魚は天馬の夢を見るか - 2/3

 夜の個室は、しんしんと音がする。ふたりぶんの熱が積もる音。シャミアは遠征と帰還を繰り返していたから、ふたりで夜を過ごすだなんて一節ぶり。頬を撫でる手のひらの冷たさに安心する。私を抱き締めてくれる腕に安堵する。なんの気兼ねも、懸念も、恥ずかしくなるような心地もなく。彼女に身を委ねられる、生ぬるい喜び。しんしんという音に目を閉じていたら、ふと、彼女の指がまるで検分するみたいに私の腕へ触れた。
「……ムリアン。お前、なにをしていた?」
「なに、って」
「普通に生活してて、こんなところに打ち身は出来ん」
 シャミアが私の腕をなぞる、二の腕の裏側を。自分でも気が付かなかったけれど、捻って見れば随分な青痣。どこかにぶつけた覚えはなくて、どこかで引っかけた記憶もなくて。悩んで、思い返して、ああ、ひとつだけ思い当たる。言うか、言わないか。悩んでいる間に、シャミアの顔が険しくなる。私を心配しているものではない、もっと毛羽立つような感情が触れた肌越しに伝わってくる。彼女は、怒っているようだった。
「ムリアン」
 言葉を求められる、もしくは弁明を。熱いのに冷たくて、強い感情に圧迫される。まるで心臓が潰されるみたいな。後ろめたさが糸巻きのように、くるくる紡いで、束になる。誓って隠していたわけではない、ただ話す時間がなかっただけだ。彼女は本当に忙しくて、食事のときくらいしか喋る間もなくて、場合によってはそれもなく出立してしまっていたから。そして、その間にことが起きていたから。けれど、それをどう言えば良いのだろう。違うの、と、言ったって、そこになんの意味も生まれない。
「……護身術を、教わっていたの」
「だから、お前には必要ないと言っただろ」
「ごめんなさい、わかってるの。わかってるけど、でも」
 結局私はそう言うしかなくて。顔をあげているのが怖くて、俯いた。シャミアから離れようとして、腕の、痣のないところが掴まれる。逃げることも許されない。怒られていて怖いのに、そんなところにだけ安心する。自分の浅はかさが、恥ずかしかった。
「怖くて」
 私はどうやったって、彼女みたいに強くもなれなくて、彼女みたいに綺麗でもない。だから怖くて、誰にも見られていないところでさえ自分が恥ずかしい。でも、それを伝えるための言葉がわからないから、こんな風に話すことしか出来なくて。理解出来ないと言う代わりみたいに、シャミアがくちを閉ざす。
 山際の冷たい風が吹きすさぶみたいな、からからとした心地。身体の全部が乾いてひりつくみたいな頃、個室の扉がこつこつ、来客を告げる。
「誰だ」
 シャミアは不機嫌な声をそのまま扉にぶつけていた。ただし扉の向こうにいるひとはそれを気にした様子もなく、向こう側で自分の名前をシャミアに返す。そこにいたのは、先生のようだった。
「遅くなってすまない。頼まれていたものを持ってきたんだが」
「……ああ、そうだったな」
 驚くことも、脅えることも、呆れることもない、温度の変わらない声。それに溜息を吐いたシャミアが私から腕をほどいて立ちあがり、部屋の扉を少し開ける。彼女が先生から受け取ったものがなにかはわからない、私は食事を作ること以外のほとんどを知らないから。ときどき私を勝手に動かすなにかが、お腹の少しうえで頭をもたげる。それが暴れないように指を握り込んでいると、シャミアの肩越しに、先生と目があった。
「邪魔をしたかな」
「見たらわかるだろ」
 その瞬間に先生は軽く笑って、シャミアは今度こそ声から苛立ちを隠さない。短い言葉たちに、かっと身体が熱くなった。それを見た先生がまた少し笑ったと思ったら、その顔が見えなくなる。行き交う目線を遮るみたいに、シャミアが先生を少し後ろへ追いやっていた。
「用はもう済んだだろう。こいつに関しては感謝する」
「どう致しまして。ただ、折角だからひとつだけ」
 廊下に追いやられたせいで、声が少しだけ遠くなる。それでも扉が開いているから、聞こえないわけではない。それはシャミアに向けられる言葉だから、私が聞いていて良いものかどうかもわからないのだけれど。耳を塞げるほど私は誠実ではなくて、そんな自分が恥ずかしかった。
「彼女の言葉を、待ってあげたらどうだ。それが出来ない関係ではないんだろう」
