アンダー・ザ - 3/3

( Support A / during the war )

 浅い眠りの一番ふちで、扉を叩く軽い音がリンハルトの意識をずるりと引き摺り落とす。どうやら執務机に突っ伏して眠ってしまっていたようで、のったりと身を起こせば肩の後ろが不審な音をばきりと立てた。中途半端な惰眠から起きた頭はぼんやりしていて、現状把握に少しばかりの時間がかかる。その間にまた聞こえる、こつこつ、という軽い音。ああそうか、この音が起こしたのか。リンハルトは緩慢な動作で椅子から立ちあがると、窓の向こうへ目を向けた。いつの間にか、空が随分と白んでいる。恐らく明け方、日が昇る寸前頃だろう。
「はーい、どちら様」
 そんな時間の来訪など不躾以外の何物でもないが、大方仲間の誰かが何日も部屋から出てこないリンハルトを心配したのだろう。書庫や聖墓でなく部屋に篭もったのは久しぶりだったから、尚更に心配をかけたのかもしれない。いまの作業に向いていた場所が自室であったからそこに篭もっていただけだから、心配をするようなことなどなにもないのだが。生あくびとともに扉を開けば、朝の冷えた空気が室内に入り込んだ。想像以上の冷たさに、肩のふちが自然と震える。
「おはようございます、リンハルトさん。朝ご飯のお届けですよ」
「ああ、ロゼッタか。悪いね、わざわざ」
「お駄賃もらってますので、お気遣いなく」
 左腕に藤籠を提げた人物は少女のように笑って、曰くお駄賃なのだろう焼き菓子の包みをリンハルトへ見せてくる。もう少女と呼んでは無礼なほどに成長した人物は、それでもふとした瞬間に五年前と変わらぬ稚さを滲ませるのだ。それがリンハルトの目には、不思議と好ましく映った。彼女の無邪気さはときに面倒で、ときに厄介だが、それがなくなってしまえば彼女はもう彼女でないとさえ思ってしまう。
「今日も研究ですか?」
「まあね。実用出来るかたちになるまでは、もう少しかかりそうだけど」
「いつもながら、すごいですよねえ。いまはなんの研究してるんですか?」
「白魔法の応用。いまの魔法は術者がその都度発動させなければいけないけど、一定の条件下で勝手に発動するよう術式を組めないかと思って」
 研究に没頭するあまり規則正しい生活からかけ離れてゆくリンハルトを、仲間の多くは注意する。しかめっ面や、小言や、困り顔の溜息は自分を思い遣っているからこそのものなので、煩わしいとは思わない。しかし心配されたからといって彼らの忠告を毎回受け入れられないのが、研究者という生き物だ。
 その点でいえば、ロゼッタは非常に付き合いやすい人物であった。彼女はリンハルトの生活がどれほど乱れていようとも気にせずに、こうして体調を崩さないよう差し入れだけを持ってきてくれる。だからリンハルトも、ロゼッタが藤籠で食事を持ってくるときは彼女を室内へあげていた。折角だから紅茶の用意でもしようと指先に炎を浮かべれば、朝食の入った籠を本の山のうえに置いたロゼッタが子供のような顔で笑う。「魔法が使えるとそれが便利ですよね」その言葉のあまりの気楽さに、少しだけ笑ってしまった。
「怪我をしたときにあらかじめかけていた魔法が自動発動して治癒が可能になれば、前線の負傷率は一気に下がる。後衛へ下がって手当てを受けるまでの間に死んでしまう、なんてことも減るはずだ」
「おー、すごい。それが実現したら、私たちにとっては有難い話ですよ」
 茶器のなかに茶葉を入れ、湯が沸くまでの時間を少しの会話で埋めていく。貴族の嗜みとして最低限仕込まれてはいるがリンハルトは進んで他人をもてなすほど紅茶の用意が好きなわけでもないし、達者な腕を持ってもいない。それでもロゼッタはリンハルトのささやかなもてなしをいつも喜び、いまも「いい香りですね」と茶葉の香りに瞳を眇めている。彼女がそう言うから、ローズティーだけは常備するようになっていた。
「……でも、あんまりリンハルトさんっぽくないですね。リンハルトさんって、実践応用より研究そのもののほうが好きじゃないですか」
 茶器に湯を注ぎ、砂時計を引っ繰り返す。執務机のうえは書類で埋まっているから、机と同じ高さにまで積み上がった本のうえで。目を覚ましてしまえば空腹も連れてこられるのが人体の不思議なところで、腹部を指先で少しさすれば藤籠のうえにかかっていた布巾が取り払われた。ノアの実とベリーを贅沢に挟んだサンドウィッチを紅茶より先に頂くことにして、籠のなかに一緒に入っていた干した果実の砂糖漬けをロゼッタへ差し出す。恐らくそれは、彼女が自分の間食用に入れ込んだものだろうから。
