あとは野に咲く花となれ - 3/4

 夜の訓練場で剣を振るう。見えぬ敵を幻視し、それと相対する。亡霊との戦いに勝敗はなく、だからこそフェリクスを追い詰める。進むしかないのだと、駆り立てられるように刃を磨く。執念でもなく、殺意でもなく、ましてや忠義などでもなく。ただそれのみを目的として、剣の腕を磨いてゆく。自らが道と定めたものを手に取っていると、不意に幻影の影が揺らいだ。ひとの少ない夜更けとなれば、誰かの足音は否応無しに耳につく。
「お邪魔しまーす。……あ、あったあった」
「お前は……」
 いつぞやに扉を壊しかねない勢いで訓練場へ転がり込んできたときとは比べものにならないほどの静けさで、ロゼッタが夜の隙間に入り込む。室内の隅に置かれていた武具の手入れ道具を手にした彼女は何事もなくフェリクスの横を通り抜けていこうとするのだが、それを許すわけがない。「おい」一見無防備を装っているが見目ほど警戒心を落としてもいない人物は、フェリクスに肩を掴まれても動じることなく彼を振り返った。
「こんばんは、フェリクスさん」
「ひとりか」
「はい。兄様の忘れ物を取りにきました」
 ロゼッタを捕まえたのはこれが初めてでもないのだ、恐らく彼女は既にフェリクスの意図を察しているだろう。だから彼女は困惑もせず、驚きもせず、ただ朗らかな笑みを顔に浮かべ続けている。見た目以上に聡い人物だと、内心でその評価を改めた。少なくとも戦いという行為が傍にあるとき、彼女は歩くたびに盤上遊戯の駒を腕からこぼすような粗忽者ではなくなっている。
「なら付き合え。今度こそ、本気でだ」
 鷲獅子戦を終えたのは、つい先日のことだ。青獅子学級は金鹿・黒鷲の両学級に辛勝を果たしたものの、フェリクスにとっては熱を燃やしきらぬ戦いとなった。ようようロゼッタと本気で対峙することが出来るかと思いきや、彼女は戦場の第一線に姿を現さなかったからである。
 どうやら彼女の最も得手とする武器は弓であるらしく、グロスタール平原のそこかしこに点在する弓砲台を奪取してはそれを用いて両学級を撹乱、自らや砲台を狙う者が出てきた際には他学級の生徒に使われないよう砲台を潰してからフェルディナントの騎馬に相乗りして敵の追撃を逃れていた。その後は森林地帯から敵を狙い撃ち続けており、リシテアが放った森を焦土に変えんとする勢いの炎魔法に降参するまで、彼女は狙撃手として敵を狩り続けていたのだという。
 成る程、彼女が最前線で武器を振るう戦士でないのならば訓練場へ顔を出さないことにも多少の理解をすることは出来る。以前フェリクスの剣を受身で受け流し続けていたのもそうだ、ロゼッタには彼を押し返す必要がなかったからだろう。
 だがそれでも、彼女が終ぞ見せたことのない本気を追わない理由にはならない。告げて剣を突き付ければ、ロゼッタは腕の荷物を抱きかかえ直しながら小首をかしげた。
「へえ。じゃ、殺していいんですね?」
 まるで子供のような仕草を取りながらも、紡がれた声は悍ましいほどに平坦。背骨を伝った戦慄は、小動物のかたちをした継ぎ接ぎの下が垣間見えたからだ。ロゼッタは兄の忘れ物をわざわざ部屋の隅に置き、訓練場に備え付けられている剣のうちの一本を手にする。刃の潰された剣を手にしながらも、彼女の放った言葉に乗った意思は立ち消えていなかった。
「……ああ。その代わり、俺がお前を殺したところで文句は言うなよ」
「あはは、面白いこと言いますね。死んだら文句は言えませんよ?」
 本気を出すということは、即ち相手を殺すことである、と。気さくにそう告げられたからこそ、理解することが出来る。彼女は日常的に命が消える世界を知っており、そして恐らくはその世界の住人なのだ。エーギル家の教育方針は、果たしてどうなっているのやら。知りもしない帝国貴族の事情を軽く笑って一蹴し、抜いた剣を無言で構える。ロゼッタも鞘をベルトに捻じ込んでから剣を抜いた。まるで見たことのない構え。恐らく我流なのだろう。
