( Support A / during the war )
かつての栄華もどこか虚しく、生徒のひとりも在籍していない士官学校の傍。庭師がいなくなったせいで五年前に比べれば平原のようになった庭に転がって、頭のなかをくるくる回す。水車のように水が流れればきちんと動いて役目を果たすものであれば良いのだが、いまロゼッタのなかを占めているのは単身の問答で解決し得ぬもの。正答ないし最善がわかりやすく設けられた内容であれば答えを導きだすのも容易いが、こればかりは彼女に最善を決められない。だからこうしてぼんやりしているときには、手慰みのように考えてしまうのだけれど。芝生と呼ぶには荒れた草を絨毯に寝返りを打っていれば、草を踏み分ける軍靴の音。耳慣れた鎧の音に、ロゼッタはころりと転がってから身を起こした。
「兄様、休憩ですか?」
「ああ。お前こそ息抜きをしているように見えたが……それにしては険しい顔ではないか」
草のうえで寝転がるなど昔の兄が見れば怒られ説教をされていただろうが、いまとなってはその小言も懐かしい。部下や市民の前では真っ当に振舞っているから、人目のないところでの息抜きにはくちうるさく叱られることもなくなったのである。それは誇らしくもあるけれど、少しばかりさみしいのも事実。我儘な妹ごころに内心苦笑しながら、ロゼッタは芝生を叩いてフェルディナントを隣に招いた。
「ちょっと考え事してました」
「それは、兄にも話せないことかね」
「兄様にしか話せないことですよ。いまとなってはどうしようもないことでもありますけどね」
かつてアドラステア帝国で栄華を誇った宰相エーギル家の嫡男と息女が荒れた芝生で語らうなど、五年前からは想像もつかなかっただろう。戦は世界のかたちを大きく変え、自分たちの在りようもそれにあわせるかのように変わっていった。貧民街で生まれ育ったロゼッタにとっては自分を取り囲む世界の変容も初めてではなかったからあるがままに受け入れて足元を踏み固めていたが、フェルディナントはロゼッタではわからぬ苦労も多かったに違いない。そんな彼の心労を増やしかねなかったから、いままでくちを開かなかったのだけれど。こうして顔を覗き込まれてしまっては、なんでもないですと言うことも出来なかった。ロゼッタは嘘をつくことが苦手でもないしそうすることに罪悪感も覚えないが、どうしてか兄にだけは嘘のひとつも吐くことが出来ないのである。
「前にもちょっと話しましたけど、私ね、父上と約束してたんですよ。いまから思えば、あれって雇用契約だったんですよねえ」
「……親子の縁を結ぶにしては、随分と余所余所しい表現だな」
「じゃあ私と父上は親子じゃなかったんですよ、きっと。私と兄様は兄妹ですけど」
フェルディナントが守ると言ってくれてはじめて反故にした、それまで愚直に守り続けていた父との約束。あの夜にフェルディナントと出会わなければ自分はきっとそれを守ることを選び、そして命を落としていただろう。父となった男とは、そういう契約を結んでいたから。僅かに眉をひそめた兄へ笑って、ロゼッタは天高くに昇る太陽を見上げた。
「私、最初は父上のこと殺そうとしてたんですよ。そういう仕事だったから」
「父がお前を連れて帰ってきたのは……確か、南の港町へ視察に行ったときだったか」
「さすが、よく覚えてますね。……子供なりに頭働かせて、懐までは行ったんですけどね。私兵に取り押さえられて殺されるってところで、持ちかけられたんですよ。娘にならないか、って」
それは、娘とは名ばかりの彼の手駒だった。社交界では父の隣に立ち、噂話へ耳を傾けては真実に近い情報を父へ伝えた。領地の視察へ回るときには見聞を広めるという名目で以て護衛を務め、かつての自分のような凶刃を叩き落とした。そして未来は、彼にとって最も都合の良い相手と婚姻を結ぶ手筈となっていた。偶然にも彼の妻と似た目鼻立ち、彼と同じ髪の色。娘と呼ぶ無理を通せるほどには似た容姿の、周囲の油断を誘いやすい幼子の、賊徒の思考をよく知る立場は、有用な手駒になると判断されたのだろう。再度その命を狙う可能性もあるために長らく監視を受けながらも、結果としてロゼッタは正式にエーギル家の娘として公表された。
「ほんっと、いま思うととんでもない契約内容ですよ。内容問わず、父上の命令はなんでも聞かなきゃいけないんですから」
「……それを雇用契約と呼ぶからには、お前に報酬はあったのか」
「ありましたよ。「お前を死ぬまで餓えさせない」って。私はそれで父上の話に乗った。あのときは泥水と腐った野菜屑だけで餓えを凌いで生きてましたからね」
ロゼッタに学を与えられなかったのは、知識を得れば飼い犬がやがて牙を剥くとわかっていたからなのだろう。事実、フェルディナントによって育まれた知識と知見で以てロゼッタは父の命に背いた。処断される彼を助けに向かうこともなく、兄とふたりでエーギルの名だけを継いでいる。そのことを思えば、父の判断は間違っていなかった。彼にとっての想定外は、恐らくただひとつ。自ら血を分けた息子が、そのような選択を嫌う清廉な魂の持ち主であるということだけだ。
「でも、父上が先に死んだときはどうするって話はしてなかったなーって。こういうのは、家督の継承者が引き継ぐものなんでしょうけど」
「ローザ、私にそんなものを継ぐ気はない。わかりきったことを言わせないでくれたまえ」
彼女がエーギル家に名を連ねているのも所詮は名ばかり、ロゼッタを娘とした人物が死んだいまとなっては自分の立場も風が吹けばそのまま崩れ去る程度に脆いもの。別段そこに固執する気はなかったから自分の進退はフェルディナントに一任しても良かったのだが、彼が告げた通り、兄がなんと答えるかなどわかりきっていた。ロゼッタと父は親子の皮を被った雇用関係でしかなかったが、父はそれを妻と息子に終ぞ伝えなかったのだから。
「……あはは。そうですよねえ」
だが、だからこそ最善がわからない。雇用主が死にその関係が瓦解したいま、自分はどこに属する存在なのか。すべてを打ち明け相続破棄された自分は、果たして何者なのか。まあこの戦いが終わるまでは将校の立場を与えられているからそれで良い、戦後のことは終わりが見えた頃にでも考えよう。そう息吐いていると、不意に身体が傾いた。どうやらフェルディナントに、肩を抱き寄せられたらしい。
「お前は私の部下でも家令でもない。お前はロゼッタ=フォン=エーギル、私の妹だ。そうだろう?」
「にい、さま」
「もちろん他に望むものがあるのならば、それを選ぶのはお前の自由だ。お前は一番好ましいと思ったものを選びなさい、私はそれを必ず守ってみせる」
まるで子供に対してそうするかのように抱き締められ、髪の先を撫でられる。そして瞳が、まっすぐぶつかる。ロゼッタとは違う色の、暮れる直前の太陽をふたつにして嵌め込んだみたいな色の瞳。彼女をずっと慈しみ、守り、導き続けた色だ。その瞳を見上げていればそれだけでこころは凪ぎ、散らばっていた思考のなかからたったひとつを見つけ出すことが出来る。好ましいと、そうであれと。願うこころのまま頷いて、フェルディナントの肩口に額を摺り寄せた。
「……はい。はい、フェル兄様」