魚は天馬の夢を見るか - 1/3

 窓を開ければ風が差し込む。晴れて乾いた空気、山際のそれより柔らかくしっとりとした。食堂の窓のすべてを開けて、広い空間の掃除を始める。ガルグ=マク大聖堂では規則正しい生活をしているひとが多いから、朝には朝の混雑があって、それまでにはこの場所を綺麗にしておかなければいけないから。
 硝子の汚れを布巾で拭っていれば、こつこつ、窓枠を小突くような音。顔をあげて周りを見渡す、隣の隣からまたその音が。身体を少し後ろへずらせば、開いた窓のふちに腕を引っかけて、わざわざ外から中を覗き込む姿を見つけた。
「朝から精が出るな」
「シャミア」
 彼女が身を乗り出してきた窓の隣には扉があるのだから、窓から身を乗り出してくる必要なんてなかったのに。窓の木枠と硝子をこつこつ震わせなくても、声をかければよかったのに。そう思うから、こころがむずつく。彼女はきっと、私以外にはそうしているだろうから。わざとらしくて子供みたいな仕草を向けられた理由はわかっている、まるで思い上がりのようだけれど。私の内側なんて誰も知らないのに、誰かに指差されたみたいに恥ずかしい。思わず視線を手元に落とすと、私を呼ぶみたいにシャミアの右手が少しだけ持ちあがる。ゆらゆら、たなびくみたいに震えるから。やっぱり私は、彼女に引き寄せられる。
「悪いが、朝飯をもらえるか。もう出なきゃならなくてな」
「ああ、うん、すぐ持ってくるわ」
 彼女の言葉に頷いて、付近を片手に一度厨房へと戻る。今日は食堂でゆっくり朝食を取る暇もなさそうだと、昨日の夜に教えてくれていたから。せめてと思って用意しておいたサンドウィッチの包みを持って、また食堂へ。シャミアは相変わらず食堂のなかに入ってこなくて、窓から掃除途中の食堂を眺めている。それが、なんだか恥ずかしい。もたつく朝の支度を隣で見ているときと同じ顔だったからだろうか。
「大したものじゃないけど、これ、どうぞ」
「いや、充分だ。悪いな」
「ううん」
 まだなにも整っていないのだから、そんな風に見ないで欲しいのに。ごまかすように声をかけて包みを渡せば、私のものよりうんと綺麗な指がそれを受け止めた。瞳が私に向けられる、そこに灯った労わりの情が。シャミアは優しくて律儀だから、こんな些細なことにも礼を尽くしてくれる。彼女のほうが、ずっと、よっぽど大変なのに。
「……多いね、最近」
 だから、つい、そうこぼしてしまう。食事を摂る暇もないくらい急いでいるひとを相手にすることではなかった、と。思い至ったのは、自分の声を耳で聞いてから。恥ずかしくて、俯いた。
「ああ、まぁな。ま、こうして騎士団も動いてるんだ。じきに落ち着くだろ」
「……うん」
 俯いた私の頭が、綺麗な指に包まれる。髪の付け根にまで指を差し込む、まるで愛するみたいな動き。どきどきする、こんなに朝も早いのに。自分が恥ずかしくなって、それでも、自分から彼女の指をほどけはしない。これは、私だけに与えられるものだったから。
「物騒な噂は消えたが、まだ街も穏やかなわけじゃない。ひとりで買い出しになんて行くなよ、必要があれば適当な騎士か生徒でも捕まえろ」
「うん、わかってる」
 彼女の忠告に顔をあげる。シャミアは私よりずっと忙しい立場なのに、私が食料を買いに街へ降りるときは必ず隣にいてくれる。けれど最近はそれもなくて、代わりにこの言葉が増えた。仕方のないことだ、さみしいけれど。ただ、さみしいよりも、自分を言い聞かせるよりも、もっと別のものが私のなかにいる。なにかもわからないものが、心臓とお腹のちょうど間に。どうしてだろう、それが小さく鳴いた気がした。
「……シャミア」
「どうした」
「その……私も、覚えたほうがいいのかな。戦い方、とか」
 その鳴き声が、私の喉を勝手に操る。気付けばそんなことをくちにしていて、シャミアが少しだけ眉をひそめた。ちょっとだけ馬鹿にするみたいな、呆れたような顔。わかっている、私の喉があんな音を作ってしまったせいだ。自分に戦いの才能がないことは、悲しくなるほど知っている。
「馬鹿なことを考えるな、やめておけ」
「そう、そうよね。ごめんなさい」