 開始の合図はない。構えてしばし、先に動いたのはロゼッタだった。地を蹴る勢いでフェリクスの懐へ飛び込んでくる。脇腹から肩にかけて切り上げられんとする刃を防げば、きち、と音を立てて鍔迫り合いとなったのも束の間、ロゼッタの剣はすぐに退く。次いで間を置かずに二撃、三撃。腹、首、心の臓。斬撃が続き、そのすべてを打ち止める。戦いに不慣れなものであれば目にも追い付かないであろう速度、けれど速いぶんだけ重みに欠ける。柄の握りも甘く、力があまり入っていない。ディミトリやドゥドゥーであれば一度の反撃で手首さえ捩り折るだろう程度の力であった。
 何度目か刃が交錯し、それを振りきり彼女の手から剣を弾く。左手側に剣が飛んだ瞬間、目の前にいたロゼッタの姿が掻き消えた。
「っ!!」
 瞠目した次の瞬間、空気が揺れて風が生まれる。咄嗟に剣を左手だけで握り右腕で顔の側面を覆えば、皮膚を擦りきるような衝撃と痛み。振り払うように半身を捩った瞬間にはもうロゼッタの姿はなく、彼女は蹴撃の勢いを使って弾かれた自らの剣の元にまで跳躍していた。剣は床に落ちることもなく彼女の手に収まり、着地の瞬間に刃が伸びる。跳んだ勢いは未だ磨り潰されることなく、それを用いてフェリクスの目を狙う。剣では間に合わない、右手でそのまま受ける。そのせいで視界の半分が潰される、空気が擦れる。左目の範囲に、もうロゼッタはいない。
 咄嗟に腰を落とせば頭上の空気が一刀の下に断たれる音。このままでは彼女に翻弄されるだけだと背後に跳躍して距離を取れば、猛攻がようやくやんだ。片手で緩く剣を握り、腰を少し落とした姿勢で彼女はフェリクスを冷淡に見つめる。彼の隙を探している、否、数秒後の未来を見据えているのだ。フェリクスを確実に討つための道を、切り結ばれる空気の最中で採択している。
(……獣だ。俺の、探していた)
 剣の握りが甘いのは、鍔迫り合いで武器が弾かれることも動きの前提としているからだ。敵の力に武器が支えられる一瞬の隙に得物を持ち替え、そこを支点として跳躍し側面ないし背面に回り込む。一見して無駄な動きは確実に敵を討つための布石であり、得物を取りこぼす可能性ですら首を落とす好機に挿げ替えている。剣すら囮にして、相手の命を奪おうとしている。感情も、執念も、ましてや騎士道などもなく。ただ生存のための闘争が、ここへ至るほどに磨きあげられていた。
 彼女の動きには一切の感情が削ぎ落され、代わりに冷徹なまでに緻密な計算が張り巡らされている。相対した存在を殺すために相手を分析し、すべての瞬間で選択され得る策を組み立てる思考がある。そしてそれらは、生きるために敵を殺す、そんな驚嘆するほど単純な理由に集約されるのだ。
 この人物は、動物の皮を被った少女などではない。これは、人間の皮を被った獣だ。人間の理性と獣の本能を併せ持った存在だ。生きることに特化した、刃そのものだ。
(こいつと打ちあえば、俺は更なる強さを得られる)
 熱のような吐息が漏れる。心臓が震えあがるほど高揚する。感情が、高揚が、熱が思考を食い潰してしまいそうになる。けれどそうして冷静さを欠いてしまえば、恐らく彼女の計算に刃は容易く呑みこまれてしまうだろう。それに理性を失った剣はただの凶刃に過ぎず、そこにはなんの価値も生まれない。燃え盛る熱を飲み込んだまま、鉄を打つような理性で以て、フェリクスは彼女の剣を読み解き勝利しなければならないのだ。
 ああ、だが、それがどうしようもなく楽しい。
 そう、いま自分は楽しいのだ。このうえなく、どうしようもないほどに。