花のわだち

 港で受け取った荷で両腕を満たし、軽い足取りで自宅へ戻る。小さな工房を孕んだ、ささやかだが満足のいく仮住まい。場所を与えられて間もなくは恐縮したしそわついてもしまったが、三日も住めばそこが最たる都となる。故郷の稲妻と並ぶ安寧の場所はもう目前、雛子は古めかしく趣きのある扉に向かって駆けだした。快晴につられてか浮ついた心地は、短い距離でもおとなしくしていられない。
「たっだいまー!」
「おかえり。その様子だと、稲妻からの荷物は無事届いていたようだな」
「うん! あと市場でお買い物してきたんだ、今日のご飯の材料」
 小走りの勢いもそのまま乗せて扉を開く勢いはやや強め、けれどなかで寛いでいた人物は開いた扉の騒音もなんのその。長椅子に腰を下ろして優雅に読書をしていた人物の傍で腕の荷を下ろせば、彼はなに食わぬ顔を装って紙袋の中身へ目を向けた。
「もー、お魚は買ってきてないから大丈夫だって。今日は三鮮! あともち米買ったから、これと鶏でおこわにしようかなって」
「む、そうか」
「そうだよ、一緒に美味しく食べれないご飯って嫌だもん」
 頭がよくて、なんでも知っていて、武芸の腕も超一流で、璃月の仙人さえ敬意を払う。きっと偉大なのだろう彼は、それでも魚や蛸や烏賊が苦手だなんて一面も持っている。雛子にとってはそれが微笑ましかったし、彼を身近に感じられるから、そんな姿がけっこう好きなのだ。
 視線の意図を先取りして笑うとどことなく気恥ずかしそうな、それでいて一安心したような声で頷くから、ついついこぼれた笑みは深まるばかり。でも雛子は焼き魚も海鮮丼も好きだから、そういうご飯は彼が出かけている間にひとりで楽しむことにしている。
「で、これが本命! お姉ちゃんからの手紙!」
 食材を手早く台所へ仕舞ったあとは、緋櫻毬の花びら模様が添えられた封筒をいそいそと取りだして掲げてみせた。やや大げさに動いてみせれば、笑うみたいに瞳がたわむ。彼は難しい言葉のたくさん並んだ本に栞を挟むとそれを脇に置き、長椅子へ手のひらをぽんと置いた。
 おいでの仕草をもらわなくとも座るつもりだったけれど、そうしてもらうとやはりこころは弾むもの。「お邪魔しまぁす」顔を緩ませながら隣へ滑り込み、故郷からの手紙の封を切る。
「……あー、どうしよう緊張する! 駄目って書いてたらどうしよう!」
「そのときは姉君を説得するか、また別の手を考えるか。安心しろ、やれることはまだ幾らもある」
「そうだけどぉ!」
「それでも不安なら、俺がお前に代わって読みあげようか」
「駄目、私が読む! 鍾離さんは私のこと応援してて!」
 そうして封筒を開けたは良いものの、すぐさま目を落とせるかどうかはまた別の話。三つ折りになった便箋を開けず足をばたつかせれば、黒い手袋に覆われた長い指がすっと横から差しだされた。優しさ、あとはちょっと面白がっているみたいな。笑みを含んだ声は、雛子が断るとわかっていて投げられたもの。その戯れでどきどきするこころを宥めながらも自らを奮い立たせ、えいやっと便箋を大きく開いた。
「えーっと……『拝啓、雛子殿。此度は素敵な報せをありがとう、姉として貴方の良縁と幸福を大変喜ばしく思います。店のことは心配しなくとも大丈夫、弥生漆器の四代目当主は私なのですから。後進の育成と後継者の選定は私の務め、貴方はまず璃月へ留学した意義を存分に果たしなさい』……だって!」
 姉からの手紙をつらつら読みあげ、その途中で思わず顔をあげる。緊張の早鐘はいまや幸福な興奮に様変わり、嬉しくて鍾離を見あげれば彼も柔らかく眦を緩ませて「ああ」と頷いた。言葉は短い、けれどよくわかる。彼もいま、とても喜んでくれている。
「『ただし、留学したのち稲妻へ戻るのか、璃月へ残るのかは重要な選択です。どちらでもかまいませんが、弥生漆器の今後にも関わるので、その点については一度きちんと話しあう機会を設けましょう』」
「相伝の店と技術を持つ者としては当然だな。そのときは俺も同席しよう」
「お願いします! 璃月に残るならたぶん暖簾分けするかどうかって話だもん、作るのはともかくお店の経営の話されたら絶対こころ折れて帰ってくるよ……」
