( Support B / in school )
かざした手のひらからひかりの粒が消え、無残にも切り裂かれた肉のふちが結びあわされる。けれど柔らかい人間の肌のうえに走った継ぎ目ばかりは、どれほど女神へ祈ったところで治りもしないだろう。まっすぐに走った太刀筋の痕跡は、いびつに爛れて膨れあがっていないことだけが幸いか。麻痺した頭がそう考え、いいや、とすぐにリンハルトは目を伏せ脳裏に浮かんだ言葉を否定する。怪我の跡が残ることに、幸いなどひとつもない。
「……終わったよ」
「ありがとうございます! さすがリンハルトさん、完璧ですね」
生々しい血の匂いがまだ薄らと残る医務室で、リンハルトの手当てを受けていたロゼッタはあっさり笑って右手の感触を確かめている。指を何度か握り込み、腕を軽く揺すっては肩をぐるりと動かして、断たれた皮膚の継ぎ目を確認するように腕全体を動かしてみせた。繋がれて間もない皮膚は張るだろうに彼女はそこに違和も感じていないようで、指がきちんと動くことに満足するばかり。たとえ傷が塞がっても、流れ出た血は彼女の体内へ戻っていないのに。視界を覆うように飛び散った鮮血を思い出したリンハルトは、椅子の背もたれに身を預けた。後頭部が何者かによって掻き回されでもするかのよう、まだ眩暈が治まっていなかった。
「ロゼッタ。君さ、いつもあんな戦い方してるの?」
鮮血を記憶から追い出そうにも医務室のなかでは薬よりも血の匂いのほうが表に浮かんでいて、ロゼッタの腕には乾いた血がべっとりとこびりついている。天井を仰ぐように首を大きく反らしながら問いかければ、少女が同じ年齢とは思えないほど稚く首をかしげていた。「そんなに変な戦い方でした?」血が苦手で、そもそも戦うこと自体が嫌いで、最前線なんて以ての外。常に後衛から味方の援護をしているリンハルトはロゼッタがどのように武器を振るっているのか、いままで直視したことがなかったのである。後衛を狙う伏兵に気付いた彼女が前線から引き返し敵へ番えた矢を放った、その瞬間まで。
「さあね。あれが正しいのか、正しくないのか、僕にはわからない」
伏兵がひとりかふたり程度であれば、ロゼッタとリンハルトだけで対処することは難しくなかっただろう。けれど森に潜伏し本陣から大きく迂回して後衛まで回り込んだ敵の数は、決して少なくなかった。だから彼女はリンハルトを狙った敵へ奇襲をかけ、彼らの注意を自らへと惹き付けた。その間に敵とリンハルトの間へ割り込み、彼を後ろへ追いやってから斧を振り落とさんとする男に剣を抜いた。切り伏せた敵の影から落とされた一閃を肩に受けながら、彼女はその動きを止めなかった。そうして自らの肩や腕を肉盾としながら敵の数を少しずつ削り、味方の助けがくるのを待ったのである。
ロゼッタの負った怪我は、すべてリンハルトを庇ったものだった。彼女の腕に貼り付いた血の跡も、医務室にひしめく生々しい匂いも、すべてがリンハルトを苦しめる。気がおかしくなってしまいそうで、耐えきれずに目を閉じた。
「けど君、敵に切られても、斧を肩に受けても、少しも怯まなかったじゃないか」
「んー、まぁそうですね」
「あそこまで攻撃を受けたら普通は痛いし、身も竦むし、身体も動かなくなってくるでしょ。それなのに、君の動きは少しも鈍らなかった」
だが目を閉じても真っ暗になった視界に血なまぐさい光景が浮かびあがってくるから、堪ったものではない。あわや肩に斧を生やしながら剣を振り抜きかねなかった人物は、その動きにまるで痛みを感じさせなかった。「君、もしかして痛みを感じないの?」恐れにも似た疑念をくちにすれば「まっさかあ! 切られたら当然痛いですよ」ひどくあっさりとした口調で否定される。しかし彼女のなかに痛みが存在しているならば尚のこと、リンハルトのなかで疑問が膨らむ。だってロゼッタは、敵の刃に少しも恐れを見出さなかった。
「……ならどうして、あんな風に動けるんだ。痛みがあるなら、もっと自分を守りながら戦えたよね」
騎士のように己を奮い立たせるのではない。ただ彼女は、深手を負ってもなお変わらぬ調子で武器を握り続けていた。それがリンハルトには理解出来ず、そして恐ろしいのである。もしもロゼッタが人並に痛みを感じないのであれば、もしも感じた痛みを無視することが出来るのならば。彼女はいつか、戦いのさなかで命を落としてしまいかねない。そんな危うさが、血の余韻とともに医務室のなかへ充満していた。
「んーとねえ……さっきも言ったけど、怪我したら痛いですよ? でも敵の前で痛がってたらそこに漬け込まれるだけだし、動きが鈍れば狙われるじゃないですか。周りに他のひとがいればそっちに頼りますけど、そうじゃなかったら隙を見せずに倒すのが一番生存率高いっていうか。とりあえず敵の数を減らさなきゃ死ぬかもしれないんですから、痛がるより先にそっちかなって」
彼女の言葉は、ある種の正論なのだろう。けれどロゼッタの右半身に圧し掛かったものは、小さな針で指を差してしまった程度の痛みとはわけが違うのだ。それをまるで小さな刺し傷のように扱えてしまうことが、やはりリンハルトには恐ろしかった。彼女のその判断力があったからこそリンハルトは傷ひとつ追わずに難局を乗り切ることが出来たのだが、だからこそ。ロゼッタの冷徹なまでの判断を、正しさと称してはならないと思った。
「……僕は、痛がるほうが先だと思うけどな」
「えー、そうですか? そんなことしてる間にまた切られたら、そっちのほうが洒落にならないですよ」
「ああ、うん、そうかもね。ロゼッタは気にしなくていいよ、僕が勝手に言ってるだけだから」
人間の思考や発想は、そう容易く変えられるものではない。頑固な幼馴染を持っているからこそ、他人に変容を求めることの難解さをリンハルトはよく知っている。ならば言葉を重ねて他人にそれを強いるのは、リンハルトにとって大きな面倒事だ。そんな面倒事を好き好んで選択するような性格には生憎と育っていないから、困ったような声を出しているロゼッタへ緩く首を振ってみせた。
生存のための合理性は生き抜くうえで正しい強さなのだろうが、リンハルトにはどうにもそれが厄介なものに見えて仕方ない。
そんな厄介事さえなければ、生きるために重傷を負うこともなかったというのに。