宝石をさがす旅

「珊惹。しばらくの間、君に暇を与えようと思う」
 主君からの言葉に、耳を疑った。けれどこの身体は、他ならぬ主君から傾けられるものだけは取り違えることがない。それならばと、次に自らの頭を疑った。だが都合の悪い幻聴が内から生まれいずるとも考えられず、告げられた言葉が現実のものであると理解した。
 その瞬間、両手に握り締めていた箒を床へ置く。絨毯の敷かれた書斎の床に傷はつかなくとも、主君の耳を汚してはならない。そして箒を床へ置いた身を平伏せば、微かに息を飲む音がした。
「っ、なにをしてるんだ」
「――私は、いけないことを、してしまいましたか」
 罪への罰か、木偶の坊へ愛想が尽きたか。どちらにせよ珊惹にとっては同じこと、取るべき行動は決まっている。床へ額を擦りつけ、蹲るようにして平伏。耳障りな音にならないよう震えかける声を律しながら、辛うじて言葉を紡ぐ。
「私の行為に悪業が宿っていたならば、正しく罰されまする。御身にとって不快な振舞いがあったのならば、すべて正してみせまする。……ですから、どうか」
 それだけは、お許しください。
 出来るすべてで希う。絨毯の長い毛が揺れる音。主君が自らの傍で膝をついたのだとわかって、胸が痛んだ。自分のせいで彼に余計な行動を取らせてしまった、その事実が臓腑を軋ませる。
「違う、そうじゃないんだ。すまなかった、僕が言葉足らずだったね」
「いいえ、行秋様に足らぬものなど」
「それなら、余分なものを持たせすぎてしまったんだ。珊惹、顔をあげて。誰であれひとと話すときは、相手の瞳を見るように。そう教えただろう?」
 主君への畏敬と現実への恐怖で伏した顔も、彼に呼び寄せられればそれに従うのが道理。顔をあげれば、最も貴き君の尊顔がそこに。地中深くで眠り続ける石珀よりも一層深い宝石の瞳が柔らかくたわみ、珊惹の心臓が理由のない痛みを甘やかに受け止めた。
「いいかい、よく聞いておくれ。僕は君を解雇しようなんて思ってはいない。君はずっと飛雲商会の人間であり、僕の従者だ」
「……は、い」
 主君から傾けられたものを、取り違えることだけはない。ゆえに行秋の言葉は真実であり、深い息を細くこぼしながら彼の言葉へ小さく頷く。彼の従僕であること、それだけが喜びであり望みだった。だからこそ、唯一たる至上に安堵する。まだ、主君に尽くすことが出来る。
「でも君は、ずっと僕の従者だった」
「はい。行秋様が私を救ってくださったときから、私はずっと、貴方の僕です」
 体よく扱われた末に捨て置かれた身は、彼に拾われなければその場で果てるのみだっただろう。尽きるはずだった命を救われ、盲にひかりを与えられた。ならば救われた命は彼に還元されるのが道理であり、授かった知識は彼のために用いるのが摂理。だからこそ、彼へ身を尽くすことがこの世のすべてに勝って喜ばしい。
「そう。君はずっと僕の従者で、それはこれからも変わらない。……けどね、珊惹。それだけでは、いけないんだ」
 けれど主君は花のように美しいかんばせを曇らせ、その瞳をさみしげに震わせる。彼の胸を煩わせている存在が腹立たしく、しかしそれは恐らく自身であるという。主君の苦しみを取り除くことが出来ないもどかしさに眉をひそめれば、白魚の指に眉間を撫でられた。
「君は、君自身を見つけなければならない」
「……私は、ここにおりまする」
「いいや。いまのままでは、君は君ではなく、僕の愛玩人形になってしまう」
「私は、行秋様のための存在です。貴方様のためであれば、盾にも、矛にも、愛玩物にもなりましょう」
 彼はまるで、それを悪業のように告げる。珊惹が正道だと返せば、困ったような微笑が花のかんばせに浮かべられる。そして言うのだ。「駄目だよ、それは」過ちの見つからないそれを、否定する。
「確かに僕は君の主人だ。でもね、珊惹。君自身の主は、君でなくてはいけないんだよ。だって君には願いがあり、願いを抱くこころがあるのだから」
 眇められた瞳が少しずれ、第三の瞳に向けられる。けれどそれは彼への忠心の結実として岩神モラクスより授かったものであり、すなわち主君のための思いだ。それは、彼に平伏するこの身となにが違うだろう。困惑のままくちを噤む。主君は眉間に触れていた指を動かし、稚さの残る手で珊惹の頬を撫でた。
「暇と称されるのが嫌だというなら、僕からのお願いにしよう。珊惹、世界を見ておいで。僕の介在しない世界で、君自身を探してきてほしい」
 触れる指はどこまでも優しい、けれど告げられる言葉はどこまでも惨たらしい。斬首を望まれることと、果たしてどちらのほうが幸福か。彼と出会うまでの世界は珊惹にどこまでも無慈悲だった、暗く冷たい世界の温度は恐ろしい。主君の命でありながら頷くことが出来ずに身を竦ませていると、頭を抱き寄せられる。この世で最も貴き存在、そのかいなに抱かれる。
「恐れないでいい、たとえ離れても僕が君を愛していることは変わらない。ただ、わかってほしいんだ。君を愛している、だから僕は、君に外の世界を知ってほしい」
 傾けられるものはすべて真実だ、だからこそそれに涙する。主君からの愛情を疑ったことは一度もない、恐れ多くもこの世で最も自分を愛しているひとは彼であると知っている。それゆえ忠義は深くなる、思いの向く先を手放されそうになってなお。
「どうか、君が僕に因った正義を抱くのではなく、君のこころに基づいた美醜を感じられるように」
 けれど、それさえ彼から傾けられる愛というならば。
「ゆく、あき、さまぁ」
「珊惹。たくさん外の世界を知って、一等美しいものを探しておいで。そして、世界で一番美しいものを見つけたら、それを僕に教えてほしい」
「っ、は、い」
 その正体がいまの自身にはわからずとも、彼の寵愛はすべて受け止めて然るべきなのだ。
 珊惹が涙を流しながら頷けば、行秋はその頬を両手で拭う。「久しぶりに見たな、珊惹のこんな顔」彼はようやく、美しいかんばせへ稚さを滲ませるように破顔した。
「行っておいで、僕の可愛いヤマガラ。君の瞳は暗い洞窟で毒を睨むためではなく、明るい世界で宝石を見つけるためにあるんだから」


First appearance .. 2023/11/19@Privatter