戦場の金糸雀 - 1/2

 日も暮れて疾うに経ち、戦の気配も遠退いた頃。珊瑚宮にて報告を済ませ戦線維持のための策を預かったのち、望瀧村へと足を向ける。小さな村には抵抗軍の拠点が設けられており、ささやかな造りの門を潜れば見張り番を務める兵士から敬礼を向けられる。それにゴローは「ご苦労」と労わりを返し、望瀧村のなかでも最も大きな民家の前で足を止めた。
「ゴロー大将! こんな時間までお疲れ様です」
「ああ。お前こそ、遅くまですまないな」
 医療兵営の前に立つ兵士はゴローの労いに表情を和らげながらも「それが自分の務めですから」と胸を張り、その姿にゴローも眦を僅かながら緩ませる。前線から離れた拠点ではあるが、彼らはここが真実最後の砦であることをよく理解していた。
「瀬名殿は?」
「中におられます。いまの時間なら、ちょうど部屋を回っている頃かと」
 ゴローが医療兵営に立ち寄った理由を問えば、見張りを務める青年は広い民家へ目を向ける。部屋の多くから漏れている明かりを捉えたのち、ゴローはそうかと頷きその場へ佇む。彼が縁側へ上がろうとしないからだろう、兵士の瞳が篝火の下で丸くなった。
「……行かずともよろしいのですか?」
「俺が立ち入って邪魔をしては、瀬名殿にも兵士たちにも悪いだろう」
「大将が顔を見せてくだされば、みな喜ぶでしょうに」
 彼はゴローの言葉にこころからそう返して苦笑する、ゴローも兵士たちが自らを無碍に扱うようなこころない者ではないことを理解している。けれどまた、同時に知っているのだ。傷を押さえ、遣る瀬無さや不甲斐なさを噛み締めながら治療のためその場に留まるしかないときの、擦りきれるような思い。それを抱えている瞬間に湧きあがる、拭いようのない惨めさ。あれを携えて他者と相対するのは、自らの認識以上に精神力を浪費する。それは治療に専念する兵士たちの負担にもなってしまうものだ。
 それに、ゴローは耳が良い。表に立って瞳を伏せていれば、傷を負った兵士たちの声は風に乗って自然と彼の下に届く。
 ――瀬名さん、聞いてくれよ。俺、明日からようやく復帰するんだ。長い間本当にありがとう。いいえ、大したことはなにも。元気になったのは、偏に貴方の忍耐と努力ゆえ。貴方はご自身のちからで回復されたのですよ。
 ――ねえ灯里さん、ぼくはいつ戻れるんだろう。このまま二度と起きあがれなくなるのかな。いいえ、そんなことはありません。こうして辛抱強く治療に専念しておられるのです、苦い薬も毎日飲んでおられるでしょう。傷は確実に治っています、きっとすぐに立ちあがることが出来ますよ。
 ――なあ瀬名さん、おれは怖いよ。また幕府軍と戦わなくちゃならねえ。自分で決めたことだけど、剣が、槍が、血が、悲鳴が、怖いんだ。ええ、ええ、怖いなかでも戦ってくださった貴方は私たちの誇りです。貴方が怖いと教えてくださるから、私たちは血に酔わずにいられている。前線以外にも戦いの場はたくさんあります、明日将軍へご相談に参りましょう。
 草木の揺れる音のなかに混ざる声は、最前線と同じだけ現実に打ち震えている。活気も、不安も、鼓舞も、恐れも。すべてが入り混じっているのだから、ここも最前線と相違なく戦場だ。ゴローが人知れず息吐いたしばらくのち、縁側の床板が微かに軋む。伏せていた瞳にかかった瞼を上げれば、草履を履いた人物が彼に気付いてその瞳を瞬かせた。
「ゴロー将軍。如何なさいましたか?」
「ああ、いや。薬が急ぎ入用だと報告があっただろう。原料を幾らか調達したから、渡しておこうと思ったんだ」
 ゴローが携えていた荷物を軽く示してみせれば、灯里の表情がほころぶ花のように華やぐ。「ありがとうございます!」礼節を弁えた彼女らしからぬ声量で音が響いたのは、それだけ物資が足りていないからだ。歯痒さが腹のうちに滲む、けれどそれを表に出さないのがゴローの務めだ。彼は小さく首を振ると、荷を受け取ろうとする細腕を制した。
「大した重さじゃない、俺が運ぶ」
「ですが、こんな時間まで」
「それは瀬名殿も同じだろう」
 灯里は申し訳なさそうな表情で食い下がるが、それはゴローとて同じ。「前線基地には明日戻る予定なんだ、気にしないでくれ」蛙の鳴き声すらやむ時間にまで、彼女は兵士たちにこころを砕いてくれている。それは、真実彼女にしか出来ない役目だった。
 ならばせめて荷物運びくらい、大したことでもないのだから。ゴローが灯里を見据えてしばし、彼女はやがてその表情をほころばせた。
「……それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」
 ありがとうございます、ゴロー将軍。囀る小鳥のような甘い声に、ゴローは眦を緩ませた。

 医療兵営としている場所も民家でしかないのだから、歩く距離も僅かなもの。けれど自然と歩調が緩められたのは、自分が将軍の立場にあり、彼女が医療兵営の多くを取り仕切る存在だからなのだろう。
