機織り、過日より

 ううん、と背伸びをしてもなお、本棚の最上段にはぎりぎり辛うじて手が届かない。より多くの書物を収納するのが本棚の本懐ではあるのだろうが、ひとの手が届かなければ結局のところその収納に果たしてどれほどの意味があるのか。鈴鳴は誰に向けることも出来ない憤りをその身に沸々と滾らせては、その感情を爪先へ込めるちからに変えていた。
 そもそも書庫に足台のひとつも用意していないのが問題だ。次に父が娘を甘やかそうとした暁には、漆塗りで螺鈿細工の足台でも要求してしまおうか。そんな詮無いことを考えつきながら指先までぴんと伸ばした瞬間、鈴鳴の伸ばした手指の先にあった書物がいとも容易く抜き取られる。本棚へ憤ったあまり真後ろにひとがいることにも気付いていなかったようで、鈴鳴は上向けていた首ごと器用に上半身を捻って背後を振り返った。
「この本でよかったか?」
 そこには端正な男性がひとり、柔和な空気を眦と声音へ僅かに溶かした状態で立っている。鈴鳴は上半身だけでなく全身をきちんと半回転させて、差し出された本を受け取った。
「間違いありません、ありがとうございます。御機嫌よう、鍾離先生」
 鈴鳴へ古い本を差しだしたのは、『飛雲商会』の会長たる父親の客人に他ならない。父は彼へ強い敬意を払っており、今日のように彼を商談だか世間話だか人生相談だかに付き合わせるべく自宅へ招くことも少なくないのだ。
 相手は父の客人なのだから、鈴鳴の振舞いはあくまで商会の娘らしく。けれど鍾離はたびたび邸宅へ招かれており、鈴鳴や彼女の兄弟もときどきは彼と言葉を交わしていたから、間の抜けた姿を見られたところでさしたる恥ずかしさも覚えない。鈴鳴と鍾離の距離は節度あるものだったが、それでも彼女はよく理解していた。鍾離は、他家の子息子女に相対するときほど良家の娘らしい振舞いをしなくて良い人物であることを。
 だから本を取れずに四苦八苦している姿を見られていたことも、そもそも書庫の扉をきちんと閉めていなかったことも、鈴鳴は気にしていない。けれど鍾離を案内していたのだろう阿旭の呆れ顔が半開きとなった扉の向こうから見えたから、ついくちびるを尖らせてしまいそうになった。
「随分と古い本だな。歴史書か」
「ええ、少し調べたいことがあって」
 しかし手元の本に視線を落とした鍾離にそう声をかけられたから、鈴鳴は慌てて扉の向こう側から意識をほどいて首肯する。そののち僅かに思案、そっと鍾離の顔を見あげた。彼は父が頻繁に招くほど博学多才な人物なのだ、鈴鳴の求める先を知っていてもおかしくない。
 そうは思っても、あまり他に聞かれたい話でもない。視線を揺らめかせれば、その意図を察した鍾離が僅かに笑んで鈴鳴から視線をほどく。背後に向けて手を持ちあげる、その動作だけで半開きとなっていた書庫の閉まる音がした。阿旭の溜息が聞こえたような気もしたが、それは気のせいということにする。
「それで鈴鳴、お前の調べごととは?」
「……神の目をお持ちの鍾離先生には、不遜に聞こえてしまうかもしれないけれど」
「なに、かまわない」
 邪魔立てする者のいなくなった書庫でさえ囁くような声。鍾離の相槌は淡白なほど簡潔だったが、そこに冷たさを感じないのは声にあたたかさがあるからだろうか。まるで、午後の陽射しでよくあたたまった岩のうえのような。じんわりと心地好い声へ促されるように、鈴鳴はくちを開く。
「方術のことを調べていたんです。弟の友人に方士様がいて、ときどき話を聞くのだけれど、それは神の目を持たずとも魑魅魍魎を退治する術なんですって」
 弟の友人は生まれ持った体質ゆえに方術を使うことなく妖魔退治を成し得てしまう、ある種凄腕の方士なのだが、そこはそれ。彼の話を聞いたときから、鈴鳴はずっと気になっていたのだ。少なくとも、こうして自宅で埃を被っていた本を引っ張り出そうとするくらいには。
