どうか扉を叩かないで - 2/3

 ファルークの道案内を受けて戻った雨林の拠点は静まり返っており、家主の不在をイクリマへと告げている。セトスは今頃、その伸びやかな意識を雨林の豊かな知恵のなかへ解き放っているのだろう。好奇心を満たす鮮やかな歓喜がセトスを満たしているのであれば、それがイクリマにとってはなにより喜ばしかった。
 だからこそ、彼に余分な負担をかけてしまうことを申し訳なく思っては口内に苦味が広がる。しかしそれに関しては、沈黙が最たる不義となるのだ。イクリマはざらついた感情を舐めながらキッチンへ向かった。無力感と罪悪感に打ちひしがれていようとも、するべきことはやるべきなのだ。少なくとも自分たちには、食事が必要なのだから。
 努めて機械的に夕食の支度を進めていれば、日暮れの頃に扉が開く。「ただいま」届く声は穏やかだったから、イクリマは瞳を眇めながら彼を出迎えた。今日という日は、彼にとって快いものであったのだろう。
「おかえり、セトス」
「うんうん、ただいま。今日はカレー? いい匂いがしてる」
「ああ、この間のスパイスを試してみようと思って」
 年齢相応の無邪気な笑みとともに腹部を擦るセトスの姿は微笑ましく、くちびるからは自然と微笑がこぼれ落ちる。
 だが、夕食の前に伝えるべきことがあったから。こぼした笑みを払って、目を伏せる。その仕草だけで有事を察したのだろう、セトスの表情から稚さが消え去った。
「けれど、首領。その前に、ご報告がございます」
「うん、聞くよ」
「……気取られました、おれの中身を。警告すれば、一応は引き下がりましたが」
 『沈黙の殿』の一員として、そして砂漠の叡智を血肉へ刻むものとして、それは首領へ報告されるべき出来事だった。イクリマの持つ記録は『沈黙の殿』の蔵書に等しく、限られた人物以外に開かれることはない。その権限を持たない人間が彼の内側へ踏み入ろうとするのなら、それは『沈黙の殿』への侵略行為に他ならなかった。
 セトスは柔らかな呼吸とともに、自身の立場を入れ替える。砂漠と雨林を渡り歩く青年から、砂漠の叡智の継承者へ。イクリマは若き主君へ首を垂れ、伶俐な瞳へ跪く。
「……詳細を教えて」
「承知致しました、記録を再生します。……記録一、五日前、十一時二十六分、知恵の殿堂。話者、イクリマ、アルハイゼン、教令院所属・生論派学生――名称不明。学生、行動。イクリマへ接近。学生、発言……」
 そしてまた、イクリマ自身も自らの機能を起動させる。記録されていた事象の再生を、セトスは表情のない顔で聞き入れた。

「……記録の再生を終了します」
 すべてを語り終え、細く息を吐く。呼吸を繰り返す、そうして意識を手繰り寄せる。手放していた自我を自身の内側に嵌め込み、その感覚とともに閉じていた瞼を持ちあげる。意識の捉えた視界では、深く考え込んだ様子のセトスの姿が映っていた。
「ふうん……成る程ね」
「……申し訳ありません。おれの発言が軽率であったばかりに」
「いいや、君に落ち度はないよ。彼が優れていただけのことだ。まさかそこまで観察眼が鋭いとはね、教令院の代理賢者を務めていただけのことはある」
 イクリマはアルハイゼンが信用に足る人物であるか確認するために、彼の記録していた情報を提示した。だがその行動を取らなければ、アルハイゼンはイクリマが持つ記憶のいびつさに気づくことはなかっただろう。己の失態にくちびるを噛み締めれば、それを咎めるようにくちもとを撫でられた。セトスの指がイクリマのくちを覆ったから、それを受け入れるべく顔を彼へと傾ける。セトスはイクリマのくちびるを何度か撫でると、その指をやがてほどいた。
「君の警告で追求をやめたんだ、それがただの脅しじゃないって理解したんだろう。彼は草神も信頼するほど聡明な人物のようだからね」
 そして、セトスの指が緩やかにイクリマの身体を下る。くちびるから顎を撫で、喉を辿る。そこは、古い金の飾りがついた首輪に塞がれていた。いままでと変わることなく、これからも変わることなく。
「心配しなくていい、きっと彼はこれ以上の追求をしてこないよ。もし二度目があったとしても、今日と同じように断るだけでいい。それ以上のことがあったら迷わず逃げて、また僕に報告して。そうなったとき、対処するべきは僕と草神になるからね」
 だから、と、セトスは呟いた。古い意匠の首輪を撫でられるから、イクリマは首を差しだすように顎を逸らす。それでも喉が露わになることはなく、金属越しに喉の凹凸へと触れられた。
「……だから、イクリマ。決して、これを使っちゃいけないよ」
 低い声と冷たい瞳がイクリマへと厳命する。それは『沈黙の殿』の首領が下した判断であったから、イクリマに逆らう理由はない。首を差しだしたまま、イクリマは静かに目を閉じる。
「かしこまりました。首領の仰せのままに」
 それはイクリマの命を奪い、砂漠の叡智を守るための装置だ。彼が簒奪者の手に渡った場合、致死性の毒がそこから体内へ注入されるようになっている。知欲の怪物がイクリマに喰らいつくようであれば、装置の起動は当然ながらイクリマの取るべき選択肢として存在していた。
「大丈夫だよ、イクリマ。悪夢は所詮、ただの夢だ。君の恐れていることは、現実にならない」
「……はい、首領」
 だが、他ならぬセトスがそれを取りあげてしまったから。イクリマは祈るように両手の指をそっと組む。
 否、それは祈りに違いなかった。