 主だった報告は珊瑚宮を経由して受けているが、ここにいる者の多くはゴローの部下だ。治療を受けている者は皆、抵抗軍の旗印たる心海と大将たるゴローの指揮の下でちからを振るっているのだから。本来であれば彼らひとりひとりと言葉を交わしたい、けれど前線の状況は常に予断を許さないためにゴローへその時間も許さない。
 だからせめて、彼女と言葉を交わすのだ。傷を負い後衛へ下がった者は、誰もが灯里の言葉を受け取るから。
「……わかった。あいつは足が速く、状況にあわせて柔軟な判断と対応が出来るやつだ。それなら補給地点と拠点の物資輸送に回ってもらおう」
「ええ、是非に。明日の明朝、改めて将軍の下へ参ります」
 前線の血煙を恐れる兵士への進言に頷いたのち、ゴローは微かに息を吐く。「いつもすまない」不甲斐なさを悔いるように告げれば、彼の半歩後ろを進んでいた灯里が微かに首をかしげてみせた。
「誰も彼も、瀬名殿に話を聞いてもらいたがるだろう」
「いいえ、これくらいのこと。それでみなさんが前を向けるのなら、喜んで」
 灯里はゴローの言葉に対して軽やかに微笑むが、彼女の行為は「これくらいのこと」と表現されるに留まらない。それはゴローとて、身に染みるほどに知っている。彼もまたチンアナゴ二番隊の一兵卒だった頃、この医療兵営で灯里の治療を受けたのだから。
 ――貴方の勇気が、私たち全員を救ったのです。多くの命を背負って戦った貴方の強さが、私たちの最もたる誇り。だから悔やまないで、胸を張ってください。貴方は私たちに、希望をくれたのですから。
 起死回生の一手を打ち、それが心海と繋がったからこそチンアナゴ二番隊は絶望的な状況からも生還を果たすことが出来た。けれど隊長は幕府軍との戦いで命を落とし、多くの隊員もまた志半ばで朽ち果てたのだ。傷の痛みとともに失った命を悔やむこころを吐露したとき、ゴローの包帯を替えながら灯里はそう告げたのである。
 それ以来、彼女の言葉はゴローを奮い立たせるひかりの粒となった。隊長となり、将軍となり、常に凛然とかまえ兵士たちの士気を高めなければいけないゴローの闘志を支えていた。「貴方の勇気が、私たちを救ったのです」辛酸を舐めて戦う意志がひび割れそうになったときも、彼女の声がゴローに弓を握らせた。
「だが、毎晩遅くまで兵の話を聞くのは大変じゃないか?」
「大丈夫ですよ、休む時間は充分頂いていますから」
 それはまた、ゴローにとってだけではない。彼女の言葉は不思議なほどに耳に響き、胸のうちにまで届くのだ。灯里の称讃は戦う者の意志を補強し、彼女の労わりは孤独のなかでこころを導くひかりとなる。
 だから怪我を負ったものは彼女に大丈夫だと言ってもらいたがる、そうすれば本当に大丈夫になるから。だから戦線へ戻る兵士は彼女に背を押してもらいたがる、それは苛烈な戦いを生き抜くための導となるのだから。
 彼女が医療兵営のなかを毎夜見回るのはそのためだ。傷を介して心身を蝕む不安という外敵から、彼女は多くの兵士を守っている。
「……それでも、瀬名殿も不安を覚えることはあるだろう」
 灯里は自らに求められている役割を正しく把握し、その役目を果たすべく立ち回っている。けれどゴローが苦い現実でくちのなかを汚されるように、不安定な戦線を支える灯里も常に前向きではいられまい。彼女は特に拠点の一角を取り仕切っていて、日に日に失われゆく兵力と枯渇した物資の現状を把握しているのだから。
 物資を保管している部屋の前で足を止めれば、灯里もゴローと同じように歩みを止める。夜を薄らと照らす程度の弱いひかりのなか、彼女はただ微笑むだけ。けれどその微笑の淡さにゴローは息を飲み、目を伏せ、一度だけ呼吸をした。
「……いや、すまない」
 灯里はゴローが認識している以上に、自らの務めを果たしている。生まれずにはいられない不安も、恐れも、すべてふさいで、兵士たちを鼓舞する存在としてその振舞いを徹底していた。
「これは、瀬名殿への侮辱だな」
 覚悟のうえで自らの振舞いを決定づけた彼女から不安を無理やり引きずりだそうとするのは、ゴローの我儘だ。彼女であっても覚えずにはいられない不安を吐露しあって分かちあいたがろうとする、己の弱さに因る行動に他ならない。
 自らの未熟さを悔いて首を振ると、灯里がそっと笑みを深くする。「いいえ、なにが侮辱になりましょう」弱さを許す声は、やはりゴローに優しかった。
「ゴロー将軍は、私を心配してくださったのですから」
 でも私は大丈夫です、貴方がこころを砕いてくださったんですもの。夜にほころぶ花のように、灯里は柔らかく笑んでそう告げる。その彼女の言葉にまた救われながら、思いを改める。早く彼女が喜怒哀楽のすべてを衒いなく囀れる日々となるように、抱く願いを瞳とともに奪われぬようにと。
 そうして願うからこそ、ひとは強く在れるのだから。