守られるべき無垢な日々 - 4/4

雨林の部屋の片隅で、柔らかな髪を梳る。寝室のベッドへ腰を下ろしたセトスの後ろで長い髪に櫛を通す時間は、イクリマにとって最も心地好いものだった。そうっとひと房ずつ掬いあげ、髪が軋むことのないよう丁寧に梳いてゆく。セトスはときどき無邪気に頭を揺らすが、それに身体の動きをあわせることすら幸福だった。
「まさか、いまどき強盗団とはね。捕まりたくないなら、そろそろ潮時だと思うけどな」
「そうなのか?」
「スメールは自治組織の体制が安定してるからね。向こうの狙いも辺境の集落じゃなく、人通りの多い街道だ。このままだとよっぽどの作戦がない限り、捕まるのも時間の問題だと思うよ」
セトスが案内人の勤めを終えてスメールシティへ戻ったのは、イクリマがアアル村から戻った二日後のことだった。街道を経由して砂漠と雨林を行き来していたセトスも当然ながら今回の騒動を耳にしていたようで、僅かに空気のひりついた雨林の様子へ淡く息をこぼしている。
だがセトスの推測は既に事態の終息を見出しており、イクリマはその言葉に安堵する。あらゆる側面において優れた目を持つセトスの先見は、およそ外れることがなかったからだ。
「それならよかった。犯人が尻尾を掴ませないとタヘルが困っていたから、少し気になっていて」
「ああ、それも聞いたよ。拠点の特定に難航してるらしいね。そろそろ密林地帯の捜索が始まるみたいだ」
けれどどうやら、彼らは未だその尾を掴ませてはいないらしい。「それか、街道で陽動作戦ってところかな」三十人団の動きを予測するセトスの声に弱く頷くと、彼の頭がゆらりと揺れた。万が一にも彼を傷つけることがないよう櫛をほどけば、美しい新芽と大地の色をまとった瞳がイクリマへと向けられる。心配? 囁くような問いかけに首肯を返した。
「キャラバンが機能しなければ、アアルは困ってしまうだろう? それに、もし犯人が砂漠側を拠点にしていたら、と思うと」
「……そうだね、その可能性もゼロじゃない。防砂壁を利用したら、簡単な拠点は作れるわけだし。三十人団も犯人がエルマイト旅団じゃなさそうだって考えた時点で、砂漠に拠点がある可能性は除外してるかもね」
アアル村へ訪れる行商人の数が減っている、とは既にキャンディスからも聞いている。事態はやがて終息するだろうけれど、長期化してしまえば困窮するのは弱い立場のものたちなのだ。それに強盗団の拠点がもし砂漠にあったのなら、有事の際に被害はきっと飛び火してしまうだろう。イクリマにはどうしても、それが恐ろしかった。
「……もしそれで、アフマル様のご威光を傷つけられてしまったら」
侵入者の身勝手に砂漠の民が苦しめられること、そしてなにより、かつての王朝が野蛮人に踏み荒らされてしまうこと。それはイクリマにとって、なにより許し難い罪業だ。
それらは可能性でしかなく、事実がどこにあるのかも彼にはわからない。だからこそ浮かぶ不安と憤りを飲みこんでいれば、不意に頬を撫でられた。あたたかな手のひらに顔を持ちあげられ、いつの間にか俯いていたことを知る。
「大丈夫だよ、イクリマ。そんなことは起こらない」
「……ああ」
穏やかな声は夜に聞こえる風砂の囁きによく似ていて、イクリマの心中で蠢いていた影を容易く追い払う。彼の言葉に頷きながら目を伏せれば、戯れのように眦をなぞられた。慰めのような手のひらの動きを受け入れてしばらく、指はやがてほどかれる。瞳の先で、セトスは普段と変わらない笑みをイクリマへと向けていた。
「まあでも、少し調べておこうか。明日にでも帰って、僕たちも砂漠の確認といこう」
「ああ、もちろん」
沈んだイクリマの意識を掬いあげた指の指し示した先に、彼は迷いなく頷いてみせる。それにセトスは満足そうな笑みを浮かべると、その身の向きをくるりと変えた。
「それじゃあ寝る前に、もうちょっとお願いしたいんだけど」
「ふふ、そうだな。もう少しだけ、時間をおくれ」
そうしてほどかれた髪がまた差しだされ、イクリマは微笑を一層に深くさせながらセトスの髪を掬いあげる。幸福な時間のほころびを縫いあわせた施しへ応えるように、柔らかな髪をまた、梳った。


First appearance .. 2024/09/22-10/12@X