「その厳しさも、郷里を離れて生きることになるお前を思ってのことだ。姉君からの愛だろう」
「わかってるけどぉ」
 家のなかには雛子と鍾離のふたりしかいないのに、手紙を読んでいるせいだろう、まるで姉もそこにいるかのよう。稲妻国でも由緒正しい伝統文化の一端を担う『弥生漆器』を若くして継いだ姉の七月は、雛子とは真逆の生真面目さや冷静さの持ち主なのだ。
 雛子にとっては姉であると同時に上司でもある存在だ、仕事の話をされたら嫌でもおっかなびっくりになってしまう。だから、いつも頼りになるけれどこういう話題となれば殊に頼り甲斐のある人物へ、雛子は服の袖を引いて泣きついた。いわゆる「難しい話」は苦手なのである。
「それで、続きはなんと書いてあるんだ?」
「えーっとねぇ、『婚儀にはもちろん出席します。ただし店を空ける準備があるから、時期がわかり次第一報を頂きたく。貴方の嫁入り道具は準備しておくから、いつでも取りにいらっしゃい。旦那様とのご挨拶もそのときに』」
 縋りついた雛子の手を包み込んで宥めながら続きを促す鍾離に従い、片手で握り締めた手紙を読んでゆく。連なる文字を読む声が少しむずついてしまったのは、照れくささが頭の天辺から背骨までを駆け抜けたからだ。見て、読んで、聞いたから。やがて迎える事実とはいえ、こころがどうしてもむずついて浮ついた。
「……旦那様だって!」
「ああ、間違いない」
「そうだけど! そうですけど! 旦那様ってなんかすごくない!?」
「それを言ったら、お前は俺の奥様になるんだぞ」
「奥様! 奥様だって!! どうしよう!」
 そう、やがて自分は彼と結婚するのだ。雛子は実家でもある『弥生漆器』の職人であり姉の庇護下で璃月へ留学をしているために姉の許可を得る必要があったけれど、それも無事に降りたから、元より準備していたことが一層現実味を増してしまった。おかしそうに笑う鍾離の言葉になんだか爆発しそうな衝動、包まれた指を動かして彼の手をぎゅうっと握り返す。
 声を大きくしていなければどうにかなってしまいそうな感覚に身もだえてしばし、鍾離はそれを宥めるでもなく瞳を眇めて眺めている。どうやら彼は自分のこういうところを楽しんでいるようで、その瞳のあたたかさが更にむずむずとした思いへ拍車をかける。おとなっぽくて大層おとなの鍾離と釣りあうようにと雛子も淑女らしい立ち振舞いや落ち着きを身に着けようと努力はしているのだが、成果はまだ生まれそうになかった。
「……ん? 雛子、二枚目もあるようだが」
「へ? あ、本当だ」
 そわつくこころを鎮めたのはやっぱり鍾離の声で、ちょっとの皺を生みながら片手で握り締めていた手紙をめくるべく彼と結んでいた指をほどく。綴られていた文字は決して長くはなかった、けれどそれに雛子は自然とくちびるをほころばせた。
「……『それと、旦那様へ是非お礼を伝えておいてちょうだい。貴方みたいな跳ねっ返りをお嫁にしてくださるなんて、さぞ寛容な方なのでしょう。貴方も旦那様から頂いた愛情に報いられるよう、今後は職人としてだけではなく、ひとりの女性としても恥じない振舞いをこころがけるように』」
 自分への激励とは別に、鍾離に傾けられた言葉。それが嬉しくて、くすぐったくて、手紙の向こうへ胸を張りたくなってしまう。姉が想像した通り、鍾離はとても優しくてこころが広いのだ。緩んだ頬はすぐさま引き締まるはずもなく、雛子はゆるゆるとした顔をそのまま鍾離へ向ける。
「鍾離さんっ。私を奥様にしてくれて、ありがとう」
 お礼を伝えておいてちょうだい、という言伝は、きっとこういうことではないのだろうけれど。伝えたくなった衝動のままに愛を告げれば、緩んだ頬が鍾離の長い指にそっと撫でられる。それは雛子が知るなかで最も慈しみに満ちているから、鍾離に触れられることが大好きだった。
「礼を言うのは俺も同じだ。俺を伴侶に選んでくれて、ありがとう」