「方術は方士の家系に伝わる門外不出のものだから、文献を調べてもわかることなんて関の山。それでも、学びたいと思って。方術、そうでなくとも、人間が悪鬼から身を守るための術を」
 鈴鳴自身、そういった不可視の禍に襲われなかったことがないわけでもなかった。言葉の嵌め難い恐怖、夜の物影のなかでも一等影の濃い箇所で蠢くなにか。それに身を竦ませた瞬間、件の人物に偶然声をかけられたことで不気味な影は消失し事なきを得た。
 だが、そのときに知ったのだ。この世界には打算に満ちた人間の計略や人為的な暴力以外にも人間を襲う恐怖があり、自分たちはそれに対してあまりに無力であることを。
「成る程。方術というよりも結界術だな、それは」
 未だ骨身に残るおぞましさへ目を伏せていた鈴鳴は、鍾離の呟きに顔をあげる。「結界、術?」耳馴染みのない言葉へ首を捻れば、彼は当然のように頷いた。
「その名の通り、万物へ結界を働かせる術式だ。戦の終結とともに衰退し、現在では方術や風水にその要素が残っている程度だ。歴史書での言及はほぼないと見ていいだろう。あるとすればさっきも言った通り風水、もしくは民俗学、建築学を遡るのもいい。砦には敵を排し魔を退けるための、あらゆる手段が施されていたからな」
 そして鍾離は鈴鳴の手に乗っていた本をひょいと持ちあげると、彼女が声を出す間もなく本棚の最上段に戻してしまう。次いで長い指が虚空を僅かに彷徨い、一冊、二冊。やはり鈴鳴には届かない高さから古い本を抜きだすと、彼女にそれを差しだした。
「ありがとうございます! さすが先生、そんなことまでご存知だなんて」
「たまたま覚えていただけだ。……だが、廃れた術式の再興は決して容易ではないぞ」
 参考文献に相応しいと選ばれた本は、先ほどよりも現実感のある重みを有している。鈴鳴が両手で受け取り本の背表紙に張りついていた埃をそっと落とせば、鍾離の声もまた鈴鳴の手元に落とされた。岩陰のようにひんやりとした手ざわりに、顔をあげる。
「もし本気で学ぶのであれば尚のこと、必要な知識は多岐にわたる。史学、風水、方術、道術、美術、算術、錬金術。それらすべてを修めなければ、結界の本質を理解することは難しい」
 警告と称するほど大仰ではない、けれどそれは現実を突きつける声であった。自己満足の軽い気持ちで調べて済む程度のものではなく、それほどまでに難解であったから移りゆく時代に取り残されたのだと。
 けれど鈴鳴は、鍾離の言葉にひどく安心した。
「でもそれって、学べば誰でも出来るってことですよね」
 だって鍾離は、学ぶために神の目が必要であると告げなかった。
「じゃあ私が出来たら、誰でもやれるって証明にもなると思うんです。それで悪鬼から身を守る方法が増えるなら、それってすごくいいことじゃないですか?」
 世界には神が存在し、璃月はいまもなお岩王帝君の揺るぎない加護の下にある。けれどこの世界おいて神の目を持つ人間はごく僅かであり、世を生きる命の多くは無力な存在だ。
 でもそれは存在の弱さに胡坐を掻いて、変化を拒む理由にならない。鈴鳴は長く眠っていたせいで表面のざらついた本を胸元まで抱え込むと、どこか驚いたように目を見張っている鍾離を見あげた。
「それなら私、やっぱり学びたいです」
 言えば、やがて鍾離の瞳が眇められる。
「……ああ」
 それは、鈴鳴がいままで一度も目にしたことがない表情だった。眩しそうな、苦しそうな、嬉しそうな、切ないような、それでもとても、あたたかい。それらすべての言葉が集まってなお足りない、途方もないなにかが滲んだような。
「ならば俺も、俺の知っていることをお前に与えよう」
 けれど鍾離はその表情を浮かべたまま、そう告げたから。師と仰ぐにこれほど頼もしい相手もおらず、鈴鳴は心躍るような気分で瞳まで煌めかせた。
「はいっ! お願いします、先生!」


First appearance .. 2022/08/11@Privatter, another name