マイ・ロード - 2/3

( Support B / in school )

 ありがとうございました、と明るく響く声を背に受けて、ゆっくり閉まる扉の音を聞く。エーデルガルトのすぐ後ろで扉が閉まりきるまで手を振っていたロゼッタは、やがて軽い足取りで彼女の隣にまで並んだ。週末の市街地は東から行商人が訪れているせいもあり、普段に比べても一際賑やかだ。
「こんなところにあれほどの腕の鍛冶師がいるだなんて、思いもしなかったわ」
「あのおじさん、兄様の御用達なんですよ。武具のことなら兄様に聞いておいて正解でしたね」
「ええ。帰ったらフェルディナントにもお礼を言わなくてはいけないわね」
 日々の鍛錬や課題で摩耗した武具を打ち直そうと鍛冶屋を探していたエーデルガルトに、良いところを知っていると声をかけてきたのはロゼッタだった。武具の収集を趣味としているフェルディナントはそれらの手入れや鍛冶師についても殊に詳しく、兄からよく話を聞いているため彼女もまたそういった事柄に関してはそれなりに情報通であるらしい。「あそこは奥さんの作るお菓子がとっても美味しいんですよ」だなんてことまで耳打ちされるとは思ってもいなかったし、更には鍛冶師に口利きをした流れで件の人物から焼き菓子を渡されるだなんて、もっと想像していなかったのだが。帰ったらこれでお茶にしましょ、とご機嫌に笑う少女の人懐っこさたるや、エーデルガルトにはとても真似することが出来そうにない。
 この愛嬌は彼女の美徳だとくちもとを綻ばせていたのも、しかしながら束の間のこと。賑わう街の大通りを歩くなかでも、喧噪に溶けきらない鋭さが混ざっている。後頭部にそっと刺さる針のような違和感は、それなりに馴染みのあるものであった。命を狙う者であろうと、誰かとの交渉材料に身柄を確保したがる者であろうと、ただの間諜に過ぎなかろうと、どれもエーデルガルトの日常の端を日常的に侵している。
「それなら、早く帰りましょう。あまり悠長にしていたら、お茶よりも先に食事の時間が来てしまうわ」
 しかしエーデルガルトにとっては日常の一端に過ぎなくとも、ロゼッタにとってはそうではない。政敵の多いエーギル家の娘でこそあるものの、家督相続者やその近親に被害が及ぶようなことはその実あまり多くない。その命や身柄を狙われるのは、得てして国そのものを継ぐ立場にある者なのだ。自分の都合に級友を巻き込むわけにもいかない、そうなれば彼女にはいち早く修道院の敷地内へ入っていてもらう必要がある。日々と変わらず言葉を繋ぎながらすぐに寄り道しかねない少女を誘導していると、ロゼッタは軽快な足取りでエーデルガルトより一歩先に踏みだした。
「はあい。なら、近道して帰りましょ。こっちから行くほうが早いですよ」
「っ、ちょっと、ロゼッタ!」
 彼女は腕に焼き菓子の包みをしっかり抱きながら、大通りを外れて小路へ滑り込む。確かに大通りを迂回して修道院の表門をくぐるより、小路を通り抜けるほうが早くはあるけれど。死角も多く薄暗い空間を選んだ少女を慌てて追いかけ、駆け出しても尚エーデルガルトの三歩先をゆく少女の影の端を捕まえるべく角を曲がる。それを三度繰り返した瞬間、エーデルガルトの背が弱く押された。息を飲みながら体勢を整えた次の瞬間には、髪先のすぐうえに走る風。背を壁に託しながら懐に手を入れたエーデルガルトの目に映ったのは、見るからに小汚い悪漢を壁に縫い留めているロゼッタの姿であった。
「あれで尾行してるつもりかよ、ヘッタクソ」
 男の首元には手のひらに収まる程度の小ぶりな刃。鍔のない短剣は護身、もしくは暗殺に用いられる形状のものだ。エーデルガルトが懐へ忍ばせているのと同じく、彼女もまた刃を隠し持っていたのだろう。首の薄皮を剥ぐように薄らと刃を肉へ食い込ませながら、彼女は淡々と声を紡いでいた。
「雇い主と目的。言わねえなら殺す」
「ヒッ……!!」
 それは、明らかに場慣れした人間の振舞いであった。息を飲んだのも一瞬のこと、エーデルガルトはすぐに思い直す。エーギル家の令嬢には、経歴に不審な痕跡が多いのだ。元はフェルディナントひとりしか子がいないとされていたのにも関わらず、エーギル家が主催を務めた舞踏会で突如娘の存在が公表された。帝国には追って届出を出されたが、そのような書類も宰相ほどの立場となれば幾らでも偽造が効く。そのため彼女は私生児だ、不義の子だと、いまでも陰ながら囁かれている。
 だが、ただの私生児にこのような状況の主導権を握ることなど不可能だ。それこそ、エーデルガルトやヒューベルトのように血なまぐささと縁を持っていない限り。だからこの瞬間、それまで九割ほど確証を得ていた推測は確信に変わった。彼女は私生児などではない、それを装った小さな刃だ。
「五秒以内。五、四、三」
「ロゼッタ。いいわ、解放して」
 無力な小娘に首を狙われたせいだろう男は完全に委縮しており、このままではくちを割らせるのにも時間と労力がかかるだろう。ガルグ=マク修道院の袂ですらこのような暴挙に及ぶような相手など、くちを割らせるまでもなく目星は付いている。短く命じればロゼッタはあっさりと刃を引き、悲鳴にも似た声をあげて哀れにも走り去る男をただ見送った。
「エーデルガルトさんも大変ですねえ。あんなのにしょっちゅう目を付けられてたら、買い物ひとつも楽しめないじゃないですか」
 護身用の短剣を懐にしまい込んだロゼッタは、まるで何事もなかったかのようにエーデルガルトへ笑いかける。それと同時に突き出された拳は、なにかを渡さんとしているのだろう。エーデルガルトが左の手のひらをその下へ向ければ、見るからに高級な宝石の粒。色の深さと形状からしても産地を割り出すのは容易く、そうなれば先ほどの男の雇い主に辿り着くのも時間の問題だ。エーデルガルトが確かにそれを受け取って懐へ押し込めば、ロゼッタは子供のように笑って人差し指を自らのくちびるへ押し当てた。
「兄様には内緒にしててくださいね。手癖が悪いって知られたら、行儀悪いって怒られちゃうから」
「あら。内緒にすることは、それだけで良いのかしら」
 ころころと無邪気に笑っている少女の正体を、きっと彼女の兄は知らないのだろう。だからこそフェルディナントはロゼッタを妹として育み、導き、そしてこころから慈しんでいるのだ。彼女の懐にしまわれた刃をやんわりと指摘すれば、ロゼッタの笑みが深くなる。そこに言葉はなかった、けれどそれこそが彼女の答えだ。頭の奥が冷たくひりつく。ロゼッタが宰相エーギルの守り刀であるならば、彼女に信頼のすべてを置くことは出来ない。
「……そうね。たまに、貴方が買い物に付き合ってくれるなら」
 だが彼女が咄嗟の判断でエーデルガルトの命を守り、敵の身元を割り出すための有力な手がかりまでくすねたこともまた事実。
「もっちろん! じゃあ次は、南の行商さんがくるときにお買い物しません? 見たことのないお花の種とか、あと珍しい紅茶とかがあるんですよ」
 その彼女の判断を、屈託なく次の予定をくちにする姿を、遠い未来では信じることが出来るのだろうか。