あとは野に散る薔薇となる - 2/2

 互いを知ったときから既に五年が経過しているのだ、当時と変わらぬ存在のまま相対するのは不可能だった。フェリクスは五年間で曲がりなりにも存在していたらしい愛国心となけなしの忠義を自認したし、それは恐らく彼女も同じ。ただ生存のための戦いだけであれば、戦に身を投じる必要はない。それでも彼女は帝国の徒であるばかりか、一軍の将として砦の中心に坐している。五年の間で、フェリクスの我欲が摩耗したように。ロゼッタは、人間になったようであった。微笑む彼女は舞踏会の終わりに見たときと同じく、一端の人間らしく砦の屋上に佇んでいる。
「感謝でもしておきますか? 女神様に」
「ハ、馬鹿を言え」
 けれどフェリクスだけを狙った矢は、帝国将の放った奇襲ではなかった。砦のうえからフェリクスを捕捉し、自らの内側で埋められていた根源に接続したのだろう。ロゼッタの殺気に気付いた瞬間、フェリクスが擦り減った欲望を自身の裡から呼び覚ましたように。
「いつかはこうなる運命だった。それだけだ」
 敵国の将という立場同士でなければ、こうして会いまみえることもなかっただろう。しかし得物を携えた場で出会ったのならば、外殻の消失こそが畢竟。いまこの瞬間だけは、戦争を放棄する。これは、ただの闘争だ。ただ戦うためだけの、生存以外に報酬のない、最も原始的なもの。剣を構えれば、ロゼッタは幼く目を見張った次の瞬間、破裂音をあげるかのように高く笑った。
「あ、っははは! 運命、運命ですって! いいですねえ、それ、すっごくいい!」
 恥ずかしくなるほどよく響く、だというのに彼女はそれをひとつも気にしない。太陽が燦然と輝く真下で、無意識にか月夜をなぞらえる。だから、よくわかるのだ。心底愉快そうに笑った彼女の得ている歓びも、腰に佩いた剣を抜く瞬間の高揚も。
「それならやっぱり、大正解でしたね。あの日、あそこで会ったのは」
「ふん。言ってろ」
 本当ならば、こうして交わす言葉すら不要なほどなのだから。
 笑う空気の余韻すら薄らと残るなかで、やがてどちらからともなく剣を握り直す。相も変わらず、他に見たことのない構え。獣のように低く腰を落とされる、斬り込んだのはフェリクスからだった。振り下ろした刃は紙一重で避けられ、懐に潜るようなロゼッタの刃を籠手で受ける。刃の切っ先を外へずらすと同時に二撃目、肩の甲冑で受け止められる。叩き付けるような衝撃すべてを受けてなお彼女の身体は揺らがずに、外れた剣を中空で持ち替える。
 馬鹿正直なまでにフェリクスの頸を狙う横薙ぎ、腰を落として避ければその瞬間にロゼッタは地を蹴り跳躍する。フェリクスの真後ろへ回り、振り返り様の一閃。剣の腹でそれを受け止めながら一気に押し返す、体勢を崩した身体へ追い打ちをかけんと垂直に刃を落とす。腿を掠った、けれど致命傷には程遠い。刃に触れた足から蹴撃、剣を持たぬ手で足首を掴んだが勢いは殺しきれず指から離脱。一度距離が生まれ、乱れる息を整えながらも口角は自然とつりあがった。
 楽しい、その表現さえもが陳腐だと感じるほどに。快感、悦楽、そのどれとも違う。ただ、歓喜に魂が打ち震える。この瞬間、この空間に余分なものはひとつとして存在していなかった。互いに背負った祖国の命運も、怨嗟や憎悪に因る殺意も、また愉快犯の如き暴力衝動も。迸らんとする本能を辛うじて繋ぎ止め、努めて理性的に刃を読み解く。生存のため、互いの存在で以て己の意識を鋼のように磨き上げる。同じだけの強度、同じだけの質量、同じだけの意志。それらを技巧とする鍔迫り合いでしか得られない境地がここにある、それは歓びに相違なかった。
 笑っているのは、自分だけではない。ロゼッタもまた瞳をぎらつかせながらくちの端をつりあげており、腰を落とした次の瞬間には彼女のほうから地を蹴りフェリクスの懐を狙わんとする。まるで四足獣めいた身体の使い方に息を飲み、受け流さんとした自らの判断を瞬時に撤回し逃げを打つ。彼女の動きは、獣のそれだ。であれば狙っているのは、恐らく腹でも心臓でもない。距離を取ると同時にフェリクスも腰を落とせば、ロゼッタの瞳が愉快だといわんばかりに眇められた。
 地を這う獣同士の争いの如く、低い位置で振られる刃を受け止める。鍔を絡めて強引に押しあげれば揺れる身体、けれどロゼッタはそのまま崩れるどころか刃を支点に身を揺らす。剣に体重が乗る、次の瞬間にはフェリクスの胴を蹴った足で宙へ。中空で半回転、衝撃を受け止めたどちらの剣もが弾き離れる。己の得物を握り込むと同時に左手で拳を構えた、そうすれば案の定、彼女はフェリクスの顔半分を潰さんとするかのように踵落とし。掴んでも無意味だと受け流す、しかしフェリクスが刃を振るうより先に宙へ取り残されていた彼女の剣がこの肉を目がけて落下する。肩から腕を削ぎ落とさんとする一撃から後退し、地を踏んだ足で石畳を蹴る。僅かに空を舞う身を切り上げたが、まるで剣先を読んでいたかのようにその身を捻って避けられた。
 それでも着地の瞬間を狙い肩から腕にかけてを一閃、けれど血飛沫が舞おうともロゼッタは僅かにも怯まない。一切の減速もしない様に息を飲んだ、その一瞬の間を縫うように腹を削られた。