「この状況じゃ、そうも言ってられなくてね。本当なら聖墓に篭もって、あそこの研究をしたいんだけど」
 小さなサンドウィッチをかじりながら、いつの間にかリンハルトの趣味趣向をよくよく把握するようになったロゼッタの言葉に息を吐く。そう、本当はこの研究も趣味じゃない。戦いにおいては有用だが、紋章学の深淵を紐解く手段には成り得ないのだから。そのような応用が可能になれば、自分に降りかかってくる政治的な面倒事も増えるだろうし。それを思うと尚更に、今回ばかりは自分の趣向から逸脱していた。
 砂時計の砂が落ちきったから、ふたりぶんの茶器へ紅茶を注ぐ。透き通った紅色、湯気とともに広がる僅かな薔薇の香り。甘さは控えめだが華やかな香りをロゼッタへ両手で手渡せば、リンハルトのベッドへ腰を下ろしていた女性は「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。
「でも、こうでもしないと君がいつ前線で怪我をするかもわからないだろ」
 彼女の手が危なげなく茶器を持ったことを確認してから呟けば、ロゼッタの瞳が丸くなる。熟れかけのベリーのように瑞々しい瞳が何度か瞬き、やがてくちびるが震えた。赤いくちびるの先に砂糖が少しついているのが、やたらに彼女の稚さを煽る。
「……もしかして、前のあれ、気にしてるんですか?」
「自分を庇ってあれだけの大怪我をしながらも平気そうな顔されたんだ、誰だって気にするよ」
 驚いたような表情でいるロゼッタは、いままでまるで当時の出来事を気にかけていなかったのだろう。そういう人物だとわかっていた、気にするなとリンハルトも言った。けれど、そんな彼女だからこそ最前線に立つロゼッタの背中を見送るたび、リンハルトは恐ろしさを感じ続けていた。あのときからいまに至るまで、ずっと。
 きっと彼女は死なないだろう、どれほどの怪我をしたところで生き抜くための最適解を本能で計算することが出来るのだから。しかし生き抜くために蔑ろにし続けた痛みは、いつ彼女に牙を剥くともわからない。それでも彼女は変わらないだろうから、リンハルトがこうして時間と労力の多くを割いているのだ。彼女の腕にこれ以上傷跡を増やさないために、自分がもうあのような恐ろしさを覚えないようにするために。
 自らが研究の起因になっているとは想像もしていなかったのだろう、ロゼッタはむず痒さを堪える子供みたいな顔で笑っている。申し訳なさそうな、それでも思い遣られていることを喜ばしく思うような。まったく、彼女の顔は子供よりも正直だった。
「へーえ。私、結構リンハルトさんに愛されてるんですねえ」
「まさか、今更気付いたの? ならせめて、次からはもう少し気を付けてくれないと」
 しかし照れくささをごまかすように笑っている人物の言葉には、溜息をこぼさずにはいられない。面倒事の積み重なる可能性が高いのに着手して、決して好きな分野でもない研究を続けてかたちにしようとしている、その根幹に果たして他のなにがあると思っていたのだろうか。面倒臭がりの自分がすべての面倒を甘受した選択を軽率に扱われては堪ったものではない。薔薇の香りが広がる紅茶でくちびるを湿らせながら釘を刺すと、ロゼッタの瞳がまた丸くなった。
「…………へ?」
「うん?」
 その指から茶器が傾きかけたから、彼女の指からそれとなく陶器を抜き去って机の書類うえに置く。自分のぶんは飲み干したから、空の茶器はその横へ。研究も一段落着いた、温かい紅茶と食事で空腹も満たされた、けれど執務机でくずおれるように眠ってしまっていたから眠気の靄は晴れないまま。噛み殺すことの出来なかった生あくびを漏らしながらリンハルトもベッドのふちに腰を下ろし、そのままロゼッタと壁の合間の布地に身を横たえた。
「あー、ねむ……。悪いけど適当に起こして」
「え、いやあのリンハルトさん、さすがにそれで寝るのは」
「好きなときに好きなように寝れる。部屋寝のよさだよね」
 慌てふためく彼女も外聞への関心の低さは自分とさして変わらないのだ、少し経てば開き直って隣に寝転がるだろう。少なくとも以前は、リンハルトより彼女のほうがおおらかだったくらいなのだし。
「それじゃ、おやすみ」
 面倒事も厄介事も、自分にしては随分と飲み込んだのだ。心地好い眠りのひとつぐらいはもらわないと、割に合わないというものである。


First appearance .. 2022/11/06@Privatter, another name