 百戦錬磨の彼女がそう言うのだから、それが本当。あんなことを言ってしまった、きっとそれこそが思い上がり。俯こうとして、止められる。私の頭を撫でていたシャミアの指が、顔の横にまで走っていた。つい下を向こうとする顔が彼女の指に引っかかって、輪郭ごと手のひらに包まれる。手袋越しでもわかる、愛するための動き。それに、今度は自分の内側がしくしくした。悲しくて、ではない。もっと、心地好さに似た感覚で。
「行ってくる。いい子で待ってろよ、ムリアン」
「……うん。行ってらっしゃい、シャミア」
 柔らかい、そのはずなのに、それだけで呑みこめない。頬を撫でるシャミアの手に触れてから、終ぞ食堂へ入ることのなかった彼女を見送る。いまに始まったことではない、彼女の本分は戦いのなかにある。騎士として、そしてなにより、傭兵として。私に戦うちからがない限り、私は彼女を見送り続ける。
 いまに始まったことではないのに。よくわからないものが、私のなかで膨らんでいる。見えなくなって随分経つのに窓から離れられずにいると、隣の扉が当たり前に開閉した。
「っ! お、おはよう、先生」
「ん、ああ。おはよう、ムリアン」
 扉は開いて閉まるものだということをすっかり忘れてしまっていて、驚く身体を少しだけ抱き締めながら意識を戻す。このひとも、朝はいつも早くて、ときには食堂の準備が終わるよりも先に顔を見せにくる。そして、そういうときは決まって食事のためではない。先生はいまも、両腕いっぱいに野菜を抱えていた。
「温室で沢山採れたから、お裾分けに」
「そうだったのね。いつもありがとう、先生」
 温室で育てた野菜や、釣り池で釣った魚、ときどきは街へ降りたときに見つけた珍しい香辛料。そういったものをわざわざ持ってきて、お裾分けをしてくれる。そういうことが、ここでは案外少ないから。思い遣りを両手で受け取れば、私と代わって手の空いたひとがほんの少しだけ首をかしげた。表情の起伏こそ僅かだけれど、そのぶん他のところで、このひとは内側を教えてくれる。なんとなくそれがわかるから、先生のことは怖くなかった。話すときは落ち着く心地さえあった。
「なにかあった?」
「え……?」
 それでも身体が硬くなったのは、先生が少し前の私を見つけたから。「落ち込んでるように見えたから」そんな言葉に、押し黙る。落ち込んでいる、そうなのかもしれない。少なくとも、浮かれてはいなかったから。
 言うか、言わないか。悩んでいる間、先生はくちを挟まない。深い思い遣りはそこになく、けれど突き放す感情もそこになく。まるで、春先の水溜まりみたいな。それが心地好かったから、結局私はくちを開いてしまった。
「その、戦い方を、知りたくて」
「……戦いを?」
「ああ、でも、シャミアや先生みたいになりたいわけじゃないの。私、どんくさいし、頭もよくないから。わかってるの、向いてないって」
 堪えようとしても堪えられない、勝手にまろび出てくる言葉たち。やめておけ、と言われたばかりなのに。わかっているのに、考えてしまう。身体の内側で、柔らかいものと柔らかいものの間に、なにかが挟まっているから。高望みはしないけれど、それでも。言い訳みたいに、声が溢れた。
「でも最近、街も物騒でしょう。だから、ちょっとだけでもと思って」
「ああ、それは確かに。護身術くらいは身に着けておいていいかもしれない」
「そう、そうなの。それくらいの」
 先生は私の言葉に頷いてくれて、それが私には嬉しくて。ただ、途中で我に返る。戦い方を知りたくても、教えてくれるひとはいない。シャミアはきっと、私にそれを与えない。他の騎士にお願いするのは難しい、士官学校の生徒たちも。結局すべて、妄想でしかない。ああ、なんて虚しい。忘れて、と言おうとしたら、先生が私をまっすぐ見据えた。
「なら、教えようか」
「……いいの? だって先生、忙しいでしょう」
「もちろん、生徒たちほど付きっ切りの指導は出来ないけど。受身の取り方とか、応急手当の方法くらいなら」
 春先の水溜まりみたいな瞳が、寄り添うほどもなく、突き放すこともなく、私を見つめる。それくらいの距離でいてくれるから、私にとってはこのひとが好ましかった。もしかしたら私は傭兵という存在それ自体に惹かれるものがあるのかもしれない、と。そんなことさえ、考えてしまうくらいに。
「それなら、先生の時間があるときに。少しだけ、教えてくれないかしら」
 ああ、余分な気兼ねを削ぎ落とすのがなんて上手いひと。縋るような思いで尋ねれば、先生はこのひと自身にも気兼ねのひとつすらないみたいに、あっさり頷いてくれた。