どうか扉を叩かないで - 3/3

 ささやかな足音を引き連れて静謐とした廊下を進み、ノックののちに扉を両手で押し開く。教令院の業務の中核を担う空間は冷ややかに澄み渡っており、その洗練された空気は一種の心地好さを孕んでいた。開いた扉の隙間に身を滑らせて、今度は後ろ手にそこを閉める。小さな身体を用いて一連の動作を済ませれば、部屋の主が特徴的な色彩の瞳を僅かに眇めた。
「なにか御用でも」
「大した用ではないわ。でも、あなたにしか聞けないことよ」
「そうでしたか」
 ナヒーダの突然の訪問にも、アルハイゼンが動じることはない。表立った変化が想定の最小値に収まる様は、恐らく彼の美点だろう。ナヒーダは書記官の執務室を静かに進む、それを視界の端に留めた彼がくちを開くことはない。沈黙はアルハイゼンから差しだされた敬意だと理解していたから、ナヒーダは有難くそれを受け取った。
「あなたにお願いした件はどうなったかしら、と思って」
「さて、どの件でしょうか」
「大樹になってあげてほしい、とお願いした件。あなたの枝葉が、鳩の止まり木になっていればいいのだけれど」
 いまから少し前のことだ。ナヒーダはいまと同じようにアルハイゼンの執務室へと自ら訪れ、彼にひとつの祈りを託した。かつて雨林の民が犯した罪を未だ憎みながらもその中核へ翼をはためかせることを決めた、一羽の鳩。過ぎるほど使命に忠実な姿は、痛ましくも、哀れましくも映った。だからナヒーダは、彼の庇護を決めたのだ。彼もまた、クラクサナリデビが愛するスメールの民なのだから。
 雨林の奥地、教令院の内側となれば彼の主人の手も届かない。その彼に代わり、鳩の翼が折られないよう守ること。けれど深く立ち入ることはせず、必要に応じて必要なだけ庇護すること。ナヒーダの祈りを、アルハイゼンは淡々と受け取った。だからその先を知りたくて、彼の執務室にまた訪れたのだ。
「学生からの不当な要求と発言には注意喚起を行いましたが、それ以外は特になにも」
「そう、なら彼と喋ったのね。あなたの目から見て、あの子はどうだった?」
「記憶力という一点においては優秀ですね、彼ほど文献の記憶に長けた人材は教令院でも類を見ない。それだけに、惜しくもある。彼は記憶力に優れていますが、それだけだ」
 アルハイゼンの端的な言葉は鳩――イクリマとの接触が前提に含まれている。畳まれた箇所を開かせんと首をかしげれば、彼は浅く息を吐きながら自らの所見を述べた。それにナヒーダは首肯で答え、続きを求める。アルハイゼンは僅かに眉を顰めたが、それには笑みを返答とすれば、彼はそれ以上の反論を諦めたようだった。
「創造性に乏しく、自我が薄い。文献の記憶に特化した弊害でしょう。あれほど正確な記憶が可能であれば、本来、得た知識を適切に扱うための強靭な精神力と判断力が必要となる。ならば強固な倫理観を構築するより創造性を手放すほうが、遥かに効率的だ」
 あくまで、ただ記憶することだけが目的であるとするならば、という仮定に基づいた見解ですが。
 アルハイゼンは単調な声で分析し、ナヒーダはそっと息を吐く。彼はイクリマのことをなにも知らない、ただナヒーダが庇護を依頼した研究生であるということを除けば。だがアルハイゼンはその事実と、実際に見聞きして得た情報だけで、真実へと肉薄した。彼は、イクリマが記憶するだけの存在であることを既に想定している。
「……あなたは、彼をどう思った? 惜しい、と言っていたけれど」
「別にどうとも。俺が彼の指導教員であり、彼が正規の学生であるのなら、必要に応じて指導します。だが学生の指導は俺の仕事ではないし、彼にその意思もない。彼に介入する理由と必要性がありません」
「彼の創造性が育まれたら、あなたにとって望ましい知識を共有してくれるかもしれなくても?」
「彼は他者との知識の共有を望んでいない、そのために創造的思考を手放したのでしょう。彼にそうさせることは、当事者の意思を無視して第三者の意図を強要することになる」
 事実を知らぬまま真実を捉えた人物へ問いかける。そこには一片の好奇心があった、それは人間のこころを紐解かんとするナヒーダの我欲であったかもしれない。けれど多分には、それ以外。ナヒーダの投げたボールを受け止めたアルハイゼンはしかし、それを彼女へ投げ返さず足元へと転がしてしまう。彼はペンを手に取って、問答の閉幕を促した。
「俺は別に、望まない相手を手段に用いてまで果たす目的を持っていない。それだけのことです」
 そうして投げ返されないボールこそが、ナヒーダのもっとも望んだもの。くちびるから自然と笑みがこぼれ、胸のうちが柔らかなあたたかさに満たされる。ええ、あなたの言う通りだわ。そう頷くと、アルハイゼンは僅かに息吐いた。
 彼は聡明な人物だ。蓄えた知識は深く、それらに対する誠実さを失わず、その知見と優れた瞳で以て促されずとも真実へと到達する。そしてそのうえで、彼はどこまでも人道的な判断を下す。ペンとともに告げられた言葉が、なによりもそれを語っていた。
「……やはり、あなたに任せてよかったわ」
「そうでしょうか。彼は俺を蛇蝎の如く警戒していますが」
「あら、それは大変。あなたは安全な大樹だと、彼にわかってもらわなくちゃいけないわね」
 だがそれが伝わっていないらしい不幸にナヒーダは眉を顰め、思考を緩やかに巡らせる。『沈黙の殿』の若きリーダーとお茶会でもして相談してみようかしらと考えながら、ナヒーダはその身を翻した。これ以上ここへ留まっては、そろそろアルハイゼンに叱られてしまう。
「どうかあなたはそのままで、でも、鳩があなたの枝を止まり木に選ぶように。果実をひとつ、実らせてみるのもいいかもしれないわ」
 言葉の間で育む予定にしていた最後の選択肢は彼に委ね、ナヒーダは閉じた扉を両手で開く。彼女を見送る苦い視線に甘い笑みを差しだせば、これ見よがしに深い溜息が扉を閉めた。
 書記官の執務室へ置き去りにした言葉は彼を困らせてしまったかもしれないが、きっと問題ないだろう。彼が人道に基づいた善良な人間であることを、ナヒーダは誰よりも知っている。