神さまのくれたさよなら

 璃月の大通りは朝一番であろうと賑わっているのが日々の在りようであり、しかし今日に限ってはそれも幾らかおとなしい。ひと匙ぶんの静けさを切なく思うのは、自らが璃月の民であるからなのだろう。感傷未満の思いをくちに含みながら分かれ道に差し掛かったところで、ふと左目の端に見慣れた色彩。「鍾離先生?」思わずこぼれたその声は、街が普段よりも幾らか静かなせいだろうか、相手の耳にも届いたようだった。
「鈴鳴か」
「はい。明けましておめでとうございます、先生」
「ああ、おめでとう」
 父の客人であり、また鈴鳴にとっても学問の師と呼ぶに相応しい男性は、眦を緩めることで彼女の一礼を受け入れる。為政者、主君、もしくは師父のような、上に立つ者としての堂に入った所作はいかにも彼らしい。鈴鳴がそっとくちびるを綻ばせながら頭をあげると、石珀色の瞳と触れあった。
「早速店の準備か?」
「いえ、そちらは昨日で店仕舞い。いまから実家へ帰るところです」
 いままでであれば鍾離に尋ねられた通り、年が明けて早々から自らの営む店へ暖簾をかけて大通りの賑わいの一端となっていた。けれど今年はと首を振れば「ほう」鍾離の表情が僅かに変化する。興味深い、とまではいわなくとも、その理由を聞きたがる程度のささやかさ。鈴鳴は少しばかり言葉を探したのち、見つけたものへ音を乗せた。
「岩王帝君がご逝去されて、そのときにようやく気付いたんです。永遠とはこの世に存在せず、私たちは永遠を悠久と錯覚していたのだと」
 四千年もの年月は永遠にも等しかった、少なくとも人間にとっては自らの一生より長いのだからそれは永遠と相違ないものであった。けれどそれはやはり、終わりないものではないのだ。それだというのに、やがて終わるかもしれないことを、自分たちは崩御の瞬間まで考えもしなかった。
「生まれたときから在ったものは、永劫在り続けるわけではないのだと。……恥ずかしながら最近ようやくそれを知ったので、たまには親の下へ帰ろうかと」
 璃月にとっては永久の象徴であった岩神でさえ終わりを迎えるのだ、自らと同じ人間として生まれた親であれば尚のこと。有限たる生命を知覚した瞬間に内側より湧いてでた、ひと匙ぶんの恐ろしさが混ざった感情を、鈴鳴は情愛と名づけている。
「親がずっといるわけではないなんて、当たり前のことなのに。どうしていままで気付かなかったんでしょうね」
「それはお前の両親が健勝である証拠だろう。それにお前が言った通り、生まれたときから存在するものは「そこに在って然るべきもの」としてまず認識される。その認識は、悔やむほど愚かなものではない」
 無論、考えを改める機会があったのであればそれはなにより喜ばしいが。鍾離は瞳の描く僅かな曲線とともに鈴鳴へ豊かな言葉をかける、少女の頃から変わらぬひとひらに自然とこころが安堵する。彼女は昔からそうやって、鍾離に多くを教えられていたからだ。
「……鍾離先生。ちなみに、このあとご予定は?」
「さしあたっては特になにも。市場を歩き、昼からは講談を聞きにいこうと思ったぐらいか」
 見あげた人物の姿かたちは変わらない、鈴鳴が少女だった頃からひとつとして。この璃月ではそれも珍しいことではない、ここでは仙人も、半仙の者も、すべてが等しい存在として街の彩りを編んでいる。だからいままで鈴鳴は鍾離の見目の変化を気にしたことがなかったし、これからも彼の出自を気にすることはない。
「では、先生さえよければ我が家で新年会など如何ですか? 父も母も、鍾離先生が来てくださったとあれば、きっと喜びます」
 けれど、どうしてだろう。その石珀色の瞳を見つめていると、昨夜を思いださずにはいられなくて、そう言葉を紡いでいた。
 璃月では年明けと同じく歓喜に舞いあがる、岩王帝君の生誕日。崩御してなお璃月の民にとっては揺るぎない存在の生誕に感謝を捧げるその日、きっと誰もが歓びの声をあげながらも、どうすることもできないさみしさで胸が詰まっていた。
「……そうだな。邪魔にならないのであれば伺おう」
「それなら是非に。鍾離先生は、私にとって第三の父にも等しい方ですから」
 永遠にも等しく、けれどやがて彼方で果てを迎えるもの。すなわち悠久のすべてを知った、感傷と感慨の混合物。そういったものに取られた手が鍾離に甘え、微かな笑みとともに返された言葉に安堵する。彼のブーツが鈴鳴と同じ方向を捉えたから、幼かった頃のように顔を緩ませてしまった。
「ほう、お前は随分と父親が多い」
「仕方のないことです。そもそも璃月の民には、必ずふたりの父親がいますので」
 生まれたときから在ったもの、永劫在り続けるわけではない誰か。それらの傍では、鈴鳴も僅かばかり幼きへ回帰する。
「――自分の父と、岩王帝君。我ら璃月に生まれしものは、ふたりの父とひとりの母の子どもですから」
 そうしてひと匙ぶんの幼さと手を携え、日々を糸のように織ってゆく。その機織りこそが、岩王帝君から璃月の民に与えられた、きっと最後の贈りもの。だから有限たる悠久を愛おしむのだと告げる代わりに瞳を眇めれば、僅かに言葉を失っていた鍾離が微笑んだ。
「……ああ」


First appearance .. 2023/01/03@Privatter