ロマンティック・ナイト

 ベルを鳴らして扉を開けば、喧噪を縫うようにして刺さる視線。その瞳の不躾さにも慣れてしまったけど、うんざりする気持ちが消えないわけじゃない。この国へ干渉を試みているのはファデュイという組織であって、私個人じゃないというのに。顔色を覗き見るような目線の無礼さを一瞥で追い払うと、カウンター席の最奥に腰を落ち着けた。悲しいかな、そこに小さく収まるのが私のお決まり。
「いらっしゃい、ご注文は?」
「赤ワインを頂けるかしら。あと、ナッツの蜂蜜漬けも」
「はいよ、少々お待ちを」
 バーのマスターが真っ当な接客をしてくれるのが数少ない救い、けれどそれも愛想は薄い。モンド人ってのはどうしてこうも、能天気でお気楽なくせに敵へ敵意を向けることだけは一丁前なのかしら。そんなこと、異邦人の私がくちにしてしまえば外交問題待ったなしだから、間違ってもそこに音は乗せないけども。
 冒険者協会の人間は様子を窺うように、西風騎士団に属する者は警戒の色を光らせながら、吟遊詩人でさえ僅かに背を向けて。疎外感というより、異物感と称したほうが相応しい感覚に苛まれるなかでさえ、サーブされた美酒の味は血潮にまでよく染みた。
 あとはこの不躾さを紛らわせるなにかさえあれば、溜飲も下げられるのに。この店でときどき出会うクールなシスター、もしくは。吐息をこぼした瞬間、軽やかに鳴るドアベル。その音が少しひやりとしていたから、私のこころは少しだけ華やいだ。
「お、パウラじゃないか。久しぶりだな」
「私はしょっちゅうここにきてるわよ。久しぶりなのは貴方のせいじゃないかしら、ガイア」
「はは、そいつは失敬」
 床板を微かに鳴らすブーツの音、鼓膜に蕩けるような声。神経の端にいちいち触れてくるような視線をすべて夜の空気のなかへ散らして、私の隣に座るひと。眇められる隻眼の冷たさはちょうどよくて、喉に詰まっていたような心地の悪さも吐息に混ざって霧散する。
 ガイアがマスターから彼のお決まりを受け取れば、どちらからともなくグラスのふちを重ねあわせる。ファデュイはどこへ行っても顔をしかめられる、けれどここに通うのは、彼やクールなシスターと一夜を交わしたいから。
「最近姿を見かけなかったけど、騎士団はそんなに忙しいのかしら」
「おっと、俺がそれをくちにしたら代理団長殿にこっぴどく叱られちまう」
「もう、ただの世間話でしょ。いまは私も貴方も、立場を肩から下ろしているじゃない」
 ここにいる私はファデュイの構成員でなく、パヴリナというただの異邦人に過ぎない。彼はそれを理解してくれている数少ない存在で、だからこそ滲む身分に思わず溜息。確かにお互い、勤務時間外だからとすべてを手放しでいるわけじゃない。彼は私が剣を抜けばその瞬間に首を刎ねるだろうし、私とて彼がファデュイの者に手を出したなら同じだけの報復をする。けど、互いにそうとわかっているからこそ。いまの彼の言葉は、少しばかりナンセンス。
「ああ、いまのは俺が悪かった。この通り謝るから許してくれないか? じゃなきゃ、せっかくの美人が台無しだぜ」
「へえ、貴方ほど綺麗なひとに褒められたら自信がつくわね。ただ、こうも顔の隠れた相手に対する褒め言葉としては不適当じゃないかしら」
 私のいわんとすることを正しく汲み取って、ガイアは軽妙な物言いで軽薄に謝罪。その触感の軽さにそっぽを向いた機嫌も戻ってきたけど、まだ真正面を向ききらない。皮肉を曰く美人のくちびるに引けば、彼は隻眼を意地悪く細めてみせた。
「見えない部分が多いせいで美醜の判別が出来ないなら、誰の美しさもわからないと思わないか?」
 カクテルグラスを片手に、もう片方は自らの身体を指差して。目元を覆う仮面は衣服と同じだといわれてしまったから、かたちだけ残っていた不機嫌は完全に瓦解した。屁理屈めいた言い分に堪えきれなくて、笑ってしまう。それにガイアも、くちの端を僅かにつりあげた。
「随分な主張をするのね。でもいいわ、嫌いじゃない」
「そいつはなによりだ。……だがパウラ、そいつは外さないのか?」
 傾けられた言葉の最初の触感は、内側へ踏み込まれたよう。けれどその実、これはただの世間話であり好奇心。私が彼へ、その身の忙しさを尋ねたときと同じ。だから私は仮面のふちを指でなぞって、少し考えた。
「もちろん、ひとりのときは外してるわ」
 組織の規定だと、制服の一部だと答えるのは易い。けれどそれだけでは楽しくないから。私はそっと、周囲からはさぞ見えにくいだろう瞳を眇めた。
「でも私の目はあまりにも宝石のようだから、いつもこうして隠してるのよ。周りのひとが見惚れてしまっては大変でしょう?」
 吟遊詩人を真似するみたいな大仰さで囁けば、ガイアが珍しく虚を突かれたような顔をする。そして次の瞬間には堪えきれなかったみたいに笑ったから、私のこころはグラスの中身と相反して満たされた。
「そうか、そいつは確かに大変だ。美人は苦労が多いな」
 あまりにもくだらなくて無価値な言葉の群れ、それらを交わしあう夜は、どれほど心地好いものか。喉を震わせて笑うガイアに「わかってくれて嬉しいわ」と嘯けば、彼は一層喉を鳴らしてからバーカウンターの向こう側へ声を注いだ。
「マスター、そこの美人に労いの一杯を」
「はいよ、いつもので?」
「ああ、とっておきを頼むぜ」