 婚儀に関しても、俺の要望を聞いてもらってばかりだしな。囁くような声に、ふるふると顔を左右に揺らす。「いいんだよ、私もそうしたいって思ったんだから」感じていることを加工しないまま音と混ぜ、鍾離の指越しに自分の頬を自分で撫でる。ちょっともちもちしているから、引き締めたほうがいいのかしらん。ときどきそう悩むのだが、鍾離は手持ち無沙汰に雛子の頬をもちもちすることがあるから、スキンシップ欲しさで結局そのままにしている。
「私、璃月の文化とか伝統とか慣習とか、知らないことも多いもん。鍾離さんがこうやって教えてくれて、一緒にやってくれるの、嬉しくて好き」
「……そうか」
「そう!」
 やや大仰なものになるが、婚儀は璃月に古くから伝わる形式に則りたい。雛子の思いつきや我儘を叶えることの多い鍾離からのその提案は、ただそれだけで雛子にとって大層喜ばしいものだった。璃月の歴史に明るい鍾離が自身の愛するものの内側に異邦人たる雛子を招いてくれるのであれば、尚のこと。そのため姉が頷いたなら、婚儀は古式ゆかしく執り行おうということだけは決めていたのだ。
 明日からは結婚式の準備を本格的に始めることになるだろうから、食事のあとにでもやるべきことと手伝えることを聞いておかなければ。そう気合を入れ直した雛子は、あっ、と過ぎった閃きを追いかけた勢いにあわせて声を漏らした。
「どうした?」
「私、結婚式で一個やりたいことがあるの! もちろん、出来そうならでいいんだけど」
 唐突な音も鍾離は容易く受け止めるから、雛子はいつもみたいに思いつきをくちにする。旅人くんに教えてもらったんだ、と鍾離の友人でもあるという稲妻の英雄の名を伝えると、鍾離の瞳が少しの幼さを帯びて丸まった。
「他の国では、結婚式で花嫁が四つのものを身に着けたら幸せになれる、って言い伝えがあるんだって。サムシング・フォーって言ってたかな? それ、やってみたいなって!」
「成る程。その四つのものとは、どういうものだ?」
「えーっとね……古いもの、新しいもの、借りたもの、青いもの、だったかな。それって、どう? 璃月の結婚式と一緒にやって矛盾しない?」
 かの旅人は稲妻に留まっていれば終ぞ聞くこともなかったであろう話に詳しく、「お姉ちゃんにいいって言ってもらえたら結婚するの!」と世間話の合間に近況報告をすると、一足早い祝福とともにそんな言い伝えを教えてくれたのだ。
 長く伝わる伝統にそういったものを混ぜ込むのはよくないかもしれないから、鍾離が少しでも悩む素振りを見せれば思いつきは撤回するつもりだった。けれど彼は眉根を寄せることもなく、長い指を顎に引っかけることもなく、瞳のかたちだけでくっきり笑う。
「ああ、問題ない。……いかにもお前らしい話だ、ならばそのサムシング・フォーもともに行おう」
「やったあ、ありがと鍾離さん! じゃあ結婚式の準備と一緒に、それも探したいな! 「古いもの」とか「借りたもの」とか、どうしたらいいかなぁって悩んでたの」
 絵付けの技法を学び璃月の技術を自らの工芸品へ落とし込む傍ら、気分転換と思いつきで作った置物を手に取ったときと同じ顔。周囲からは「技術の無駄遣いだ」といわれることも少なくないものを、鍾離はいまみたいな瞳で眺めては褒めてくれる。どんな思いがあるからそんな顔になるのかは雛子にはわからないけれど、そのとき鍾離は決まって「お前らしい」と言うから、その表情は自分のことを好きだと思ってくれているときの顔、と認識していた。
 鍾離はそんな顔で笑って雛子の思いつきをまた受け入れるから、やっぱり彼はとても優しくてこころが広い。頬に触れている手のひらを両手で握り締めながら首を傾けると、戯れとして頭の位置を戻された。
「ふむ……そもそも婚礼衣装を仕立てるから、「新しいもの」はそれでいいだろう。「青いもの」は、お前さえよければ俺に任せてもらえないだろうか」
「いいの? 私の神の目もあるけど」
「ああ、俺に心当たりがある」
 雛子が鍾離から指をほどいて紺碧のひかりをかちゃりと鳴らすが、鍾離のなかでは既に最良の青が見つかっているらしい。それならもちろん、彼の選んでくれたものが嬉しいから。「じゃあ青いのは鍾離さんお願いします!」深々と頭を下げれば「ああ、お願いされた」鍾離も同じように頭を下げ返してくれた。
