、そう判断するべきだろう。彼女は自然発生した新種の生命体ではないと、君もそう述べていたはずだ」
 突きつけられた現実に言葉を失っていたティナリは長らく沈黙していたが、全身を用いた深呼吸ののちに倒れかけていた耳を伸ばす。ああ、そうだね、と。こぼされた声は苦渋に満ちていて、豊かな情感もときとして考えものだ、と胸のうちでのみ感想を漏らす。
 それが自身の犯した罪でないのなら自らが処断されたかのように落ち込む必要もない、自らの罪が関与しているのであればマハマトラの下す命に従い罰を受ければいい。どのような理由にせよ、ティナリがショックを受ける必要はないのだ。
「アルハイゼン。君は、彼女の正体をわかってたんだよね」
「発見した当初は可能性のひとつでしかなかった」
「でも、そのあとはわかってたんでしょ。そのうえで君は、進んで彼女に知性を与えた」
「その根拠は?」
「それこそ、見ればわかるよ。彼女のコミュニケーション能力は最近他者に与えられた程度のもので、そこに君の所感が付随するなら、それを与えた人間は君しかいない」
 ティナリの思考はしなやかな精神が揺らいだ状況にあってなお明瞭で、わざとらしいアルハイゼンの問いかけを鼻で笑う。そして彼は、柔和な瞳の端に鋭さを灯す。「どうして」。端的な質問は、アルハイゼンの思惑を探っているようだった。その思考の根幹に、ティナリ自身よりもアルハイゼンが先に到達する。旧友は生命への侮辱を前にした衝撃を受けてなお、そうして誕生した命を慮っていた。
「君も認識している通り、彼女は異質な生命体だ。それが他の知的生命体と接触した場合、意思疎通の可否は生存確率に大きく影響する」
「……つまり君は、彼女が他の人間と出会ったときに傷つけられないように、言葉を教えてるって?」
「ああ」
「どうして」
 だからこそ、ティナリの言葉を受けたアルハイゼンは笑わずにいられなかった。彼を鼻で笑い返し、短く告げる。
「それを、他でもない君が問うのか?」
 生命への優劣と貴賤を嫌うティナリへ、彼の根幹を突きつける。それにティナリは息を呑むと、鋭く研ぎ澄ませていた瞳のふちを緩ませた。痛みと遣る瀬無さを滲ませながら、それでも彼は、吐息に安堵を滲ませる。
「人工授精の研究と研究成果は別物だ。彼女が原生種に影響を与えているようであれば最低限隔離の必要はあるだろうが、彼女の存在が雨林の環境に影響を及ぼしていないことは、この二十年が証明している。彼女は他に同種もおらず、今後繁殖する恐れもない」
 異質な生命体は異常であるがゆえに無力であり、世界になんの影響も及ぼさない。そのように無力な無辜の命を奪取する正当性は、この世界に存在していない。だからアルハイゼンは一切の先行研究を持たない生命体の観察を続けることで世界に対する知識欲を満たすと同時、無力な生命が理不尽に排されないよう手を打った。
「……驚いた。まさか君がそこまでして、誰かを守ろうとするなんて」
「無意味な殲滅こそ然るべき環境の崩壊に繋がると判断しただけだ。生物史においては彼女の存在こそ異常だろうが、マウティーマ稠林のこの二十年間においては、自然な状態のなかに彼女が含まれているのだから」
 その言葉通り意外だといわんばかりのティナリの声は些か心外だったため、アルハイゼンは僅かに溜息を吐く。彼はただ害無き生命に手を下すほど悪辣な趣向を有しておらず、平穏な日々を乱す要素にもなり得ないものをあえて駆逐する過剰な正義感も持ちあわせていないというだけだ。
 それに、と呟く。頭上を見あげれば、そこでは、世界でたった一匹だけの魚が森の海と戯れている。艶やかな鱗に、瑞々しい髪に、水面の如き双眸に、雨林の色彩すべてを溶け込ませながら。植物の燐光を柔らかく反射し、人間の遥か頭上を泳いでいる。
「これを失うのは、俺ですら惜しいと思うよ」
「……うん、そうだね。まったくだ」
 罪から生まれた、罪なき生命が森の海を遊泳する姿は、美しいものだった。幼い頃に見ていた、いまとなっては思いだすことも難しい夢のように。