 ふ、と息を吐く。吐息をこぼすように笑う。どこまでも互角、だからこそ鎬を削るに相応しい。腹から流れる血もそのままに剣を握れば、腕を斬られながらも変わらぬ力で剣を握る手指が見える。ロゼッタが体勢を整える前に距離を詰め、その身を斬りあげんと振るった剣が彼女の刃に押し止められる。刃同士が擦れて震える、真正面には炎を燃やすかの如くぎらつく瞳。自分も同じ瞳をしているに違いなかった。
「ッ――」
 だが、その瞬間。
 炎が消える、対等な力で押し引きあった刃がすり抜ける。突如として崩れた身体、あまりにも不自然な揺らぎを反射で受け止める。どういうことだ、と眉を顰める間もなかった。彼女の右肩に、矢が刺さっている。
「は…………」
 あまりにも無礼な横入り、まるで聖域へ土足で踏み入るような。唖然とし、激情が生まれ、高く空を睨みつけた。砦の内部から横やりが入ることはない、他ならぬ指揮官がフェリクスの我欲を聞き入れたからだ。なればどこから踏み入られるかなど、探るまでもない。衝動が迸る、その炎こそ怒りと呼ぶに相応しい。
「味方に向けるもんじゃないでしょ、それ」
 けれど、僅かな水音に滾る怒りを鎮められる。耳のすぐ傍で空気を震わせる笑い声に息を飲み、抱き留めた身体を覗き込む。ロゼッタは、至って普段通りに笑っていた。
「っ、おい、無事か!?」
「いやあ、無理ですね。私も毒使うからわかるんですよ、こんなとこ打たれちゃすぐ回って死にます」
 だから無事を錯覚し、にこやかに告げられた言葉へ瞠目する。死を確信しているというのならば、何故そうも平静に笑っていられるのか。肉を割かれてなお僅かな痙攣すら抱かなかった存在の不自然さにくちびるを戦慄かせていれば、からん、乾いた音がした。ロゼッタの手から剣が滑り落ちている。それはこの場において、彼女の言葉に最も現実味を与えていた。
 何故よりにもよって毒矢なのか、ただの矢の一発であればもう少し命を長らえられたものを。それならば自分も同じだけの手傷を負って、対等な条件に整えてから再度競りあうことも不可能ではなかったろうに。幕引きはあまりにも呆気ない、緞帳が身勝手なまでに落とされる。クソッタレ、と悪態を吐き捨てれば、ロゼッタがおかしそうに、また笑った。
「あーあ。もうちょっと、やってたかったんですけど」
 おかしそうに、そして僅か、惜しそうに。どんどん力の抜けていく肉体を、抱き潰すように抱き締める。四肢から失われゆくものを堰き止めたかった、けれどそれが叶うことはない。
「悲しいけど、これって、戦争なんですよねえ」
 彼女の告げた通り、これは戦争の一端に過ぎないからだ。自分たちにとっては一個の対等な命同士が行う闘争であったとしても、世情はそれを許さない。
「ッ、くそ……クソッ……!!」
 戦争でなければ、この瞬間は恐らく訪れなかっただろう。けれど戦であるからこそ、フェリクスは彼女を救うことも叶わない。メルセデスに解毒と治癒を望んだとて、彼女は捕虜となるだけだ。そして帝国将の捕虜とあらば、結局のところ末路はこの世で最も惨たらしい死だけ。そんな結論のための存命など、自分も、彼女も御免だった。
「ねえ、フェリクスさん」
「……なんだ」
「まだ、間に合う」
 それに自分は、彼女を救いたいわけではない。勝手に幕を引かれたから仕切り直したい、ただそれだけなのだ。身勝手な欲の地団駄に歯噛みしていると、少しずつ細くなりつつある声が囁く。
「殺してよ、あんたが」
 その言葉に、息を飲んだ。
「私を殺すのはあんただけで、あんたを殺すのは私だけ」
 必要がなかったから言葉にしなかった共通理解。互いへ抱きあった我儘な欲、味方へ向けた怒りの根底。彼女は闘争の果てに自分が殺す存在であり、自分が戦いに敗れて死ぬのであればその相手は彼女であるのだという、自分たちにとっては確信めいた認識。戦争においては恐らく最も不要とされる、だからこそフェリクスのなかで摩耗した、ロゼッタのなかで埋もれたもの。ロゼッタはそれをくちにして、軽やかに笑った。
「そう思ってたのは、私だけですか」
 だって私たち、運命なんでしょ。
 そんな風に、こともなげに告げられる。世界が勝手に落とした幕の裏で、せめてもの帳尻合わせをするように。
「……、ああ」
 こんな結末が欲しかったのではない、こんな風に彼女を殺したかったのではない。怒りと無念が炎となる、けれどそれが無意味であることは痛いほどに理解している。彼女が告げた通りこれは所詮戦争で、自分たちは何年もそこに身を投じていたのだから。これもまた、積み重なる死のひとつでしかなかった。
 だから、せめて。四肢から一切の力が抜けた、それでもなお朗らかに笑っている人物を砦の石畳に横たえる。刃の切っ先を高く振りあげれば、ロゼッタは、至って彼女らしい笑顔をフェリクスに向けた。その笑顔の晴れやかさが、いまばかりは心底憎らしい。
 散る鮮血は、薔薇の花弁によく似ていた。


First appearance .. 2022/11/29@Privatter