「次に「古いもの」だが……それは骨董品の類ということか?」
「ううん、親とかおばあちゃんとかからもらったものって言ってた。稲妻に戻ったときにあるか聞いてみてもいいんだけど、それだと仕立ててもらうお洋服と喧嘩しちゃいそうで」
 雛子が頭を悩ませているのはまさにその一点、分野は違えど芸術家の端くれなのだからそういったところには妥協をあまりしたくないのだ。「鍾離さん、おじいちゃんとかからもらったものって持ってたりする?」そう尋ねるが鍾離はなんとも渋い顔で「いや……生憎、そういったものは持っていなくてな……」と首を振った。彼にしては珍しいくらい眉間に皺が寄っていたから思わずそこを揉みほぐす。鍾離の眉間はすぐすべすべに戻った。
「うーん、どうしよう……。友達に「ちょっとだけ貸して!」ってお願い出来るものでもないしなぁ……」
 しかし今度は雛子が眉根を寄せてしまったから、自分で自分の眉間を撫でさする。やっぱり早めに稲妻へ戻って実家を探してみるべきか悩んでいれば、ふわり、風の動く気配。悩むついでに閉じてしまった瞼を持ちあげれば、鍾離が長椅子から腰を上げていた。
「いや、妙案かもしれないぞ」
「えっ、そう?」
「ああ。どのみち「借りたもの」も必要だしな。少し外を散歩しよう」
 もしかすると、思いがけない縁に出会えるかもしれない。彼が微笑んでそう告げると、まるで本当にそうなってしまいそう。悩んでいたこころがふわりと浮きあがったのを感じながら、差しだされた鍾離の手のひらへ指を重ねてその身もふわり。お散歩デートだ、と顔を緩ませれば、鍾離の眦も一緒に緩んだ。

 再び繰り出した璃月港の賑わいは相変わらず、時間が経ったぶんだけ一層華やいでいるくらい。特に約束をしてもいなかったから、友人に出会えるかどうかはまさしく縁次第。そのため雛子は気分転換くらいの感覚で鍾離に並んだ。彼の歩幅にあわせて歩くことが楽しくて、足取りは一際に軽やか。跳ぶように歩いていると鍾離が歩調を緩めたから、調子の変わった足首がむずむず。ささやかな思いやりに、くるぶしがくすぐられてしまった。
「あら、雛子やないの。今日はデート?」
「鶯さん! そう、今日はふたりともおやすみだからお散歩デート中!」
 爪先をとんとんしていると横から不意に聞き慣れた声が注がれて、雛子は顔をあげながら笑顔を返す。留学の理由や自らの持つ技術も相俟って『春香窯』の鶯とは親しい間柄であったし、彼女は雛子が璃月で最も世話になっている相手のひとりだった。
 鶯への返事にあわせて隣を歩く鍾離の袖を抱き締めれば、「あらあら、お熱いことやねぇ」微笑ましいといわんばかりの柔らかい声。それに笑みを深めていると、鍾離の袖をつかんでいた指がくすぐられた。
「雛子。彼女であれば、相談相手にもちょうどいいんじゃないか」
「あっ、ほんとだ。ねえ鶯さん、ちょっとだけ相談したいことがあるの」
 つい世間話に興じようとしていたが、鍾離の言葉通り彼女であれば相談先にも打ってつけ。身体を通りの端に寄せながら鶯の顔を覗き込めば、急ぎの用があるわけでもなかったのだろう、彼女はいつもみたいに「はいはい、どしたん」と笑って雛子のすぐ傍にまで歩を進めてくれた。
 斯く斯く云々、そうして彼女へ事情を説明。婚儀のために探しものをしているのだと伝えれば、鶯はその表情をほころぶ花びらのように華やがせた。
「へえ、素敵やないの。ウチのでよかったら、耳飾りとか紅とか貸したげよか?」
「いいの!? やったぁ、鶯さん大好き!」
「そういうの恋人の前で言うんはやめとき。ただ、ウチも親から結婚式のもんはもらってへんからなぁ。その「古いもの」言うんはお手伝い出来なさそうやけど」
 お願いごとへのふたつ返事どころか、お願いごとをする前に鶯のほうから好意の提案。歓喜のあまり彼女の両手をぎゅうっと握り締めれば、窘める言葉とともに指がやんわりほどかれる。慌てて鍾離を振り返れば「他意がないことくらいはわかっている、気にしなくていい」と苦笑された一方、鶯には「あんま雛子のこと甘やかしたらあかんで」と釘を刺されてしまった。
