1.
歩を進めるごとに踏みつける草は多分に水気を含んでおり、柔らかな草の間から朝露の名残が染みては大地へ還元される。平野部のものと比較した際、この地域の植物は水分による根腐れを起こすことがほとんどない。それは、湿地帯に根差した植物たちが採択した生存戦略だった。
テイワットに存在する事物の多くは、生存理由に妥当性が担保されている。そうでなければ種としての持続的な生体維持は成り立たず、環境変化に淘汰されてゆくからだ。
世界とは、確立された理論で精緻に構築されている。踏めば水分の滲む植物にすら理由がある。それらの解明がアルハイゼンにとっては好ましく、だからこそ彼は個人的な時間を雨林への散策に割いていた。
生論派の研究者によって発表された論文が、書類の検閲業務を行っていたアルハイゼンの好奇心を刺激した。雨林の生態系に関する新たな分類の提言は、恐らく今後、生論派の研究者たちの間で議論の中心となるだろう。定着していた定義へ投じられた一石はそれほどまでに目新しく、また学生の自暴自棄な論文ほどな突飛さもなく、事実を礎とした理論展開がされている。そしてアルハイゼンもその分類に則った動植物の観察を試みるべく、雨林の奥深くにまで足を運んだのである。
理論と実践は本来、同量同質がワンセットであるべきだ。実践には理論が必要で、実践なき理論はただの空想に成り果てる。アルハイゼンが研究成果の摂取だけでなく能動的なフィールドワークも人並みに好むのは、その理屈に基づいていた。知識は智解させなければならない。咀嚼を放棄した知識の嚥下は、最も唾棄すべき行為なのだから。
そうして新たな認識を意識の端に留めながらキノコンを遠目に観察したところで、アルハイゼンの視界が僅かに翳る。鬱蒼とした湿地帯ではあるが陽光の差し込む区域でひかりが遮られる理由など幾らかもない、しかし現状は該当する候補のどれもに当てはまらない。アルハイゼンが佩いた剣の柄に手を当てながら視線を上に滑らせて、そして彼は、言葉を失った。
雨林の最も奥深く。午後の陽光を浴びてなお発光が視認可能な巨大茸の傘の傍。
――そこに、一匹の魚が泳いでいた。
それを単純に「魚」と称することは難しい。まずそこは水中ではないために、その生命体の動きは「中空を滑空している」と表現するほうが正確だろう。滑空を可能にしている部位は魚に酷似しており、長い鰭が空気を扇ぐことで凝縮された風元素によって飛行しているように見受けられた。
だがその存在を最も異質たらしめているのは、その生命体の腹部より上部。それは、人間のものだった。少なくとも遠目で、下から観察した限りでは。白い皮膚の先には指があり、指の先端には平爪型の角質。無性の生命体ではないことを示すように胸部にはふたつの乳房を持ち、首から上の造りも人間と変わらない。目や耳、鼻、口。それらは人間と同一のものが同数、同じ位置についていた。
人間の上半身と魚の下半身を持つ、異様な生命体。それはアルハイゼンの存在にも気づく様子はなく、無警戒に中空の滑空を続けている。鰭をそよがせて風を生み、膨らませた風元素を破裂させてはその衝撃で跳躍。それは動物の遊び行動と類似していた。
意図して元素を操作することが可能であるという点においては元素生命体の定義に該当する一方で、上半身の人間部から元素反応はほとんど見受けられない。遊び行動を取る程度の知能は確認出来るが、通常の人間と同等に発達しているかどうかは未確認。従来の分類にも、先日提言のあった新たな生物分類にも該当部を持たない生命。それは、ごく自然にアルハイゼンの関心を引き寄せた。
アルハイゼンは手頃な倒木に腰を下ろし、生命体の動きを観察する。宙を泳ぐ下半身の動きは滑らかで、勢いよく跳ねた身を支える腕の動きと反射性も申し分ない。運動機能は高いようで、人間であれば曲芸師に匹敵する身のこなしを取っていた。
その一方で、五感に特筆すべき点はない。中空で遊びまわる際に障害物へ衝突しない程度の視力は確認出来たが、その存在はそもそもアルハイゼンという異物の到来を知覚していないのだ。すなわち件の生命体の人間部が有しているのは、一般的な人間程度の機能に過ぎないのだろう。
長らくの観察を続けて生命体の身体機能の計測をおおよそ終えたアルハイゼンは、やがておもむろに腰をあげる。ならば次に行うべきは、外部刺激を与えた状態の観察だ。アルハイゼンが指笛を鳴らす。密林に人為的な高音が響きわたり、雨林の空気が変化した。キノコンは外敵を警戒し背の高い植物の合間に身を隠しながら擬態し、瞑彩鳥は倒木から巨大茸の縁を目指し飛びたつ。そのなかで新種の生命は逃げることも、隠れることもなく、ただきょろきょろと周囲を見わたした。
警戒心が低いのは、生命の危機を脅かされた経験に乏しいからだろう。すなわち密林に生きるキノコンよりも上位存在であるか、なんらかの理由によりキノコンとの共生を果たしているか。現状では断定を避けるべき可能性を脳裏に浮かべながら、もう一度指笛を吹く。生命体は、ようやくアルハイゼンを認識した。
双眸がアルハイゼンに向けられ、緊急時の逃走の構えも見せずに宙を滑る。勢いよく下降したその存在はアルハイゼンの眼前にまで降りたって、彼の顔を興味深そうに覗き込んだ。
その仕草は、危機と恐怖を学習していないがゆえの無防備な好奇心の表れだ。つまり眼前の存在は、人間ないしそれに類似する存在を見たことがないのだろう。ならばこの生命は進化の過程で自然発生した新種ではなく、突然変異によって成立した可能性が高かった。
「君は、言葉を解することが出来るか?」
恐らくは無意味な問いかけを行う。生命体は瞬きを何度も繰り返すが、それ以上の変化を起こさない。アルハイゼンの想定通り、それは恐らく言語を用いたことがなかった。この生命体にとってアルハイゼンの言葉は、無意味な音の連続に過ぎない。
「ぃ、い?」
だがそれは、驚くべき姿をアルハイゼンへ示してみせる。まるで彼の行動を模倣するように、声を発したのだ。
「……声帯が機能しているのか。環境適応に不必要な機能は退化するものだが」
その生命体はアルハイゼンが観察を続けているなかでも、一度も声らしきものを発する様子がなかった。そのため発声機能は環境適応の過程で棄却されたと踏んでいたのだが、予想に反する反応を与えられた好奇心が刺激される。
アルハイゼンがおもむろにくちを開く。「あ」と発声すれば、眼前の生命は同じようにくちを開いた。「あ」アルハイゼンを模倣したのち、その表情が変化する。笑う。快感という原初的な感情の発露。それは、目の前の存在が人間と同程度の脳機能を有していることを証明していた。
「成る程、興味深い」
アルハイゼンの認識外に存在していた、異質な生命体。それは彼が雨林の奥地に足を踏み入れた目的とは大きく異なっていたが、当初の目的以上の収穫を与えることとなった。