あとは野に咲く花となれ - 2/4

 士官学校の生徒の往来が多い場へ足を踏み入れると、その瞬間に広い空間へ目を走らせる。半ば癖じみてしまった動きにも、幸いにして幼馴染はなにも気付いていないようだった。フェリクスの隣で女子生徒に声をかけては無意味な世間話を広げる男の声に浅く息を吐いていると、大広間にするりと入り込む影が目に映る。それが癖づいてしまった動作を取るようになった原因であったから、フェリクスは自分の脇をすり抜けんとする少女の肩を利き手で掴んだ。
「おい」
「ん? あ、フェリクスさん。御機嫌よう」
 足を止めさせられたというのにも関わらず、彼女はフェリクスに気付くとスカートの端を摘まんで優雅に一礼。大広間を小走りで進んでいた様子とはあまりに噛み合わせの悪い動作へ、なんとも言えず溜息を吐いてしまった。一礼するときの声と仕草だけは一端の淑女らしかったから、大方そういった最低限の礼儀作法だけは叩き込まれたのだろう。
「どうしたんですか? 私になにか用事です?」
 なにせ一礼を解いたあとは、まるで幼児かなにかのように首を捻ってフェリクスを見上げているのだ。まるで色と模様の違う布を無理やり縫いあわせたかのような不自然さ。だがそれがロゼッタ=フォン=エーギルという人物なのだろうし、フェリクスも彼女の人格や動作の不自然さに対してはさしたる興味も持っていなかった。
「少し付き合え。あれで終わられては気に食わん」
 いままでロゼッタを探し続け、こうして彼女を捕まえたのは、腰に佩いた剣のためだ。意図を伝えるべく鍔を鳴らせば、彼女は「ああ」と頷きながらもまた首を捻ってみせる。わかりやすく不思議そうな表情を浮かべてから、彼女はあっけらかんと軽く笑った。熱心ですねえ、という声にフェリクスを鍛錬馬鹿と揶揄するつもりはなかったようだが、剣を握ることへの無関心さが少しばかり癇に障った。
 彼女の剣は、いままで相手取ったどんな人物のものより難解だった。まるで剣舞のようにしなやかで、しかし切っ先には相対した相手を打ち取らんとする意思が明確に灯っている。それでいながら自ら攻勢を取ることはなく、彼女はひたすらにフェリクスの剣を受け続けていたのだ。まるで値踏みされているかのような不快感、だというのに懐まで切り込まれかけては慌てて身を引く僅かな隙に闘争心を掻き立てられた。ロゼッタは時間を気にかけていたペトラからその声をかけられるまでの間じゅう、そうしてフェリクスと対峙し続けていた。ただの一度も膝をつくことなく、しかしフェリクスに膝をつかせることもなく。
 フェリクスの剣に本気の受身を取り続けてはいたのだろう、イエリッツァや元傭兵の新米教師ほどの余裕は感じられなかった。けれど、彼女が本気でフェリクスと打ちあっていなかったのもまた明白。だからずっと気に食わなかった、だからずっと探していた。燃やし損ねた可燃材が、自分のなかに残っている。そのみすぼらしさを受け入れることが、フェリクスには出来なかった。
「行くぞ」
「あ、ちょっと待ってください。いまからは」
 だからこそ彼女をずっと探していたというのに、この人物というものの、まるでフェリクスの前へ姿を現さないのである。訓練場へ頻繁に足を運ぶ人物ではないらしい、というのはカスパルから聞いたのだが、それにしたって一所でじっとしていないのだ。彼女の目撃情報を耳にしたからその場所へ足を運んでみたところで、いざ向かってみれば既に彼女は別の場所。そうして休日を棒に振って以来、進んでロゼッタを探すことは諦めた。
 それでもこうして彼女の姿を見落とさないよう常に気を配り続け、ようやっと捕まえたのである。肩を掴む手を引き寄せようとするのだが、それよりも先にフェリクスの手が第三者の指によってほどかれた。
「失礼。彼女は私と先約がありましてな」
 予想していなかった第三者は、陰気な声を大広間の喧噪にそっと落とす。暗がりのなかがさぞ映えるであろう男はフェリクスを牽制でもするかのように、それでいて彼のことなど歯牙にもかけていないような顔で、薄らと笑っていた。
「ヒューベルトさん! どこ行ってたんですか?」
「貴殿が歩くたびに落としていた駒を拾いながら歩いていたのですよ」
「え、うっそぉ」
「このような些事で嘘を吐く必要があるとお思いですか」
 フェリクスが呆気に取られているうちにロゼッタは目を丸くさせて呆けた声をあげ、強張りかけた空気を緩ませるばかりかヒューベルトに溜息すら吐き出させている。彼の腕には盤上遊戯の駒がきっちりと収まっており、ロゼッタはなにも残っていない自分の手元を見て「あっれまあ……」ぽかんとくちを開けていた。この粗忽な人物から一本すら取れなかったのかと思うと、言い知れぬ悔しさが背を走る。
「夕方にはイグナーツ殿と約束があるのでしょう。あまり悠長にしていては指導の時間がなくなりますが、よろしいですかな」
「よろしくないです! すいませんフェリクスさん、手合わせはまた今度!」
 そして彼女はようやくフェリクスが捕まえても、いとも容易くそこから抜け出して去っていく。ロゼッタは足早に大広間を去るヒューベルトへ追い付かんと小走りで彼を追いかけて、ヒューベルトへ両手を差し出していた。けれど結局その手のうえにはなにも与えられないまま廊下を曲がる、その後姿を見送ることしか許されない。そのことがどうにも腹立たしくて、舌を打たずにいられなかった。
「へーえ……。最近妙に誰かを探してるとは思ってたが、まさかロゼッタ相手だったとはなあ」
 残されたのが自分ひとりだけでないから、尚更に。いつの間にか女子生徒との談笑も終えていたらしいシルヴァンはにやにやとたちの悪い顔でフェリクスを横から覗き込んできたから、反射で眉間に皺が寄った。
「あのフェリクスにも、とうとう女の子に興味を持つときがきたかあ。ロゼッタってのは意外だが、まあ彼女は大らかで朗らか、相手をよく見て尊重する子だ。悪くないと思うぜ」
「いつ、誰がそんな話をした。まったく……もういい、お前が付き合え」
 彼女がどんな性格をしているか、他者とどう関わっているかなど、言ってしまえばなんでも良い。フェリクスが求めていたのは彼女の刃であり、得物を手にしたときの瞳である。今日捕まえきれなかったのであれば、その正体の見えない剣筋の根源にはいつ触れられるのか。喉の渇きにも似た感覚をごまかすようにして、フェリクスはシルヴァンへ言葉をかけて訓練場に足を向けた。「は? 付き合うって、いまからかよ!?」後ろで喚く幼馴染の声が遠退くことはなかったから、自分の憂さ晴らしに付き合ってくれるのだろう。