私の小鳥

 戦禍の深手が未だ色濃く残る土地の視察に向かい、帰りに立ち寄った望瀧村でひとびとの声に耳を傾け、それと同時に提出される報告書を腕に抱く。そうして心海が珊瑚宮へ戻ったときには既に夜が世界へ暗い緞帳を落としており、人気の少ない回廊でささやかな吐息を思わずこぼした。
 明日には社奉行との会談に向けた打ち合わせがあり、そのために必要な報告書と嘆願書は日ごとどころか時間ごとに更新される。頭の奥が鈍く痛み、連動するように意識の端が擦りきれる感覚。せめて、明日の打ち合わせで方向性を取りまとめ内々への根回しを済ませるまでは。残量僅かな活力を無理やり膨らませながら執務室の扉を開き、そして、つい、目を丸くさせた。
「心海様、おかえりなさい。遅くまでお疲れ様です」
「……灯里」
「はい、灯里です」
 主が不在の執務室だというのに鍵がかかっていなかったことにも、窓から明かりが漏れていたことにも、気付いていたはずなのに情報を正しく認識することが出来ていなかった。名を呼ぶ動作が示す動転に、恐らく灯里は気付いているのだろう。彼女はどこかおかしそうに瞳を眇め、もう一度「おかえりなさい、心海様」と柔らかな声を生みだした。
「……はい。ただいま戻りました」
 心海の執務室の合鍵を預かっている人物は床についていた膝を伸ばすと、心海の顔を覗き込む。「顔色がよくありませんよ。今日はおやすみになられますか」提案よりも勧告に近い声へ心海はようやく我に返り、いいえとすぐさま首を振る。それに灯里は眉をひそめたものの、心海を強く止めようとはしなかった。彼女のその聡明さに、心海はよく助けられている。
「本日受領した報告書はそちらにまとめています。勝手ながら、幾らか整理をさせて頂いたのですけれど」
「まぁ、そんなことまで? 貴方にはいつも、世話ばかりかけますね」
「いいえ、海神島に生きとし生けるものすべてを守ってくださっている心海様に比べたら」
 心海の体調を慮りながらも彼女にしか振るえない采配があることを理解しているから、灯里は心海へ過度の制止を傾けない。けれど心海を思い遣るからこそ、彼女もまた夜更けを迎えてなお珊瑚宮へ残って心海を待っていたのだ。
 まとめられた書類は分野ごと、着手の状況ごとに分けて細やかに分類されており、心海が目を通していないものに関しては概要と『虎の巻』に即した対応策の走り書きも併せて留められている。心海の情報精査を阻害しない程度の仕分けは、いまのところ灯里にしか出来ないことだった。
「……軽く目を通しましたが、問題なさそうですね。これならば、明日の会議にも充分間にあうでしょう」
「よかった。それなら、心海様の休まれる時間も少しは増えそうですね」
 それほどに有能であったからこそ抵抗軍の医療兵営は彼女へ任せていたし、灯里が珊瑚宮へ戻ったことで心海の負担もようやく幾らか軽減された。安心したような声で紡がれる、心海のための労わりと慈しみ。それに、摩耗していた意識の端が撫でられる。
「……灯里。すみませんが、もうひとつ仕事をお願いしてもよろしいでしょうか」
「あたたかいお茶を一杯、でしょう? もちろんご用意致します」
 彼女の声は、小鳥の囀りのように柔らかく軽やかだ。自らのためにことほがれる歌は、愛玩動物から向けられる眼差しの如くこころを慰める。
「その代わり一服の最中は、報告書の中身も、明日の予定も、すべてお忘れくださいね」
「ええ、わかっていますよ」
 そうして灯里が慈愛の音色を明瞭に紡ぐから、現人神の巫女たる身はその存在強度を崩さずにいられるのだ。


First appearance .. 2022/11/20@Privatter, another name