舞踏会というものは、昔から好きになれなかった。貴族の嗜みであると諭され最低限の礼儀作法は身に着けこそすれど、社交界の行為の一切に興味関心を持てないのだからこればかりは仕方がない。義理といわんばかりに最低限は付きあったが、気がおかしくなるほど相手を変えて踊り続けていなければならないなど苦行以外の何物でもない。浮足立った空気を良いことに、フェリクスは無言で舞踏会の会場となった大広間を抜け出した。
篭もった空気から解放されたところでようやっと息をこぼしていると、暗がりのなかで僅かに動くなにがしかの影。今日ばかりは帯刀を許されなかったため拳を握れば、星明かりが僅かに瞬いて影の輪郭を弱く辿る。「フェリクスさんだ」少しばかり耳に慣れた声が自分の名を呼んだから、フェリクスは握り固めた指をほどいた。
「御機嫌よう」
「ああ」
馬鹿のひとつ覚えのように馬鹿丁寧な一礼にも、もう慣れてしまった。面をあげた直後には小走りでフェリクスの隣にまでやってくる、その淑女らしからぬ様子にも。「フェリクスさんも抜け出してきたんですか?」見ればわかるだろうことを問いかけてくるロゼッタへ溜息で答えれば、子供みたいにくふくふ笑った彼女は首を捻ってフェリクスを見上げた。
「こういうの、私も苦手なんですよねえ。抜けるついでに、ちょっとあっちまで散歩しません?」
「は? ……正気か?」
そうしてロゼッタが指差したのは大聖堂の傍、月に向かってそびえ立つ女神の塔。聖夜と女神の塔の与太話はシルヴァンから聞かされたため把握していたが、彼女に提案されるとは想像すらしていなかった。思わず気でも狂ったかと顔を覗き込めば、夜には不似合いな笑い声が弾けるように響いて消える。それでも笑みの余韻だけは、ほんの少しだけ残っていた。
「ふたりであっちまで行ってたら、呼び戻されもしないでしょ」
「……そういうことか」
だが根も葉もない伝説とやらを求めるのではなく、それを隠れ蓑にするというのであれば彼女の提案も理解出来る。しばらく大広間へ戻るつもりもなかったため、フェリクスは見た目だけは少女らしい人物と連れ立って一対の男女の姿がちらほらと見える塔の麓にまで足を運んだ。
手すりから身を乗り出して明かりの灯った家屋を見下ろすロゼッタの姿はともすれば危なっかしく、結局は滑り落ちてしまいそうな身体をフェリクスが支えてやる破目になる。舞踏会と子守を天秤にかけられたような気分で溜息をこぼしていると、行儀悪くも手すりに座った状態のロゼッタがフェリクスの顔を覗き込んだ。間違っても、彼の兄には見せられない姿だろう。
「ねえ、フェリクスさんはなにかお願い事しないんですか?」
「くだらん。まさかお前こそ、あの与太話めいた伝説を信じているわけじゃないだろうな」
「まあ私、そんなに信心深くないので。でも、お願いして叶ったら儲けもんですよ」
足をふらふら揺らして、上半身も柔らかくしならせて、女神を祀る空間のなかにいながら彼女はそんなことをあっけらかんとくちにする。あまりにも現金な発言にはさすがのフェリクスも閉口してしまったが、成る程一理あるかもしれないとも思ってしまったから、自分でも気付かぬところでロゼッタに毒されているようだった。
「……ならば願うか。女神に、お前との再戦を」
平和を愛する女神に戦の望みを託すなど、果たして真に不敬なのはどちらのほうか。皮肉をくちにするように笑えば、目を丸くさせたロゼッタがやがて声をあげて笑いだす。あまりによく笑うから、塔の麓で語らいあっていた男女の何対かが怪訝そうにこちらの様子を窺うほど。悪目立ちをするつもりでここにきたつもりはないのだが、と、痛むこめかみについ指を這わせてしまった。
「ほんっとに。熱心ですねえ、フェリクスさんは」
くふくふ、堪えきれない笑みの余韻を残しながらロゼッタは言う。けれどそれを否定しないのだから、所詮は彼女も同罪だ。
フェリクスとロゼッタが本気の打ち合いをしたのは、ただの一度だけ。ロゼッタがフェリクスを殺すつもりで剣を握ったから、フェリクスもまたロゼッタを殺すつもりで剣を振った。互いの精神と肉体を削りあうように続けていた戦いは彼女の帰りが遅いことを訝しんで訓練場へ顔を出したフェルディナントによって止められ、夜も疾うに更けた時間でありながらふたり揃ってマヌエラの世話になったのである。
級長同士は互いに頭を深く下げあい、フェリクスとロゼッタはそれぞれイングリットとフェルディナントから気が遠くなるほどの折檻を受けた。骨折、脱臼、その他諸々の傷の手当ては数日間に及び、最終的にふたりは互いに対して今後一切の私闘の禁止を厳命された。だから先ほどまで、フェリクスとロゼッタは互いに五体満足の状態で生きて舞踏会なんぞに参加していたのだ。
「フン。他人事のように言っているが、お前はどうなんだ」
問いかけ、見上げる。余分な光の入り込まない空間にいるほうが、彼女の本質はよく浮かびあがる。その表情こそ緩く撓んでいるものの、瞳の奥からは冷たいものが見えていた。だからこそ、本当は尋ねるまでもなかった。彼女の答えなど、わかりきっている。
彼女の性格がどうだとか、交友関係がなんだとか、そんなものはすべてどうだって良い。自分が彼女の本質さえわかっていれば、そして自分の根源が彼女の瞳に映っているのならば、他のものはすべて些事だ。そして互いを殺さんと刃を重ねたからこそ剥き出しになった精神の根幹を見ているのだから、本当はもう、言葉すら使う必要はなかった。
「フェリクスさん、知らないんですか? お願い事は、男女が同じことを願わなきゃ駄目なんですよ」
生存のための闘争を行う獣は初めて戦いに喜びを見出し、うっとりとフェリクスを見下ろしている。そして彼女との戦いに価値を、喜びを見出し、あの刹那に永遠すら望まんとした自分もまた、同じ目をロゼッタに向けているのだろう。ならばやはり、こんなものは意味のない戯れに過ぎない。鼻で笑って一蹴すればロゼッタも笑い声を立てた。今度は周囲にも響かないよう、うんと小さく。
やがて彼女は手すりから手のひらを離したから、一応手を差し出してやる。そうすればロゼッタはフェリクスの手を支えとして身軽に床へ降り立ち、なんの名残惜しさもなく指同士をほどいた。ありがとうございますと笑った彼女はフェリクスの数歩前に出てから身を翻し、彼を振り返る。
「そろそろ戻りましょっか。じゃないと兄様が心配してそう」
「随分と過保護な兄貴だな」
「ふふ。過保護で厳しい、自慢の兄様ですよ」
そうして兄のことをくちにする姿は一端の少女らしく、また人間らしいものだったから、獣めいた彼女の本質は丁寧にその身体の奥底へしまわれている。
女神に縋るつもりは毛頭ないが、それを表に引き摺り出すのは自分だけであるよう、強く望んだ。
First appearance .. 2022/11/29@Privatter