マイ・ローズ - 2/4

( Support B / in school )

 夜も疾うに更けた頃、教室前の長椅子に腰かける。月明かりの下で広げた羊皮紙が上等なものであることくらいはわかる、その程度の目利きは出来るようになっている。けれどそこに綴られた言葉、流麗な文字に込められた意図、それらを汲み取りどうするべきかを即座に判断出来るほどには賢くもない。元々無学だったロゼッタは生まれながらにして教養豊かな環境で育った面々と比べれば、未来の裾野を広く見通したうえでなにかを選択することを得手としてはいなかった。
 長椅子のうえで膝を抱え、浅く息を吐く。さてこれは、どうするべきか。ひとの気配が薄い闇夜で思考をくるくる水車のように回していると、遠くから誰かの足音。咄嗟に顔をあげて懐に手を突っ込みかけたものの、土草を踏む足の音は耳にも馴染んだ重さをしていたから、ロゼッタはすぐにその構えをほどいた。
「ロゼッタ。どうしたんだ、こんなところで。あまり夜遅くにひとりで出歩くものではないぞ」
「ごめんなさい、兄様。ちょっと考え事してて、風に当たってました」
 ロゼッタを探しにきたのか、それとも彼も夜の散歩をしていたのかは定かではない。けれどフェルディナントがここへ訪れたのだから、それもまた一興。少しばかり険しい顔で小言をくちにする兄に笑って頭を下げていると、フェルディナントはやがて彼女の手にしている羊皮紙に気付いたようだった。「それは……父からか?」封蝋の印章を見れば、エーギル家の手紙であることは一目瞭然。けれどロゼッタにだけ手紙が寄越されるようなことはいままで一度もなかっただけに、フェルディナントは怪訝そうに眉をひそめていた。
「父上から、戻ってこいってお手紙です。どうしても私が必要になりそうだからって」
「……それは、どういうことだ?」
 それが嫡男ではなく妹だけを呼び戻そうという手紙であれば尚のこと、フェルディナントの眉間に刻まれた皺は深くなる。けれどロゼッタはそれに答えるための言葉を持っていなくて、曖昧な顔で笑うことしか出来なかった。
「そういう約束をしてるんです。父上と」
 けれど険しい顔でじっと見下ろされれば言葉を出さないわけにもいかず、辛うじて語ることの出来る境界線上に立って告げる。それ以上は、もう。そういう約束を、父としているから。彼に拾われ、エーギル家の子供になるよう持ち掛けられたその瞬間に。
「……ならば、戻るのか」
「戻んなきゃ、いけないんですけどねえ」
 彼の命令は絶対だ、そういう約束でロゼッタはいまの立場を与えられた。そしてわざわざ外部に出しているロゼッタを呼び戻そうとしているのだから、宰相エーギルの周辺はロゼッタが想像している以上にきな臭い情勢へ変わりつつあるのだろう。ともすれば戦乱の予兆、それほど大きいものではなくとも内乱の火種くらいは見えるほどに。それならばロゼッタは明日にでも荷をまとめ、級長と担任教師へ「家庭の事情」と告げて士官学校を去らなければならない。
 そうあるべきだとはわかっている、なにせそれが約束なのだから。無知な自分が結んでしまったとはいえ、約束は約束だ。自らが一度頷いてしまったのなら、その約束は守らなければいけない。
 けれどフェルディナントに知識を注がれ、士官学校で知らぬものを見た瞳は、流麗な文字を読むだけで警鐘を鳴らすのだ。愚直に帰って良いのかと、そうすることでどんな未来が見えるのかと、警戒を促す音が耳の奥から鳴り響いている。だがその鐘の音がうるさくて、頭のなかがまとまらない。だからロゼッタは、長椅子のうえで世界が静まり返るのを待っていたのだ。
「お前は、戻りたくないのだな」
「……戻ったら、後戻り出来なくなる気がするんです。もうここに帰ってこれないと思う。本当にそれでいいのかが、わかんないです。……そうするべきか、見極められない」
