広大な砂漠の片隅で、熱の篭もった息を僅かに吐く。けれどそれは慣れたものだ、目を焼くほどのひかりすらイクリマにとっては心地好い。荒れた土くれを踏みつけながら砂の混ざる地面を進み、目的地にはほどなくして到着する。外套のフードを下ろしながら「こんにちは」声をかければ、フォディルはその瞳を親愛に眇めた。
「よう、イクリマ。今日はどうした?」
「お届け物に参りました。薬の原料が、そろそろ少なくなっている頃かと思いまして」
「いつもすまねえなぁ、そんなところまで気にしてもらっちまって。マルフ先生も喜ぶよ」
砂漠と雨林の間に高くそびえた壁の存在が和らいでなお、砂漠の集落が抱える問題に解決の兆しは見られない。砂漠を横断する行商人や学生たちに対して開かれた場であるアアル村でさえ慢性的な貧困に喘いでいる状態だったから、イクリマは村に繋がる吊り橋を渡りながら密やかに溜息を吐きだした。
「あら? こんにちは、イクリマさん。今日はどうかされましたか」
「こんにちは、キャンディスさん。マルフさんへ、お届け物です」
だが清貧と生きる砂漠の命を身勝手に憐れむなど、それこそが無礼極まりない。イクリマは彼の来訪に気づいた楽園の守護者へ一礼をすると、くちびるの端をそっとつりあげた。編んだ荒縄を持ち手とした麻袋には、砂漠で起き得る心身不調に対する薬の原料が詰まっている。イクリマがそうしてアアル村へ物資を届けるのは、これが初めてのことではなかった。
「まあ、いつもすみません。本当は私たちが行商人の方へ依頼をしなくてはいけないのに」
「元より、砂漠へ帰る用事があったものですから。……それに、三十人団の方からお伺いしました。スメール内を行き来する行商の数が減っている、と」
イクリマのくちから出自を明かしたことはない、そのためアアル村の人間の多くはイクリマが砂漠の小さな集落の生まれであると信じている。それもまた事実ではあった、だがその後ろにもうひとつ。砂漠の奥地へ坐する存在に、恐らくキャンディスは気づいているのだろう。だから彼女はセトスとイクリマが多くを語らなくとも、彼らが楽園へ立ち入ることを許している。
「そうだったんですか。確かに、いつもよりキャラバンの訪れる頻度が低いとは思っていましたが……」
「どうやら、雨林で明るくない話があるようです。ここまで被害が及ぶことはないと思いますが……念のため、キャンディスさんにはお伝えしておこうかと」
だからこそ、せめて。多くを語らない同胞の来訪を許した村が、不必要に蹂躙されることがないように。止まった物資の供給路を呟けば、キャンディスは至上のひかりを宿す瞳を物憂げに曇らせた。
「ありがとうございます、イクリマさん。村の子どもたちにも、気をつけるように言っておかなければなりませんね」
「ええ。それなら、おれが伝えておきます。子どもたちのところには、あとで顔を出すつもりにしていましたから」
幸い、アアルの幼い子どもたちはイクリマによく懐いてくれている。イクリマがアアル村を訪れると、子どもたちは決まって彼を囲って話をねだるのだ。昼下がりには神からの訓話を、夜には寝物語に御伽噺を。
今日は賢王の英雄譚や七賢者の問答ではなく現実に即した忠告を語り聞かせることになるけれど、アアルの子どもたちは聡明だ、その必要と所以を正しく理解してくれるだろう。それならばと身を翻そうとしたところで、慌てた声に呼び止められた。
「イクリマさん、それでしたら荷物のほうは私で預かります」
「お気遣いありがとうございます。けれど大丈夫ですよ、重い荷ではありませんから」
キャンディスはどうやらイクリマを気にかけているようだったが、そう気遣われるほどのことをしているわけでもないのだ。微笑とともにキャンディスの気遣いから身を引こうとするのだが、その隙間は彼女に迷わず埋められる。「それなら、私がマルフさんのところへ持っていっても問題ないですよね?」その声はこころなしか硬さを帯びており、イクリマは思わず目を丸くさせた。
「それは、ええと……」
「貴方はアアル村を気遣って、ここまで足を運んでくださいました。帰るついでとはおっしゃいましたが、本当にそれだけなら薬も忠告もいらないでしょう。そのうえで客人である貴方だけを方々へ走り回らせるだなんて、私が納得出来ません」
きりりと目をつりあげたキャンディスは、どうあっても己の意見を譲るつもりはないらしい。生薬を届けることも、子どもたちと話すことも、イクリマ自身が望んだことだ。だから彼女が気に病む必要はないのだが、それに納得することが出来ない様は義理堅く真面目なキャンディスらしい言い分であった。
「……わかりました。ではすみませんが、こちらをマルフさんへお渡し願えますか」
「ええ、お任せください」
イクリマが意固地になる必要もなかったため、彼は肩から下ろした荷物をキャンディスの細腕へそっと託す。彼女はそれを両手で受け取ると、そのかんばせへにっこりと美しい笑みを浮かべてみせた。
「あと、よければまたこちらへお戻りくださいね。冷たい飲み物を用意しておきますから」
「いつもすみません、ありがとうございます」
彼女ほどの人物の手を煩わせることは、イクリマの肩身を少しばかり狭くさせる。けれど彼女にそう望まれてしまっては、断ることも出来なかった。キャンディスからの厚意が得難いものであることには間違いなかったし、黄金の瞳は肯定以外の返事を見失うほどに強いひかりを宿しているから。