「うーん、やっぱ「古いもの」って難しいよねぇ。軽策荘でルーじぃさまにでも相談してみようかなぁ」
 しかしお洒落上手な鶯でさえ持っていないとなると、はてさてどうしたものだろう。仕事柄親しくなった建築士の大御所か、はたまた香菱や辛炎に相談してみるか、璃月の伝統と服飾の話なのだから雲菫を頼るのもいいかもしれない。もしくは港で稲妻からの船を待つ間に仲良くなった商人たち、荷下ろしを手伝いながら世間話をすることの多い水夫に相談してみたっていい。腕を組んでうんうん悩んでいると、くすり、軽やかな笑い声が鼓膜を優しく撫でた。
「その様子なら大丈夫そうやね」
「えーっ、どうして? 鶯さん、誰か思いついたの?」
「そういうわけやあらへんよ。でも「誰に頼ろかな」て考えてて思い浮かぶ相手が、そないにぎょうさんあるんやから。それだけ自分らと仲ようなってくれた子、璃月人が見捨てるわけあらへん」
 鶯の言葉に、はっと思いだす。雛子が璃月へ留学にきて間もない頃からいま現在に至るまで、確かにそれは、幾度となく彼女へ与えられていた。
 異国の地で生活を始める雛子の面倒を鶯はよく見てくれたし、留学に関する入国査証の発行や総務司への提出には璃月一の法律家と名高い煙緋が助けてくれた。璃月の美食は卯師匠に教わり、最初は食べ慣れなかった香辛料に舌を焼いていたら偶然隣で食事をしていた重雲と行秋が月菜を教えてくれた。香菱と親しくなったのは、彼らを介してのことである。
 石商とは絵付けに用いる鉱石の審美で盛りあがってから親しくなり、いまやお互いお得意様。港で船を待つことも多いから魚売りの孫や高とも仲良くなったし、最近では『死兆星』号の船員ともお喋りをすることが増えた。
 璃月の民は契約を重んじる。けれどそれ以上に、彼らは人情を重んじる。打算なき他者への情けがあるからこそ報いらんとするこころが生まれ、人情への誠実さが契約の基盤となる。それは、雛子が璃月へ留学してから最も学んだことだった。
「……うん、そうだね。私、そのお陰でいっぱい助けてもらったもん」
 ひとつひとつを思い返せば胸のうちがあたたかく、また助けてもらっちゃうんだなぁ、と、これまでと繋がっているこれからを噛み締める。くちびるをきゅっと引き結んでいれば、肩をそっと抱き寄せられた。雛子が知るなかで、一番あたたくて優しい手。
「そう恐縮する必要はない。甲斐がなければ、ひとは二度も三度も相手を助けはしないだろう? それだけ周囲に助けられたのであれば、それは多くの者にとって、お前は助けるに値する存在だということだ」
「……そうかな?」
「ああ」
 鍾離の言葉に、少しだけ丸くなりかけていた背筋が自然とまっすぐに戻っていく。彼がそう言うならそうなのだ、と無条件で信じられるから、雛子はまたその表情をやわやわにしてしまった。それすなわち、鍾離にとってもこうして言葉を傾けて助けるに値する存在なのだから。注がれた愛情が背骨から天辺にまで届いて、耳の奥まであたたかい。抱き着いて愛を叫びたくなる思いをぐっと堪え、代わりに鍾離へぴったり寄り添った。
「うん、なら未来でたくさん恩返ししないと!」
「そう言うてくれるからお手伝いし甲斐があるんよねぇ。先生の言う通り、みんなも同じ気持ちやと思うわ」
 せやから頑張り、と手を振ってくれる鶯に手を振り返して彼女と別れ、鍾離に身を寄せあいながらまた歩きだす。そして彼の袖を軽く引き、歩きながら背伸びをした。
「恩返し、一番は鍾離さんにだからね。いっぱい返される準備して待ってて!」
 つまるところ、それは愛の循環に違いなく。大好き、に代わってそう愛を伝えれば、鍾離は目を丸くさせたのちに、その瞳をくっきりと笑みのかたちへ変えた。
「……ああ。楽しみにしている」
 それは辛炎と雲菫に声をかけられる、少し前。古きも新しきも、ひとの縁からも祝福を注がれるまでの幕間の出来事。


First appearance .. 2023/02/11@Privatter