ランバド酒場の片隅で、友人の言葉にただ頷く。イクリマがピタを咀嚼している間も、同伴者たる青年のくちから溢れる言葉は止まらない。まるで砂漠を覆う砂粒たち、もしくは雨林に降り注ぐ雨のよう。絶え間なく続く音の連なりに首肯を返しながら、イクリマは口内の食事を嚥下した。
「……それはまた、随分な大仕事だ」
「本当にな。たまにいやがるんだ、尻尾を掴ませないやつが」
普段はスメールシティの警護を務めているタヘルがここのところシティを離れていたのは、スメール各地に対し三十人団が大規模な警護体制を取っているからなのだという。先日ようやく帰還した友人曰く、シティに向けて伸びた各地の街道で通行人を標的とした強盗事件が多発しているとのことだった。
「でもそれって、同一犯なのか? 街道各地で事件が起きているのなら、相手の行動範囲は相当広いことになりそうだけれど」
「確証はないが、大元は同じだと思うぜ。襲撃の手口が似通ってるし、被害の程度もだいたい同じときた」
「それはそれは……」
現在のところ、スメールシティで不審者の目撃情報や不穏な事件の通報は三十人団の下に届いていない。そのためシティの警護を減らしてでも街道の監視を強化する必要があると判断され、タヘルもガンダルヴァー村からシティにかけて伸びた街道の警護に当たっていたそうだ。今日一日は休養日として与えられたが明日はシティの警護を行い、明後日にはシティへ帰還した同僚と入れ替わるかたちでまた街道の監視に向かうのだという。街の安全を守り続ける同胞へこころから労いの言葉をかければ、タヘルはようやく眉間に寄せていた皺を和らげた。
「でも、不思議なものだな。襲撃犯の組織はそれなりに大きそうなのに、手がかりがないとは」
「ったく、不気味なもんだよ。マハマトラの捜査も始まったから、じきにわかるだろうけどな」
スメールにおいて三十人団が担っている役割は治安維持としての武力であり、そこに能動的な他者への攻勢は含まれていない。有事の際の警護は彼らの務めだが、有事を起こした首謀者の捜索と確保はマハマトラの管轄となるのだ。
だからこそマハマトラが機能し始めるまでの間、三十人団は正体不明の襲撃犯からの防衛を強いられることとなる。それがタヘルの顔に浮かんだ色濃い疲労の原因であり、眦に滲んだ安堵なのだろう。マハマトラの介入とはすなわち、事態の好転を示している。
「それに、ある程度でかい規模の組織のくせして手がかりがないとなったら、逆にそれが手がかりだ。少なくともやつらは、赤絹を持っていない」
「……そうか。それは……喜んでいいことなのか、悩ましいけれど」
「俺らはいいだろ。少なくとも、砂漠の民が無意味に疑われる可能性はなくなるんだ」
無論、その立場を隠すために赤き誇りを後ろ手に回した可能性もあるだろう。そして真実はきっと、イクリマやタヘルの手のうえに落ちてくることはない。それならば重要なのは真実よりも、それが明らかになるまでの緊張と警戒の矛先だった。
三十人団は恐らくいままで、幾度となくその偏見に虐げられた経験があるのだろう。雨林の民を守る立場にありながら無法者の同胞であると見做され、守るべき民に恐れと侮蔑の瞳を向けられたことが。だからタヘルは、そう息を吐いたのだ。
「あいつ、確かいまは留守なんだろ? その間にシティでお前の身になにかあった、なんてこと、考えたくもないからな」
「ううん……さすがにそれは、心配しすぎじゃないか?」
「ぬかるんでもない土に足を取られてこけたやつがそれを言うのか?」
「頼むから忘れておくれよ、もうふた月も前のことだろう」
同胞からの配慮は喜ばしいものであったが、つけ加えられた言葉にイクリマは小さく頭を抱える。最近ではそのような失態も随分と減ったのだが、大の男が子どもでもしないような失敗をした様子は容易く他者の記憶から消え去ってくれないようだった。
