落翼 - 1/2

 深夜の要塞は、いっそ不気味なほどに静まり返っている。罪人たちは管理者の飼育計画に則り床へ就き、意識ある者はいて精々が不寝番程度。パイプの中を通り抜ける水の音だけがごうと唸って、今宵は一際にそれが耳障りだった。
「管理者への面会を。許可は取ってある」
 罪人を脅すための厳しい扉には、夜にもわざわざ見張り番。それらへ短く用件を告げれば、左右の男女はそれぞれがわかりやすく顔を歪めた。
「……話は聞いている、入れ。くれぐれも、規律を逸脱した行為には及ばないように」
 浅い忠告を一瞥し、扉をそのまま押し開ける。気取った螺旋階段、わざわざ設けられた来客スペースを鼻で笑う。随分な身分なのだと見せつけてくるような調度品が、一層の苛立ちを煽り立てた。
 しかしそれも詮無いこと。この空間のすべてが私の不快感を煽り、吐き気にも似た憤りを呼び起こす。扉の前で螺旋階段のうえを睨めば、いまや名実共のお貴族様、公爵閣下がわざとらしいほどに芝居がかった様子で動いてみせた。
「こんばんは、シュエットくん。俺との面会に特別許可券を使わなくとも、話したいことがあるなら声をかけてくれてよかったんだぜ」
「ぬけぬけと言ったものだな。いままで私に見向きもしなかったのは、どこのどいつだ?」
「おやおや、俺は知らないうちにずいぶん君の不興を買ってしまったらしい」
 罪人を制限するために作られた、要塞内でのみ流通する紙幣。くだらない飯事めいていたが、積めばどんな要望も叶う明快さだけは悪くなかった。この男との密室は、そうしなければ得られない。どうしようもなく腹立たしいことに。
 その態度は白々しく、あくまで自らくちを割るつもりはないらしい。確たる証拠はあくまで他人に提示させる、その狡猾さに腸が煮える。この男は、ずっとそうして生きてきたのだろう。そしてその狡賢さで、幾多もの命を踏み躙ってきた。
「そんなに茶番がお好みか? 兄さん」
 ならばせめて踏み潰された臓腑の怨讐を突きつけなければ、足元に広がる血溜まりがあまりに無念。「いや――」罪を喉笛に突きつける。この世界から隠蔽された、その男の名をくちにする。
「……そうか。お前は罪人ではなく、妹として、この俺に用があると?」
 男は初めてその顔から軽薄な笑みを消し、ようやく螺旋階段から降りてくる。成る程、管理者と罪人とでは天地ほどの身分差があるとでも言いたいのだろうか。吐き気がする、どうしようもないほどに。
「妹として、じゃない。あの家の生き残りとして、だ」
「なんだ、親殺しに恨み言でもぶつけにきたか? そのためにわざわざ罪まで犯して? そりゃずいぶんとご苦労なことだ」
 吐き気がする、吐き気がする。軽薄な笑みは酷薄なものになり、侮蔑の瞳が向けられる。まるで自分の判断こそが正しいと思い込んでいるかのような思い上がり、いまとなってはその男こそが要塞を束ねる為政者なのだという。憤りの衝動で男の胸倉を掴む。男からはなんの抵抗もない、それがまた怒りの炎に薪をくべた。
「ふざけるな! ふざけるな、ふざけるな!! 父さんと母さんを殺しておいて、あの家を潰しておいて、お前はどうして、そうも平然と生きてられる!?」
 同じ孤児院で育った、血の繋がらない兄が、私の故郷のすべてを奪った。それが、怒りのすべてだった。
 さる高官が私を見初めて養子に取ると決め、新しい家族とともに新しい家へ向かおうとしているときのことだった。賊徒の襲撃に遭い、新しい親は目の前で惨殺され、その後は奴らの道具として使い潰された。いつかそこを抜けだして故郷へ帰ることだけを望み、両親に一度だけでいいから頭を撫でてほしいと願って、賊に成り下がりながらも生き延びた。
 そうしてようやく戻った故郷は疾うに崩れ去っており、暴力に蹂躙された跡だけが残っていた。少し調べればすぐにわかった、リオセスリと名乗ったかつての少年の写真は新聞社が抱えている。男の名前は知らない、だが顔を見ればそれが誰かなどすぐにわかった。わからないはずがなかった。
「どうしてお前が生きている、どうしてのうのうと生きていられる!!」
「事件の犯人を知ってるなら、その動機だって知ってるはずだが? 当時から新聞社はいい仕事振りだったからな」
「煩い!! 父さんたちを、あんな理由で殺しておいて……!!」
 かつて私の兄だった男は私を見下すように笑う、それが私の神経を逆撫でするのだとわかったうえで。その態度が一層に腹立たしい、奪ったものへの懺悔すらその顔には滲まない。それは、死者への侮辱に他ならなかった。
 だが男は、私の言葉にとうとう笑みを消す。ぞっとするような顔で、やつは私を見下ろした。
「善人面の人身売買で私服を肥やす不貞の輩を、よくもそこまで慕えるもんだな」
「煩い!!!」
 男の罪の告白は、孤児院の罪もまた明らかにした。知っていた、すべてわかっていた。私の行く先は、結局賊の下でしかなかった。
 私は高官の養子として高額で売られたのち、賊がその帰路を襲うことで財産を強奪する。高官と権力闘争の最中にあった者は政敵の死によって自らの地位を確かなものとし、雇った賊に報酬を払う。そのすべてを仲介したのが、孤児院だった。
 わかっている、知っている。私は所詮、かつての親にとって、ただの商売道具でしかなかった。
「それでも!! それでも、お前が殺したんだ!! お前が全部奪っていった!!」
 それでも私は、あの孤児院にいた頃、幸せだったのだ。私のたったひとつの幸福な思い出さえこの男が踏み躙って、そこに汚泥を被らせた。
「殺してやる」
 私の幸福のすべてを奪った男、そのうえで平然と生きている男。それを、どうして憎まずにいられるだろう。冷たく見下す男の首を締め上げる、だというのにやつは眉ひとつ動かさない。
「殺してやる!!」
 罪には罪を、死には死を。腰に差していたナイフを抜く、潰せるのなら目でも喉でも臓でもよかった。
「ア、ぐっ……!!」
 だが男はその瞬間、鉄板の床に私を押しつける。ナイフを持つ手が締め上げられて肩を外され、鈍い刃の落下音。肺を押し潰され、呼吸も奪われ、肋骨の軋む音を内側から聞く。男は私を押し潰しながら、わざわざ耳元にまで顔を近づけた。
「経験者からの忠告だ。本当に殺したいならわざわざ宣戦布告をするより、下準備を整えてから奇襲をかけたほうが、よっぽどいい」
「っ、ふざ、けやがって……!」
「お前の復讐がふざけたお遊びじゃなくなったら、そのときは本気で相手してやるよ」
 見下されている、馬鹿にされている、踏み躙られている。この男にとって、私の怒りなど所詮その程度でしかないと突きつけられている。私は、彼を殺すことだけに縋ってここまできたというのに。
「さあ、面会の時間は終わりだ。看護師長を呼んでくるから、治療を受けたらおとなしく寝ることだな――シュエットくん」
 この男にとって、私の怒りは些事ですらないという。
 その瞬間、私はこの世で最も惨めな存在に成り果てた。