空は落ちてこない - 2/2

 アアル村まで連れ帰った無法者たちは警護に当たっている三十人団に引き渡され、ラフマンたちが護衛につくかたちでキャラバン宿駅まで連行されることとなった。拠点の遺留品の捜索が完了するまで事実の断定は行われないものの、恐らく彼らがスメールの街道で繰り返されている襲撃事件の主犯であることには間違いない。三十人団の地図へ印をつけたのちに彼らを見送り、イクリマは小さく息吐いた。
 イクリマとアルハイゼンは事件解決の功労者として、アアル村で手厚い歓待を受けることになった。イクリマは務めを果たしただけなのだからともてなしを断ったのだが、そこはそれ、キャンディスが譲らない。「前回も今回も、私たちは貴方の厚意に救われているのですから。ご恩に報いる機会も頂けないのですか」強い瞳でそう告げられてしまえば、それ以上の拒絶をすることも叶わなかった。
 そうして村長の家で贅沢に食事を振舞われるも、イクリマの喉はいつもに増してそれらを通そうとしない。身体の内側は未だ警戒に引き絞られており、キャンディス手製のコシャリの味もあまり感じられなかった。
 食卓は奇妙な静寂が支配しており、村を脅かす危険が去ったことへの安堵と歓喜の声は遠い。なんとか食事を飲み下して果実水に指を伸ばしていると、自然な動きで瞳を向けられた。
「イクリマ」
「はい」
「君のその明らかな警戒は無意味なものだ。なにに神経を尖らせているかは知らないし、君がどう俺を警戒しようと君の勝手だが、せめて時と場合を考えることだな。無駄な警戒で周りを刺激しては、余計な面倒を生むだけだ」
 そうしてまた、淡々と声が響く。しかし告げられた言葉はあまりにも無神経なもので、イクリマの眦は彼の意識の制御を外れてつりあがった。
「お言葉ですが、そうさせたのは貴方です」
 果実水のグラスを掴む代わり、イクリマの指が自身の首を緩やかに撫でる。特徴的な虹彩の向こう側で常に息衝く知欲の怪物を指差せば、アルハイゼンはくちを噤んだ。その瞳に呆れのような感情が浮かんでいたから、それを強く睨みつける。
「ただ確認をしただけで、そこまで警戒されるとはな」
「あれほど嗅ぎまわろうとしたことを、ただの確認と?」
「事実だろう。君の回答を受けて以降、俺が君を暴こうとしたことはないはずだが」
 そもそも彼と接触する機会自体が多くないのだ、アルハイゼンの言葉に嘘はない。けれどそれでも、彼への警戒を解くことが出来ずにいる。なにせイクリマの孕んだ叡智の血肉を望んだ本能は、確かに彼のなかに存在しているのだ。知欲の本能と目があってしまったが故に引き攣る意識のありようなど、アルハイゼンには永劫わからないだろう。当事者である彼は、その獣と目をあわせることが出来ないのだから。
「ですが、機会があれば暴くのでしょう」
「君がそれに応じるのであれば。だが、君にそのつもりはないのだろう? 起きない可能性への警戒など、やはり無意味と言わざるを得ないな」
 獣の所在を確認すれば、アルハイゼンは腹のなかに潜む存在を隠すこともなくその頭を撫でている。彼はその獣が解き放たれることはないという、けれどその確証はどこにもない。イクリマはいつの間にか重ねあわせていた自身の指先同士を、強く握り締めた。
「起きない、と。貴方がおれを暴かない、その証拠がありますか」
「逆に聞かせてもらいたい。どうして君は、俺がそうまでして君を暴くと思っているんだ?」
 そうすれば君は、もの言わぬ存在とやらになるのだろう。いつかの言葉が正しく復唱され、イクリマは静かに肯定する。それを受けたアルハイゼンは、またその瞳に呆れを浮かべて浅く息を吐きだした。
「その言葉が具体的になにを意味するのかまでは知らないが、俺が君を暴くことで、君は現状のなにかしらを放棄することになるのだろう。だが生憎俺は、他人の尊厳を犯す趣味はない」
「……何故」
「だから、それは俺が尋ねている。どうして他人を犯してまで知識を得る必要があると思うんだ」
 問答が巡り、眉をひそめる。一貫して変わらない主張の根底を尋ねてなおアルハイゼンのくちから明快な論理がこぼれることはなく、それは理屈に基づいた発言しかしない彼らしからぬ言論だ。だがその理由がわからずに反論を探っていれば、やがてアルハイゼンがその眉間に皺を寄せた。「呆れたな」今度こそ感情が言語化され、きっと睨む。けれどアルハイゼンは、イクリマの目線など頬に当たる砂のひと粒ほどにも感じていないようだった。
「たとえばここにザイトゥン桃があったとする、けれどそれは他人のものだ。桃を食べたかったがために交渉を持ちかけたが、決裂した。ならばそのあと、持ち主を傷つけてまでその桃を奪い取るか? 普通はしないだろう」
 食卓の皿に乗ったザイトゥン桃をつまんだアルハイゼンは溜息とともにそう語り、よく冷やされた桃をイクリマの取り皿のうえへと転がす。セトスならば喜んで皮を剥くだろう桃をしばらく見下ろしたのち、イクリマはやがてアルハイゼンへ瞳を向けた。
「……そのような、理由で?」
 つまり彼は、イクリマが拒絶をしたから腹のうちで飼う獣に轡を嵌めたのだという。肥大化した醜い欲望により幾度となく砂漠の民を裏切り続けた雨林の学徒が、彼らの欲しがる知識よりも、なんの権力も持たない砂漠の命を優先させた。
 それはイクリマにとって、俄かに理解し難い状況だった。先祖の受けた屈辱というだけではない、イクリマ自身も教令院の学生から無意識の傲慢に蔑まれ続けている。ならば彼も草神に与えられた役目から外れれば、所詮は同じ身勝手さでイクリマに牙を立てて叡智を啜るのだと警戒し続けていた。
 それが覆される、あまりにも呆気なく。眼前の人物が信じられずにくちびるを震わせていれば、アルハイゼンの眉間に寄せられた皺が僅かにその深さを増した。
「まさか、最低限の道徳すら持っていないと思われていたとはな」
「それは、貴方があのような顔をなさるから」
 揺らいだことのない主張を疑われ続けていたことへアルハイゼンは苦い表情を浮かべているが、怪物の本能が首元に擦りつけられる恐怖を知ればイクリマの言い分にも同情の余地はあるだろう。惜しむらくはやはり、アルハイゼンだけはその怪物の目を見ることが出来ないのだという事実である。
「まぁいい、これで君の認識も改められただろう。今後は態度も改めてもらいたいものだな」
 それでもやはり、彼の語調に釈然としない感覚を得るのは何故だろう。どうにも素直に頷き難く、イクリマはささやかな逡巡ののちに取り皿のうえへ転がっていたザイトゥン桃をアルハイゼンの器へ移した。
「……何の真似だ?」
「生の果肉は、あまり得意ではないので。それは貴方がお召し上がりください、アルハイゼンさん」
 血肉に刻まれた砂漠の叡智を彼に明け渡すことはない。だが彼が本当にイクリマの意思を尊重するというのなら、果実ひとつぶんの信頼は示すべきだろう。アルハイゼンへ笑みを見せれば、彼は溜息ののちにナイフで果物の皮を剥いてゆく。その器用な指先を眺めながらイクリマは久方ぶりにスプーンを握り、コシャリに舌鼓を打った。