 それでも、どうしてか。先生の言葉は、私にも聞かせているみたいに響く。まるで見透かしているような声、もしかするとあのひとは最初から全部勘付いていたのかもしれない。「さて、天馬に蹴られる前に退散するよ。良い夜を」そんな声を最後に残して、足音が離れていく。けれど、その音さえ遮るみたいに扉が閉まった。普段より荒い動作でシャミアが個室に戻ってくる、途端に私の腕を掴む。掴んだ私の身体ごと、彼女の身がベッドに落ちる。寝具へ座る彼女に抱き締められる、腕のちからの強さが嬉しかった。
「……シャミア?」
「しばらくこうさせてくれ。くそ、思った以上に腹が立つな……」
 呼びかければ抱きすくめられた。いまになって痣が痛む、けれどそれが喜ばしい。いつも、私ばかりが彼女を好きだから。
「お前、先生に教わってたのか」
「……うん」
「私が否定したからか」
「ううん」
 彼女の腕のなかで、自分の身体の全部を預ける。しんしん、音がする。それは私の好きな音。一度は止まった音がまた聞こえるようになったから、言うか言わないか、悩んで、躊躇する思いもあって、それでも最後はくちを開いた。「それが出来ない関係ではないんだろう」先生は私にも、そう言ってくれたから。
「……最近ずっと、物騒でしょう。この大聖堂でさえ。それで、怖くなって」
「お前のことは私が守る」
 彼女はそう言ってくれる、だから私に戦う術は必要ないと。その言葉に嘘はないのだろうと、わかっている。だから頷いて、そのあとに首を振る。そうだけど、そうではなかったから。
「わかるの。きっと、また戦争が始まる」
 私は戦禍に呑まれた末に大修道院で保護された、弱い存在だから。戦うちからも、ひとびとを救う信仰も持ち得ないような。けれどひとがひとを殺す様を、死体の爛れ落ちる匂いをよく覚えているから、なんとなくわかる。この大陸で最も安全であるはずの大聖堂においてさえ、人間を焼く火の匂いが、不意に感じられることがあった。
「戦争になったら、全部が変わるのよ。生き残るひとも、その先も。……シャミアがここにいることも、きっと変わる」
 そうなると、世界のすべてが引っ繰り返る。私はそのことを知っている、そして彼女も。彼女は私なんかよりずっと戦いのなかにいて、戦火の間を渡り歩いてきたひとだから。
 いまは彼女もガルグ=マクにいる。けれど戦いが起きて、終わって、彼女はセイロス聖教会の騎士でいるとは限らない。そうすると、どうなるのだろう。彼女は傭兵に戻って、きっと違う土地を往く。
「なにも出来ない私は、そのとき、きっと置いていかれてしまうの」
 無力な私が、どうしてシャミアの隣にいられるだろう。どれだけ考えても、彼女と一緒にいられる未来を見つけられない。せめて自分の身くらい自分で守れるようにならなければ、せめて少しでも戦い方を知っておかなければ、私は愛しいひとと生きながら離れてしまうことになる。そう思うたびに息苦しさが膨れあがって、いまではもう、身体の内側がじくじくとした痛みに呑みこまれてしまいそう。「それが、怖くて」愛するひとが生きているならそれで良いと言えるほど、私は強くも、綺麗でも、健気でもいられないから。
 告げて、息吐く。身体を離そうとする、けれどそれを止められる。抱き締め直されて、その腕の優しさに、泣いてしまいそうだった。彼女を抱き締め返す意気地も持てない、情けない私の代わりに、彼女はいつも私へ触れて、私を抱き締めてくれる。
「……悪かった、ちゃんと話を聞いてやらなくて。不安にさせたな」
 そして落ちてきた言葉に、ああ、やっとわかった。そう、私はきっと、ずっと不安だった。私は弱くて、少しも立派な存在ではないから。
「大丈夫だ。なにがあっても、どうなっても、お前は私が連れていく」
「それは、……本当に?」
「ああ。そのせいで、お前を泣かせるかもしれんがな」
 それでも彼女は、私を抱き締めて、そう言ってくれる。私をここから引き剥がしてでも、私を離さないでいると。
「……ううん」
 だったら、欲しいものなんて、他にはなにもない。私は、彼女だけが欲しい。
「シャミアに泣かされるのだったら、いい」
 だから。私を抱き締めてくれる身体を、私も、抱き締めた。