 ガイアのこころ配りは空のワイングラスと入れ替わるようにして、やがて私の目の前へ。白ワインと蒲公英酒の甘やかな香りに、既に酔いしれてしまいそう。彼と二度目の乾杯をして、私はカクテルにくちを寄せた。
「好きだわ、これ。私の知るなかで、一番モンドらしい」
「へえ、それほど気に入ってもらえたなら光栄だ」
 『午後の死』の存在を知ったのは、このバーで彼と出会うようになってから三度目のこと。最初の夜はアカツキワイナリー自慢の赤ワインを、二度目の夜には蒲公英酒を。その次の夜に、ガイアは彼のとっておきを教えてくれた。
 スネージナヤは、拓いてなお残る雪山を孕んだモンドより一層寒い。凍てつく国にとって死は圧倒的な暴力が生む直接的な結論であり、そこには誰も情緒を見出さなかった。
 それがこの国では、甘やかながらきりりとしたカクテルの名を冠している。酒精に導かれた、蕩けるような意識の行く先として。凍てつく吹雪の冷たさや暴力による圧政を知ってなお、杯を重ねやすい味を死と呼ぶその感覚。私が知る限り、この世で最もロマンティックな死。そこには、モンド人を彼らたらしめる定義が詰まっている。
「だからこれを頂くと、少し、少しだけよ、モンドに馴染んだような思いになれるの」
 スネージナヤ人の私にはわからない、だからこそ素敵で詩的な感性。その味を殊に楽しめるのは、異邦人の特権かもしれない。ガイアからの一杯にそう微笑むと、彼はファジーな笑みをくちびるに刻んだ。
「なんだ、今日はいつになく感傷的じゃないか」
「ええ、まぁ、ちょっとね」
 同じ色のグラスを手持ち無沙汰に揺らしながら、少しの沈黙。そこに居心地の悪さを感じないから、私はゆっくりと思考する。緘口令が敷かれたわけじゃなかったからいいと、やがてそう結論づけて、目を伏せた。
「モンドを発つことになったの。残念ながらファデュイじゃなくて、私だけ」
「……そうだったのか。いつ発つ予定だ?」
「三日後の朝」
「随分急な話だな」
 ガイアの言葉に肩を竦めて「下っ端の悲しいところね」なんて愚痴めいた本心。急な配置換えも珍しい話じゃない、私は特に実働部隊の人間だから動きのある場所へ駒のように配される。だから異動も今更で、でも今回は少し名残惜しい。
「誰ともさよならを交わせないのが、思ってたよりさみしかったみたい」
 モンドは私を歓迎しなかった、私もモンド人の気質を好いているわけじゃない。けれど、それでも、ここに愛着めいたものを抱き始めていたから。自分の喪失が世界に少しも影響を与えない、その真理を虚しく感じていたのだと、彼にこぼした言葉で自覚する。
 柄にもなく、誰かと別れを惜しみたがっている。その標的となってしまったガイアには申し訳なくもあったけど、私をパウラと呼んだ彼も悪いのだから。感傷へ付きあわせようと隣でその顔を覗き込めば、仕方がないといわんばかりの笑みを返された。
「なら三日後の朝は見送りに行ってやろう、もちろん餞別も用意して」
「さすがガイア、綺麗で気が利いてそのうえ紳士だなんて。さぞ周りが放っておかないでしょう」
「お陰様で、いい身分をもらってるぜ」
 交わす言葉はあくまで軽薄、私たちが美酒とともに分かちあった夜は軽やかなものに過ぎなかったから。だからそこに一夜の思い出も、湿度の高い感情も不必要。炒ったナッツよりもクランチィな声だけで伝わる意図が心地好く、本当なら今宵だけで私は充分満たされていた。
「ああでも、それなら餞別代わりにひとつ頂いても?」
「そうだな、まずは話を聞こう」
 それでもせっかくだからと身勝手に余分をねだり、バーカウンターに肘をついてガイアの顔を覗き込む。仮面を挟んで、黒地の装飾を挟んだ、更に奥。じっとそれを見つめれば、ロック・アイスのような隻眼が意味深に眇められた。
「貴方のその、眼帯の下を見てみたいわ」
 秘された花を求めるのはひとの性。なにもその花を摘みたいわけじゃない、そこに広がる景色を一目見れたらそれでいい。身勝手に軽薄な我儘へ、ガイアは見惚れるほど綺麗な微笑を返す。
「実はここには、この世にふたつとないほど貴重な宝石が埋まっているんだ。俺も記念に見せてやりたいのは山々だが、ほかの誰かの目に留まっては大変だろう?」
 そして彼は、少しの気負いもなく流れるような意趣返し。そのくちぶりがあまりに澱みなかったから、私は終ぞ、笑いを堪えることが出来なかった。
「そう、それは確かに大変だわ、美しいものは周りを虜にしてしまうから」
「ああ、宝石のような目を持つお前にわかってもらえて嬉しいぜ」
 なにせ軽快でくだらない言葉の果て、私たちはとうとう同志となってしまったのだから。それがどうしてもおかしくて、長らく肩を震わせてしまう。その間にガイアは自らのカクテルグラスを空にして、そのまま二杯目を注文する。私から贈る一杯はやんわり塞がれてしまったから、それだけが少し残念。
 せめて私も遅れて二杯目を飲み干すと、同じものをもう一度。深い夜のふち、私にとってのモンドがふたつ並ぶ。
「それなら、改めて。貴方の宝石に」
「ああ、そしてお前の宝石にも」
 そうしてどちらからともなく、カクテルグラスから小気味よく涼やかな乾杯。私のささやかな感傷を呑みこんだ、煌めく夜の幕開け。


First appearance .. 2022/12/29@Privatter