そのことも相俟ってか、タヘルは特にイクリマへの庇護意識を露わにする。その厚意は有難くも面映い心地で受け取りながら、食事を終えたふたりはどちらからともなく席を立った。ランバド酒場は日の高いうちから食事を提供しており客入りも上々なため、あまり長居していては店へ迷惑をかけてしまう。
「あれ、イクリマじゃないか」
そこでふと名を呼ばれ、イクリマは顔をあげる。視線を滑らせた先では美しく艶やかなフェネックの耳が揺れており、その瞳を自然と緩ませた。
けれど浮かべた笑みは、次の瞬間には硬直する。その一瞬でイクリマは視野から伝達された視覚情報を処理し、また微笑めいた表情を作りあげた。
「こんにちは、ティナリさん。……アルハイゼンさんも」
聡明で誇り高いティナルの末裔と、もうひとり。イクリマより幾らか背の高い男にも一礼をすれば、特徴的な色彩の瞳が僅かながらその形状を変化させた。
「……ティナリさん?」
「あ、ああ、いや、ごめん。こんにちは、イクリマ。今日は、彼は一緒じゃないんだ?」
「はい。いまは仕事に出ていまして」
言葉を返さないアルハイゼンは想定内だが、イクリマへ呼びかけた当人であるティナリの無反応は些かに予想外。微かに伏せた顔をあげながらそうっと名を呼べば、ティナリはその瞳を瞬かせたのちにイクリマの知る彼らしい笑みを浮かべてみせた。
それから幾らか世間話を重ね、彼らの言葉に淡く頷く。疲労が滲むタヘルの顔にはティナリも思い当たる点があったのだろう、労りの瞳が傾けられていた。
「じゃ、俺らはそろそろ行くから。あんたらに言うことじゃないだろうが、道中はくれぐれも気をつけろよ」
「うん、忠告ありがとう。ガンダルヴァー村のレンジャーたちにも伝えておくよ」
「そうしてくれると助かる」
やがて立ち話を終え、イクリマはタヘルに連れたつかたちでその場を離れようとする。いまから食事をするらしいティナリたちへ頭を下げ、少しの間をおいて緩やかにあげた視線の先では、アルハイゼンがその瞳をたわませていた。そこに言葉はない、けれど微かな変化は饒舌にイクリマへと揶揄を向けている。
「……なにか?」
「いいや」
「そうですか。では、失礼致します」
「ああ」
シティ内の移動には同伴者が必要なイクリマへ向けられた、言葉を伴わなくともそれらと同質の感情を込めた瞳。不躾な態度を睨む代わり、形式的な微笑を返して彼の横をすり抜ける。酒場の扉へ手をかけていたタヘルを追いかけて内外の境界線を跨ぎ、晴天の下でささやかに息吐いた。
「お前、あの書記官と知りあいだったのか」
「ああ、うん……少し。困っていたところを、助けて頂いて」
アルハイゼンの高い認知度は教令院外においても変わらないらしく、タヘルは丸くさせた目をイクリマに向けている。彼の言葉に小さく頷きながら事実を当たり障りなく伝えれば、へえ、と物珍しそうな声をあげられた。
「あの書記官がお前を、ねぇ。道案内でもしてもらったとかか?」
「まあ、うん、そうだな。教令院までの道を」
「ああ、それなら確かに。俺らがいない間にお前が迷子になってないか心配してたんだが、教令院のやつにも頼れるなら大丈夫そうだな」
何気ない笑みと言葉には、イクリマを慮るタヘルの胸のうちが明瞭に滲んでいる。その思い遣りに眦をほころばせ、イクリマは喧噪のなかで僅かに囁いた。「でもやっぱり、お前たちのほうが頼りに行けるよ」厚意への感謝を伝える代わりに、信頼を言葉へ変換する。三十人団の青年はそれに喉を鳴らして笑うと、イクリマの背を軽く叩いた。
「それじゃお前のためにも、事件解決に協力しないとな」
「でも、まずはゆっくり休んでおくれよ」
「わかってるよ。無理を押して周りに迷惑かけてちゃ意味ないからな」
そうして友人と連れたちながら、胸中でひとり思考する。彼らがいなかった夜のことは、きっと、くちを噤んでいるべきなのだろう。どれほど迷子になっていたかを伝えてしまえば、気のいい友人に余分な心配をかけてしまうだろうから。