錦織の傘を差す - 2/3

 古書を読み解くことが好きならば、軽策荘に到着して向かう先はまず決まっている。切り拓かれたのちに均された崖の高く、若心の邸より更に上。かけられた梯子を登ったのち、空は庭先へ佇む人物に声をかけた。
「常九さん」
「ん? 君は、あのときの旅人か。最近、随分と客が多いな」
 気難しい印象を感じさせる男性はしかし、空に気付くと眦を僅かに緩ませる。縁あって彼を苦難から救った経緯があるからだろう、矜持の高さゆえに他者と距離を置く男性も空とパイモンには幾らか気を許しているようであった。
「どうした、こんな辺鄙なところまで」
「ちょっと聞きたいことがあって。最近ここに、鈴鳴さんって女のひとがこなかった?」
 常九は商人であると同時、古書収集家という一面も持ちあわせている。本の虫の間ではそれなりに有名な話だったようだから、古書好きが軽策荘まで足を運ぶのであれば彼の下へ立ち寄るだろうと考えたのだ。
 空が挨拶もそこそこに尋ねれば、ああ、と常九はあっさり頷く。空はパイモンと顔を見あわせると、ふたり揃って身を乗り出した。
「それって、いつのこと?」
「もう五日は前のことだ。商談のついでに、歴史書を幾つか読んで帰っていったぞ」
「うーん、じゃあ鈴鳴はもう軽策荘にいないのか……」
 それが最近の話であればよかったのだが、どうやら彼女は疾うに軽策荘を去ったらしい。それであれば、彼女は五日も軽策荘の外で野宿をしているのだろうか。悪い予感を考えずにはいられずに眉をひそめると、常九もまた怪訝そうに眉間へ皺寄せた。
「なんだ、彼女がどうかしたのか?」
「あ、いや、ちょっと急ぎの用があって。璃月に帰ってくるまで待ちきれないから、探しにきたんだ」
 常九に空は慌てて首を振り、なんてこともないように笑う。彼は先ほど鈴鳴と商談をしたと言っていたのだ、ここで彼女の行方不明を伝えては商売人同士の交渉に余計な影響を与えるだけだろう。「常九さん、鈴鳴さんの寄り道先に心当たりってある?」平静を取り繕いながら尋ねれば、彼は空の様子を疑うこともなく首を振った。
「いや、特には聞いてない」
「そっか、わかった。ありがとう」
 鈴鳴が常九へ世間話がてら趣味の話を広げている可能性を期待したのだが、どうやら世の中そう甘くはないらしい。空は常九へ頭を下げ、パイモンは彼に手を振って、軽策荘の高い位置から梯子を下った。パイモンとはそののちに顔を見あわせて溜息ひとつ、ひと探しは振りだしへ。
 やっぱ地道に探すしかないか、史跡巡りが趣味なら遺跡を探していったらいいかもね。次の行き先を決めながら軽策荘の表門をくぐり抜ける、その一拍のちに足を止めて思わず背後を振り返った。見知った景観のなか、そこに溶け込まない色彩を見つけた気がしたのだ。
「おや、ふたりとも。こんなところで会うだなんて、奇遇だね」
「ゆ、行秋!? なんでここにいるんだ!?」
 色鮮やかな錦の如き華やかさと品位が、少年の姿を形取って存在している。行秋とはそのような印象を与える人物で、彼は中空で仰け反った勢いのまま引っ繰り返ったパイモンにも上品な笑顔を向けていた。
「常九殿の古書を読ませてもらいにきたんだ。彼しか持っていない蔵書が、案外多くてね」
 しかしにこやかな少年が見た目通りの印象だけを持つ人物でないことを、空とパイモンはよく知っている。空はパイモンが引っ繰り返るほど驚いたせいで取り戻した冷静さを顔の前面に貼りつけながら、少し前のことを思い返した。そういえば常九は「最近、随分と客が多い」と言っていた。来客が鈴鳴と空たちだけなら、そのような言葉が漏れることはないだろう。つまりあのときから、自分たち以外の来訪者を考えておくべきだったのだ。
「それで、君たちこそどうしてここに?」
「……ちょっと、探しものを」
「へえ、それなら僕も付きあおう。人手は多いほうがいいだろう?」
「いや、大丈夫。すぐ終わるから」
 普段であれば行秋の誘いを断る理由もなかった、けれど今回ばかりはそうもいかない。なにせ彼は、避けるようにと懇願された飛雲商会の関係者なのだから。下手に目を逸らしたらそのほうが怪しまれそうな気がして、空はにこにこと微笑む行秋を見据えながら首を振った。
「そう? 行方不明者の捜索は人海戦術が基本だと思うけど」
 行秋は至って上品に微笑みながらさらりと言い、空は不自然に固まりかける身体を必死で宥める。これは果たして悟られているのか、探りを入れられているのか。「行方不明者?」空が呆ければ、行秋が笑みのかたちを僅かに変えた。
「君も小間物屋の店主を探しにきたんだろう。大方、飛雲商会の人間には知られるなって言われたんじゃないか?」
 飛雲商会の次男坊らしい品のある微笑から、義侠心と好奇心に溢れる少年の笑みへ。空の友人として最も彼らしい笑顔を寄せられたから、空は白旗を挙げる代わりに余分なちからの篭もっていた肩を落とした。
「全部お見通しだったってわけか」
「いまに始まったことじゃないからね。なに、知られたのが僕だったからまだましさ。少なくとも、これ以上知られることはない」
「じゃあ行秋、黙っててくれるのか?」
 行秋の言葉にパイモンがほっと肩を撫で下ろしながら首をかしげ、「もちろん」と軽やかに頷かれる。いまは空の友人として行動をともにしてくれるようだったから、これほど心強いこともない。それじゃあ探しにいこうと三人で頷きあったのち、空はふと首を捻った。
「……そういえば、行秋はどうして鈴鳴さんを探してるんだ?」
 小間物屋の店員に頼まれた空たちはともかく、事実を伏せられていた飛雲商会の次男坊にそれを知る所以はなかったはずだ。それだというのに行秋は鈴鳴の不在にいち早く目をつけ、軽策荘まで先んじている。
 それこそ、彼女と商談でもしようとしていたのだろうか。空の向けた疑問に、行秋はそっと瞳をほどいた。
「それは、彼女を見つけたら説明するよ」