 父がきな臭さを覚える相手など政界の現状を考えればすぐわかる、十中八九親皇帝派の派閥の者だろう。しかしロゼッタは父とは違い、彼らが自らと敵対する立場にいるとは思っていない。だって少なくともいまの帝国の在り方は、彼女も良しとしていない。だから現在の政治を支える父の下へ戻ることに、こんなにも抵抗感を覚えている。
 それに、どうしてか。貧民街を生き抜いた生存本能が、ロゼッタ自身へ訴えているのだ。戻れば死ぬ、と。だから戻りたくなかった、死にたくないから。
「ロゼッタ。焦って結論を出す必要はないから、落ち着いて考えなさい」
「……はい」
 言い知れぬ恐怖に警戒して瞳を眇めていると、それを宥めるように穏やかな声が降ってくる。フェルディナントが長椅子に腰を下ろしたから、ロゼッタは抱えていた膝をほどいて隣の兄へ目を向けた。じっと無言で瞳を見つめていても、フェルディナントはそれを咎めない。そうすることでロゼッタが落ち着きを取り戻すのだということを、彼はよく知っていた。それも当然だ、十年前からずっとこうしてきたのだから。
「父との約束のことは一旦忘れて、自分がどうしたいのかを考えれば良い。お前にとって一番「良い」と思える未来はどれなのか。お前が一番好ましいと思った未来に繋がるのは、どの選択なのかを」
 静かに語り聞かせるような声に身を委ね、浅く首を縦に振る。フェルディナントの瞳をじっと見上げて、未来を探す。
 自分が一番良いと思うのは、兄が明かりの下で語る理想だ。私腹を肥やし帝国領土から貴族が搾取を続ける循環は良くないと、そう思う。領民を守り導くのが領主の務めならば、税はもっと領民に還元されるべきだ。一部の帝国貴族に権力が集中している構図も良くないと思う。それでは国が偏った方向にしか動かなくなってしまうから、もっと権力は分散させ釣り合いを取らせるべきだ。現状の一方的な搾取に寛容な有権者には、従いたいと思わない。
「……ここにいたい。私は、兄様と同じ未来が見たい」
 戻りたくない、と。そう告げると同義の言葉を、兄の瞳を見上げながらまっすぐくちにする。それにフェルディナントは柔らかく微笑み、ああ、と頷いた。「よく決めたな、ロゼッタ」その称賛に、冷たく凝り固まっていた心臓の辺りが僅かに熱を持った。夜風に晒されて冷えた指先へ温もりが灯る。きっと兄はこの答えでなくとも、ロゼッタが考えて出した結論であれば同じ称賛を彼女に与えただろう。そう信じられる幸福に、柔らかく息吐いた。
「お前が考えて決めたのであれば、そうするべきだ。お前の決断は、私が守ろう」
「……本当に? 私、戻らなくていいんですか」
「ああ。そのせいで父になにをされようと、私がお前を守ってみせるさ」
 フェルディナントの言葉に、眦を緩ませながら「はい」小さく頷く。子供の頃のように甘えてその肩口へ身を寄せれば、呆れたように笑いながらも背中を緩く撫でられた。冷たくなっていた身体にフェルディナントの体温はとてもよく染みて、動物みたいに身体を丸くさせる。右手に収まっていた上等な羊皮紙を懐へ適当に突っ込んでいればそれだけは「もう少し丁寧に扱いたまえ」と怒られてしまったが、いまはその小言も心地好かった。
「兄様」
「どうした」
「私、兄様の妹でよかった」
 甘えれば腕のなかに入れてくれるからでもない、知識の泉を分け与えてくれるからというだけでもない。フェルディナントはこの世界で一番に、ロゼッタの意思を見つけてくれた。彼女自身の望みと選択を探し、それを模索するために必要だと判断して学を授けた。そうして時間のかかるなかでようやく選び出した彼女の決断を尊重し、それを守るとさえ言ってくれる。
 きっとそんなひと、世界にふたりといないから。「ありがとう、兄様」あたたかい腕のなかで呟けば、そっと身体を抱き締められた。
「当然だ、そんなこと。ローザ、私の可愛い野ばら。お前を守り育てるのが、兄の務めなのだから」